その日の晩、岐阜県某所。
まだ日本にもこんな場所が残っていたのかと思えるほどくそ田舎な山道を、俺はママチャリで爆走していた。
情報によるとここより更に人里から離れた山の中を目指してターゲット…… 葵ちゃんは移動しているらしい。
恐らく、そこで自決するつもりだろう。
「まぁ、いつかは来るとは思ってたけどさ……」
移動中に検知された魔力はＡ級、上級悪魔レベルだ。この異常な魔力の高まりは身体の悪魔化が最終段階まで進んでいることを意味する。
そうなったら最期、人間としての自我を失い、何もかも忘れてただ獣のように暴れまわるだろう。
自決するという目的も今頃は忘れているはずだ。
……こうなることは分っていた。
俺も回りも、そして葵ちゃんも、承知の上で最期まで抗ったのだ。
最期まで諦めずに解決法を探す、でももしこうなってしまった場合は、何も躊躇わずに楽にして欲しい。
そう本人から頼まれてもいた。
分ってるさ、救える命と救えない命があることはあの戦いで散々学んだ。元気なうちに別れの挨拶も済ませてある。
けど、この胸にくすぶる気持ちだけは、どうしても割り切れなかった。
「畜生、悪魔ってヤツはまだ俺たちを苦しめるのかよ……っ！」
山道が終わり、登山家が挑戦するような獣道に変わってもなおママチャリの速度は緩めず強引に登っていく。
葵ちゃんは決して悪い子ではなかった、長瀬に恩があるとかで奴のために戦っていたが、非常に素直で良い子だ。
たまたま悪魔に見初められたと言うだけで死んで良いはずが無い。
できることなら助けたかった。
こんな悲しい結末など、どこかのゲームのようにぶち壊してやりたかった。
だができないのだ。
肌が泡立つ、今はもう全身に感じる悪魔の強力な魔力が、楽観的な希望を全て打ち砕いていく。
「すぐ行くからちょっと待ってろよ！」
もし彼女が目的を覚えていたとしても、悪魔化が進んだ体はもはや自分では殺せないはずだ。
だから誰かが行って止めを刺すしかない。今動けるのは俺だけだ、だから俺がやる。
そして事が終わったら。
やっぱり、力を遺す努力をしよう。
こんなことが二度と起こらなくて良いように。今俺が切に願うのは、それだけだったから。
程なくして目的の場所までたどり着いた、ほとんど山頂近くだ。見下ろせば遥か遠くにポツポツと都会の光が見える。
恐らくあと100ｍも進めば苦しんでいる葵ちゃんが居るだろう、鬱蒼とした木々の隙間から洪水のように溢れてくる魔力がそれを物語っている。
そして、そんな場所にそいつは居た。
「今更なにしに着やがった、長瀬」
黒い血痕のついた白衣に、疲れきった様な白髪。そして同じように疲れた表情なのに目だけがどこまでもギラギラしてやがるおっさん。
長瀬明。
"正義"を掲げて『月光』に対し反逆を起こし、ロードオブアビスとして俺たちの前に立ちはだかった男が待ち構えるようにそこにいた。
だが、少し違和感がある。
若干前に見たときよりも体格がでかくなっているような気がする。そして、その首筋から何故かチューブのような見慣れないものが伸びていた。対峙したときの圧力も段違いだ。
というか、コイツは何で悪魔みたいな魔力を発してやがるんだ？
いぶかしむ俺を口元だけで嘲笑うように、そいつは口を開いた。
「あれだけ息巻いていながら結局救えなかったお前たちを嗤いに来た、というところかね」
言葉も無い。
その場から消えるほどの速度で長瀬に詰め寄った。
そのまま自分でもやりすぎたと思うほど全力で叩き込んだ拳を、そいつは蚊でも払うように手の甲で逸らしやがった。
そしてほぼ同時に大砲みたいなヤツの膝がへその上に突き刺さり、血塊を散らして体が浮く。ここで身を捻っていなかったら続く拳で顔面を砕かれていただろう、風圧だけで頬が切れる拳を何とかやり過ごし、辛うじて地面を転がった俺はそのまま必死になって距離を取った。
勝てない。
それだけは分った。
「この5年、遊んでいたようだな」
「く、ゲホ。知らんうちに悪魔になってやがったお前よりマシだろ」
断っておくが5年間遊んだつもりは無い。
だが、長瀬はそれ以上に強くなっていた。悪魔も居なくなったと言うのに、あいつはそれを自分に取り込んででも強くなろうとしていたらしい。恐らく命がけだろう。
そこまでして"正義"を求めて何がしたいのだろうか。
俺にはまるで理解できない。
だが、ヤツもここにいると言うことは、結局あいつも葵ちゃんを救い出す術は見つけられなかったということか。
「転がっているなら命は奪わん。精々見学してるんだな」
それだけ言うと、やつはこの先に向かって歩いていった。
きっと、自分を『マスター』と呼んで慕ってくれていた少女を殺してやるために。
だが俺にはそれをとめる理由がある。
「……くっそ」
もうひとつ血塊を吐き捨てて立ち上がると、よろめきながら俺もその後を追った。
血も涙も無い。
思わずそう思ってしまうほどに、長瀬は容赦が無かった。
森の中には熊と犬を足して割ったような青い獣がうずくまる様にして座っていた。
葵ちゃんの成れの果てであろう獣を、長瀬は出会うなり一瞬でその四肢を撃ち抜いた。
耳が割れるような獣の絶叫が迸り、俺は思わず目を背けたくなった。
葵ちゃんの話では、人工悪魔たちは任務以外では家族のように共同で暮らしていたらしい。
その家族には長瀬も含まれると聞いて驚いた記憶もある。
『だから本当は、お父さんって呼びたかったんだけどね』
葵ちゃんはそういって寂しそうに笑ってた。
獣の絶叫などまるで聞こえていないかのように長瀬は一足で距離を積めると、反撃の拳をすり抜けその巨体の内側に潜り込んでいる。その動きには一切の遅滞も迷いも無いように見える。
奴はその勢いのまま獣の脚を払い、瞬きする間に馬乗りになって二丁拳銃を僅かに少女の面影の残る胸元に突きつけていた。
それを引き絞るだけですべてが終わる、そんな一瞬の空白。
こヤツは躊躇なくトリガーを引くだろう、そのときだ。
「長瀬っ！ やめろっ！！！」
思わず俺は叫んだ。
その瞬間、俺の右の太ももが弾け飛んだ。
「う、がぁっ！？」
「まだ情に流されるのか。これ以上妄言を吐くようなら君から期末するぞ」
「……ち、げぇよっ！ お前、"魂砕き（ソウルブレイカー）"を使う気だろう！ そんなもの使ったら、葵ちゃんの精神まで壊しちまうだろうがっ。最期ぐらい、楽に死なせてやれよっ！ 娘なんだろっ！」
「…………」
一瞬、ほんの僅かにだが、長瀬の表情が変わったように見えた。
「……完全に実体を持って悪魔化した獣を葬り去るには、これしかない。実弾では心臓に届かん。君の鉄棒でも威力不足だ」
「わからねぇだろそんなもの！ 俺にやらせろ！ 俺が死んでもどうにもならなかったらで良いだろ！ それを使うのは！」
力の限り吼えた。
俺もヤツの能力を込めた弾丸に撃たれたことがある。奴の能力は精神を砕く銃弾を放つことだ、アレで撃たれると死ぬより辛い目を見ることになる。心が弱ければそのまま心から死ぬくらいだ。
あんな苦しみを、これから逝くやつに背負わせるわけにはいかない。
それを知ってるためか、長瀬は僅かにだけ思案すると道を開けるよう葵ちゃんの体から飛び退いた。
「君が死んでくれるなら好都合だ」
「ハッ、お前の都合よく進ませたことが一度でもあるかよ……っ！」
動かない右足の代わりに鉄棒を杖にして、その青い獣と対峙する。
撃ち抜かれた四肢は早くも回復しつつあるようで、俺を睨みつけて涎を垂らしながらゆっくりと起き上がろうとしていた。
そこにかつての葵ちゃんの面影はまるで無い。あるのは早く肉を食いたいと言う食欲だけだ。
必死に面影を探そうとしてる俺がバカに思えるほどに、何も無かった。
それでも俺は叫んだ。
「手紙、読んだからな。バカ。迷惑かけるから一人で消えますとかアホなことを言うなよ！ 迷惑だなんて俺も拓己も珮李も旋もたつきも雫もジローも鷹もさくらだって誰も思っちゃいねぇよ！ いいかっ、仲間や友達が苦しんでいたら問答無用で助ける！ それが『月光』だ！ そしてお前は友達だし仲間なんだよ！ ちっとは迷惑掛けろ、一人で死ねないなら俺たちを頼れ、良いんだよそれで！ 絶対最期まで看取るからな！ それとおぶっ！？」
長台詞を言ってる間に殴り飛ばされ、木の幹に強かに背中をぶつけた。一瞬、息ができなくなる。
何だよ、せっかく頑張ったのに。
「……死んだか？」
「うるせえよ生きてるよっ！」
背中の痛みをこらえながら、鉄棒を杖に根性で立ち上がる。
長瀬の蹴りに比べればでこピン程度の衝撃だ、打ち身はあるが動きを阻害するほどじゃない。恐らく無意識下で葵ちゃんが力をセーブしているのだろう。
俺は鉄棒の先端をつまんで能力を行使する。俺の能力は"性質変化"だ、鉄でも触れただけでアイスクリームみたいになるし、それをドリルみたいに鋭くしてまた固めることもできる。それを掴むと剣道で言う片手平突きの構えで青い獣と対峙する。
あとてめぇ長瀬、死んでなくて残念だみたいな顔してんじゃねぇ。
「行くぞ畜生！」
左足で地面を蹴り、幅跳び並みの距離を一足で跳んで獣の間合いに入る。飛び込む俺に対して反射的に鉤爪が飛んでくるが、そいつは中国雑技団みたいに股裂きから顎が地面に着くほど上半身を下げることで回避する。
「グルルッ！？」
獣からは一瞬消えたように見えたのだろう。腕を振りぬいた姿勢で辺りを見渡している。その隙に上体を跳ね起こしてヤンキー座りみたいな姿勢を取ると、全身のバネを一気に開放して獣の胸板に鉄の杭を突き立てた。
ズブ、と嫌な感覚が手に染みる。だが表面に突き刺さるだけでとても中まで届いた感がしない。車のタイヤに画鋲を刺してるようなものだ。逆に俺の方が右足から血が噴出してダメージを被ってる感じだ。
「脚がいかれた状態でそれ以上はムリだな」
「ならこれでどうだ！」
鉄棒を能力を使って鉄棒を半ばで切り離し、俺をひっ捕まえようとする太い腕を今度はイナバウアみたいに身を捻って掻い潜る。
再び能力を行使。切り離した鉄棒をレンガみたいな塊にして、思いっきり振りかぶった。
「うおりぁぁぁ！！！」
釘とトンカチの要領で突き刺さった鉄杭を力の限り打ち叩く。
そろそろ右足に力が入らないがそんなものは無視してただ全力を込める。
すると、今度こそ銃弾では貫けないような胸板を突き破り、杭の先が反対側から飛び出した。
再び獣の地響きのような咆哮とも悲鳴ともいえない絶叫が轟く。
そしてその巨体が今度こそぐらりとよろめいた。
これで確かにあっち側へと逝けるだろう、一度悪魔に捕まった魂がどうなるかは分らないが、その辺りは意外と強かな葵ちゃんのことだから大丈夫だろう。
「約束、守ったからな」
心臓を破られて倒れる獣と一緒に、出血多量で俺もその場へ崩れ落ちた。
そのまま気を失うほんの一瞬、泣きそうな顔で笑う葵ちゃんの姿が見えたような気がした。
心の中でサムズアップした。
そして目を覚ましたとき、辺りはすっかり明るくなっていた。
失血のせいか酷く体が重い、もしかしたら一周して1日以上眠ってたのかもしれない。
……まぁ、緑いっぱい野生動物いっぱいの山の中で血だらけの状態で寝っころがってて良く無事だったものだ。
見れば傷口には最低限の止血処理と血止めの薬が塗られており、隣には動物避けの焚き火の跡があった、そのお陰で助かったのだろう。
……。
長瀬だろうか、やったの。
「……っ」
結構、日が高い。木々の梢から漏れ落ちる光に目を焼かれ、堪らず重い体を起こした。
節々が痛む中、何度も瞬きしながら辺りを見渡す。
場所は変わっていないようだ、鬱蒼とした背の高い木々に囲まれた森の中、まだ戦いの痕跡も残っている。
ふと、あるものが目に付いた。
十字架だ。一抱えはありそうな巨木の根元に小さな木製の十字架があった。木漏れ日のスポットライトを浴びて、タチアオイの花が隣で揺れている。
俺は心の中で何も持たずに此処まで来たことを反省した。
「帰ったら、皆でまた来るからな」
「是非そうしてあげてください、遠出してる拓己君や珮李さんとかは私の方で呼んでおきますので」
「うん、頼むよ霧咲さん……」
……霧咲？
俺は拳銃を撃たれてから避けるぐらいの勢いで振り向くとザザザーーッ！ っと怪我も忘れて距離を取った、全力で引いた。
だって声のしたほうに確かに見覚えのある眼鏡でスーツでいつもニコニコ笑顔の優男が。
死んだはずの霧咲が居たのだから。
「あー、猛君？」
「うわぁぁどうか成仏してください霧咲さんっ！ ノウマクサラマンダウンケンソワカ！」
「いや、あの落ち着いて、一応私生きてますから」
「え、じゃあつまり俺の方が実は死んでたんすかっ！？ いやぁぁぁっ、まだ彼女もできてないし奥義ニンゲンヘリコプターも伝授してないのにぃいぃぃっ！？」
まさかここは天国！？
いや地獄なのか！？
そんな風に騒いでると、不意に記憶まで飛びそうなほど強烈な異臭が鼻を突き、思わず咳き込んだ。
見れば霧咲が笑ってない笑顔で何か黒々しい缶を開けていた。
「げほっ、げほっ！ な、何すかこれ！」
「コンビーフです、何か食べれば落ち着いてくれると思って。今はお肉とか欲しいでしょ？」
「コンビーフ！？ 今そんな次元を遥かに超えた匂いがしたっすよ！」
「フフフ、限界を超えて寝かせてみたんです。私もこれは初めて食べる…… 禁断の領域を超えるってドキドキしますよね、猛君」
「死ぬよっ！ それ食べたら絶対死ぬよ！」
「じゃあ、食べない代わりに話を聞いてくれる？」
「聞きます何でも聞きます！」
俺がその場で正座すると、霧咲さん（幽霊じゃないらしい）はちょっと残念そうに黒々しい缶を胸元に仕舞った。
……一瞬缶から禍々しいオーラが見えたのは気のせいだと信じたい。
「先ずは、依頼完遂お疲れ様。さくら君が心配していたけど…… あ、それで私がここに派遣されたんですけどね？ その様子だとちゃんとやってくれたみたいですね」
「まぁ、最期は長瀬に持っていかれたみたいですけどね」
「十分ですよ、今回の件は彼にも責任がありますからこのぐらいの分担で丁度良い。変にどちらかだけで片付けて遺恨が残らなくて良かったと考えましょう」
そこまで聞いてようやく肩の荷が一つ下りた。
葵ちゃんは『月光』拘留中もずっと長瀬の身を案じていた、自分のせいで再び奴と俺たちがぶつかるようなことは避けたかっただろう。まぁちょっと喧嘩したけどさ。
「それはそうと、霧咲さん、生きてたんなら教えてくださいよ！ 俺たち盛大に葬式までやって大泣きして『月光』再編成して、って大変だったんですからね！」
「うん、それは本当に苦労をかけて申し訳なかったと思ってる。ただね、そのとき私は本当に死んでいたんですよ」
「え、じゃあ……」
ザザッとまた下がる。
「違う違う！ 死んだけど、生き返らされたんです。詳しくはいえませんが、万能細胞から作ったクローンに記憶を移植したんです。ただ記憶の移植に時間がかかるので5年間動けなかったんです。言ってみれば今ここにいるのは2人目の霧咲ですね」
「クローン？ それってもしかして……」
「ええ、長瀬と神埼高明が開発を進めていた人工悪魔量産計画の応用ですよ。結局神埼は長瀬も裏切って上層部と繋がっていたようですね。そしてその上層部は私が死んだ場合の保険としてこのクローンを用意していた…… 私も死んでみて初めて知りましたよ。業が深いものです」
まあ助かっただけ儲けもんですねアッハッハ、と笑う霧咲さんが心底凄いと思った。
「と、いうわけで。皆さんに苦労を掛けた分は働いて返しますよ。今度はただの『月光』の一員としてね」
「本部長には戻らないんですか？」
「皆が望むなら戻りますが、今はまだ早いです。今はさくらさんや貴方たちが一生懸命『月光』を変えてくれています、私はその変わった『月光』を見てみたい」
「……そっすか、じゃあ頑張らないとっすね」
「ええ、頑張ってください。応援してますよ。君たちならきっと良い『月光』を作ることができます」
俺は、月光をただの悪魔の残党狩り組織にするのではなく、もっと広い意味で、人々の役に立つ組織に変えたいと思っている。
普段は人々の細々した問題を解決する便利屋でもやって、どうしようもできない問題が起きたときは、異能の力を持ってこれに立ち向かう。そんな組織に。
そんなことを話したら、霧咲さんは「良いんじゃないですか」と笑ったのだった。
「さて、それじゃあ帰りますか」
「あ、その前に墓参りを……」
俺は十字架の前に屈むと、静かに手を合わせた。
近づいてみると、十字架の台座（小さいがちゃんと大理石のが用意されていた）に丁寧に名前が彫られていた。英語で書いてあるし長瀬のところはキリスト教なんだろうか。そういえば海外でボディーガードをやってたんだっけ。
「えーと、ナツメアオイここに眠る。……ナツメ？」
「葵さんの旧姓ですね。神埼は、神埼高明が実験のために彼女を預かった際につけられた姓のようです」
「……なるほどな。なんつーか、子供の気持ちが分ってるようで分ってないな、あいつ」
俺は能力を使って台座の文字をちょっとだけ直しておいた。
「長瀬葵、此処に眠る、と」
天地のハザマに咲いた華が、応えるように揺れている。
|