仏教関係専門掲示板
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掲示板管理者:空殻
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● 空殻の立場について /空殻 (03/07/26(Sat) 00:19) [11]
....● 茂木みのるさんの投稿 /空殻 (03/07/27(Sun) 13:52) [12]
........● で、再び私の立場ですが /空殻 (03/07/27(Sun) 14:54) [13]
............● Re[1]: で、再び私の立場ですが /みのる (03/07/30(Wed) 22:32) [25]
................● 残念ですね。 /空殻 (03/07/31(Thu) 14:46) [27]
................● 「汝もまた信仰を捨て去れ。」 /モンチー (03/08/02(Sat) 05:31) [29]
................● 仏教における「信」 /空殻 (03/08/12(Tue) 13:07) [38]
........● さて、さて・・・・ /モンチー (03/07/28(Mon) 06:57) [15]
............● お久し振りです、モンチーさん(^^) /空殻 (03/07/28(Mon) 17:32) [16]
................● 「彼女募集中」 /モンチー (03/08/02(Sat) 07:14) [30]
....................● 痛み入ります(^^) /空殻 (03/08/02(Sat) 13:57) [31]
....● Re[2]: 空殻の立場について /みのる (03/07/30(Wed) 22:43) [26]
........● 不邪淫戒について /空殻 (03/07/31(Thu) 14:46) [28]
............● ブッダにおける欲望論 /空殻 (03/08/10(Sun) 08:46) [35]
........● Re[2]: 空殻の立場について /大閑道人 (04/01/06(Tue) 12:59) [87]
........● Re[2]: 空殻の立場について /大閑道人 (04/01/06(Tue) 12:59) [87]
............● 学術的行為の意義 /空殻 (04/01/06(Tue) 14:49) [90]


親記事 / ▼[ 12 ] ▼[ 26 ]
NO.11  空殻の立場について
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/07/26(Sat) 00:19:12
□IP/ 4.60.144.241
一般掲示板で興味深い書き込みがあったのでこちらにも転載します。



[22] ご案内 投稿者:みのる 投稿日:2003/07/25(Fri) 21:44:16
   空殻さん、こんばんは。
 「彼女募集中」とは、あなたが真正の仏教徒ではないのにガッカリしました。
 それはさておき、あなたのご高説を伺いたくて、Yahoo!掲示板、「仏教について」No.4125に折角カキコしたのに、まだご覧戴けてないようですね。一応ご案内を。

---------------------------------------------------------------------
それはご愁傷様(苦笑) 投稿者:空殻 - 2003/07/26(Sat) 00:48:00
おはようございます。
朝一番、起きて掲示板見たら面白い記事があるのでとても喜んでます。
みのるさん、書き込み、ありがとうございました。
さて、私はこれまでに、一度として自分のことを真正の仏教徒、もしくは真正でなくとも仏教徒であるなどと申し上げたことはございませんし、仏教徒でないとも申し上げておりません。今後もそういった記述は避けるつもりですのでご了承ください。
したがいまして、私が「真正の仏教徒」である、もしくは「真正の仏教徒であると主張している」と仮定して「真正の仏教徒とはこうあるべきである」とご自分の価値観を勝手に相手に押し付けて、しかも勝手にガッカリされても困ります。こちらはただ学術的に仏教の研究をするサイトであって、私情をはさんで仏教を代弁するような場所ではない、ということをどうかご理解いただきたい。
それにしても、彼女募集中のどこが悪いのか(それが悪い、ということでがっかりされてるんですよね?)、非常に不可思議です。こちらこそ、みのるさんのご高説を伺いたいですね。



▲[ 11 ] / ▼[ 13 ] ▼[ 15 ]
NO.12  茂木みのるさんの投稿
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/07/27(Sun) 13:52:20
□URL/ http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835217&tid=ja965a4ka4da4a4a4f&sid=1835217&mid=4125
□IP/ 4.60.144.241
以下は、茂木みのるさんが私の「高説」を聞きたいがために、Yahoo掲示板に残したとされる投稿です。興味深いのでこちらに転載します。まずはご参照ください。




仏教に引導を! 2003/ 7/23 17:46 メッセージ: 4125 / 4147 投稿者: mminoljp (男性/川崎市多摩区)

 仏教を他の宗教と区別する重要な特徴を短い韻文でつづったものを「法印」と言い、四つあって「四法印」と言います。つまり仏教の根本義というべきものです。それはNo.3814に書きました、「一切皆苦 諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」 です。
 つまり、苦悩に満ちた輪廻のこの世界から解脱する修行法です。仏教ではこの世界は、十二の因縁という原因と条件が相寄って、「縁起の法」によって現象として仮の姿として現れているに過ぎず、恒常・不変の実体というものはない。「一切皆空」である。それを恒常・不変の実体と誤解して執着した欲望から苦悩が生ずるのであるから、悟りへの道は、
仏教の示す実践・修行(八正道)を通して、執着する欲望を完全に止滅させれば、静かな安らぎが訪れるというのです。

(1) ところで考えてみるまでもなく、今から二千数百年の昔、しかも熱帯のインド。厳しい自然の中で牛馬の如くに労働しても、満足な食事もできず楽しみ全くなし。悲惨な生活を強いられれば、
人々が輪廻転生を恐れ離脱を望むのは当然のこと。
 翻って物質的豊かさを極めた、山紫水明・気候温暖の現在の日本。殆どの人達は死にたくない、又生まれ変わりたいものと願っているのではないですか。あの大ペテン師の飯田何とかなんかは、この次どこに生まれ変わるかと想像するとワクワクするとさえ言っている。輪廻転生からの解脱は、この日本には無縁のこと。

(2) 今では全ての国民は、子供の誕生を心から祝福します。そして誕生日を家族みんなで祝います。(皆さんのご家庭ではどうですか?) そして世界一長寿国になったことを、喜んでいます。この国では、「生」は既に祝福の対象であって、「苦」ではなくなっています。

(3) 又皆さんの日常生活を振り返ってみましょう。欲望を止滅して生きていけますか? この世で実現したい夢、希望、願望があって初めて、現在や将来の生活設計ができるのでしょう? それに執着するな、ということは死ねということでしょ。廃人になれ、ということでしょ。
欲望止滅は現代社会には無縁のこと。

(4) では、人生苦の解決はどうか? 現代人は感情豊かになるように教育され、感情表現技術も文芸、音楽、絵画、演劇・・・など多方面で発達しています。苦しい時、 悲しい時には、思いっきり涙の涸れるまで泣くか、芸術・学問などでカタルシスをするより他ないのです。考えてもごらんなさい、感情を止滅させて肉親の死に接して涙も流さないような奴は化け物であって付き合えるものではないでしょう。

(5) それに、釈尊は苦からの解脱に<執着>しすぎたために、幸いにして涅槃に達し得た暁に、さて何をなすべきかに全く想いがいたらなかったのが最大の欠点でした。つまり早い話が、静かな安らぎの訪れた人達が只ゴロゴロしている、言ってみれば特養ホームの老人ばかりの集団を作っただけという結果になりました。(京都やその他の坊主どもを見ればご納得でしょう。)

 総まとめをしますと、あれやこれやで仏教の教えは二十一世紀以降に全く用を成さないものなのですよ。引導を渡して舞台から消えてもらうべきと愚考していますが、如何なものでしょうか?
(これは qookaku さんの 4098 に対する返信です)





ちなみに、下記は私による親記事です。




はじめまして。 2003/ 7/18 14:38 メッセージ: 4098 / 4148 投稿者: qookaku (26歳/男性/カリフォルニア)

はじめまして、仏教文献学専門サイト『密厳浄土』の管理人で空殻と申します。
仏教に関する議論のお好きな方がたくさんいるようなので、ついつい書き込んでしまいます。
以後、お見知りおきを。
(これは horon29 さんの 1 に対する返信です)



▲[ 12 ] / ▼[ 25 ]
NO.13  で、再び私の立場ですが
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/07/27(Sun) 14:54:42
□URL/ http://6927.teacup.com/mminoru/bbs
□IP/ 4.60.144.241
下記は、みのるさんの投稿に対する私の正直な分析の結果です。
これを読まれれば私の立場、ひいては同サイトの方針についても、そこそこご理解いただけるのではないかと期待しております。



客観的に申し上げますと、みのるさんの主張はまず論法的に自己崩壊している上、価値観からいってもきわめて一面的で視野が狭いです。
ただし、個人的に感想を申し上げますと興味深い見解だと思います。

さて、なぜ論法が破綻し、一面的で視野が狭いかを列挙すると次のようになります。

$(C(g(B「殆どの人達は死にたくない、又生まれ変わりたいものと願っているのではないですか。〜解脱は日本には無縁」 についてですが、もし仰るとおりならば少なくとも仏教における「人はアーラヤを楽しむ」という主張は間違っていないわけですね。 (講談社学術文庫刊・玉城康四郎著『仏教の根底にあるもの』の29頁によると、Ariyapariesana-Sutta[聖求経、しょうぐきょう]という仏典に「世間の人はアーラヤを好みアーラヤを楽しみアーラヤを喜ぶ」とあるそうです。ちなみに、この記述には「そのような人々にとっては、この道理はとても理解できない」という言葉が続きます)
また、おっしゃるところの「殆ど」は、数字で表すことができるわけでもなく証拠も不十分です。あくまでもご主張に即した希望的憶測の域を出ません。しかもそういった時点で「すべての人がそうであるとは限らない」ことを主張してしまってます。
つまり、「かならずしも日本には無縁ではない」 とおっしゃっておきながら「無縁である」 と主張しているわけです。
矛盾してますね。

$(C(h(B「今では全ての国民は、子供の誕生を心から祝福します。そして誕生日を家族みんなで祝います。(皆さんのご家庭ではどうですか?) そして世界一長寿国になったことを、喜んでいます。この国では、「生」は既に祝福の対象であって、「苦」ではなくなっています。」 についてですが、

▽「全ての国民は子供の誕生を祝福します」 →残念なことにそうとは限りません。
▽「誕生日を家族みんなで祝います」 →残念なことにそうとも限りません。
▽「長寿国になったことを喜んでいます」 →そうでない人もおそらくいるでしょうね。

「みんな〜である」 という固定化した観念、決め付け、ステレオタイプ、そして過度で軽率な概括が目立ちます。また、みのるさんは「生=苦」の状況に置かれた恵まれない国民の存在を一切考慮に入れていない、ということがわかります。
このことから、この主張$(C(h(Bが一面的で偏ったものでしかないことが分かり、ひいてはみのるさんという人物の「思いやりのなさ」あるいは「想像力の欠如」を伺い知ることができます。

$(C(i(B「欲望を止滅して生きていけますか? 」 についてですが、仏教を「欲望を止滅する教え」であると決め付けるのは早計だと思います。もう少し落ち着いて学習されることをお勧めします。

$(C(j(B「人生苦の解決〜芸術・学問〜感情を止滅」 についてですが、上のように仏教の人生苦の解決を「感情の止滅」であると決め付けるのもまた早計ですね。現に、仏教という流れは、多くの芸術を輩出しております。

$(C(k(B「それに、釈尊は苦からの解脱に<執着>しすぎたために、幸いにして涅槃に達し得た暁に、さて何をなすべきかに全く想いがいたらなかったのが最大の欠点でした。つまり早い話が、静かな安らぎの訪れた人達が只ゴロゴロしている、言ってみれば特養ホームの老人ばかりの集団を作っただけという結果になりました。(京都やその他の坊主どもを見ればご納得でしょう。)」 ということについてですが、次のようなことが挙げられます。

▽「釈尊は苦からの解脱に<執着>しすぎた」 →物理的に(もちろん精神的にも)証明不可能な憶測で、しかも個人的知識と価値観に基づいた偏見です。
▽「(釈尊は)涅槃に達し得た」 →証明不可能な憶測です。
▽「(釈尊は)何をなすべきかに全く想いがいたらなかったのが最大の欠点でした」 →証明不可能な上に「欠点だった」と決め付けてます。
▽「(釈尊は)特養ホームの老人ばかりの集団を作っただけ」 →証明不可能です。しかも、ゴータマシッダールタに始まるとされる仏教という流れは、今日にいたるまで各国の文化や芸術に多大な影響を与えてます。これは少なくとも私にとっては有意義な現象です。

これらのことで、みのるさんが憶測でものをいっているか、もしくは読んだり聞いたりした知識をただひたすら鵜呑みにしているかどちらかであることが分かります。その結果を事実だと思い込んで勝手に自己の範疇の中で物事を判断し、決め付けて主張を展開しているのが分かります。

また、歴史的観念についても次のようなことがいえます。

▽「京都やその他の坊主」 →古代インドにおけるシッダールタの話で、いきなり条件がまったく違うはずの日本の僧侶を例にとっている、つまり現代日本と古代インドの僧団が等価であると仮定していることが分かります。このことから、歴史的観念が欠如しているか、もしくは混乱しているものと思われます。しかもみのるさんは、$(C(g(Bの主張で「今から二千数百年の昔、しかも熱帯のインド云々」と現代日本と古代インドの人の在り様の違いをご自分で強調しています。
これらの事実から、みのるさんという人物は歴史的観念を持とうととりあえず努力してはいるがそれをこなすことができず、結局ご自分の中に矛盾を残していることが分かります。


以上において、みのるさんの論法が根本的に破綻していて、また論点や論拠が偏っているということがお分かりになったと思います。
したがいまして、「仏教は21世紀には全く用をなさないから消えてもらう」という結論もまた、「仏教が用をなしている」もしくは「用をなしうる」ことが判明した時点で自動的に破綻します。

この「仏教がこの世から消える」ということが果たして善いことなのか悪いことなのか、必要なのかそうでないのか、またもしくは、可能なのかそうでないのか、などといった荒唐無稽なことは私には分かりません。
ただ、少なくとも、「用をなさないから消えてもらう」という言いまわしには道徳観念の欠如を感じざるを得ません。
それが非常に残念です。


加えて文体の運びについてですが、これはなかなか上手いです。
まず常識的もしくは専門的な知識から入って話相手に自分(その知識や主張)の正統性を信じ込ませ、それに乗じてまくし立ててうまく丸め込んでしまおうとする方法を取っているように見受けます。
強い自己顕示欲を髣髴とさせる修辞的論調、そして少々辟易とさせられるような荒唐無稽で極端な発想などが私のような者にはとてつもなく胡散臭く思えてしまうのですが、あまりこういったことに免疫のない方なら珍しさと勢いに呑まれてつい頷いてしまうかも知れません。
そんな迫力に満ちた、強引かつエンタテイニングな「主張の仕方」なのではないでしょうか。
ただし、それを武器に、ついうっかり誤まって人をコロリと騙してしまうことのないようお気をつけください。



みのるさんが私に期待していたのがどのような応えであるかは分かるような気がするのですが、私の立場としては、あくまでも仏教を批判するわけでもなければ応援するわけでもありません。
また上の記述を読む限りは、あたかも私が仏教を弁護しているように見えると思いますが、そういうわけでは決してなく、私はただみのるさんのご投稿に対して、私の「空殻」としての立場とは何かを暗に交えながら、分析と若干の意見を述べさせていただいただけですのでどうかよろしくご了承ください。

最後になりますが、みのるさんの今後のご活躍を期待します。
先日のあの唐突でしかも喧嘩腰なご投稿にはおどろかされましたが、私は別に気にしておりませんのでご安心ください(^^)
ただ、同じようなことを他でされると「不躾である」「無礼である」もしくは「危ないヤツである」などと判断され、かなり迷惑がられるのではないかと憂慮します。

どうかくれぐれも、ご注意ください。



▲[ 13 ] / ▼[ 27 ] ▼[ 29 ] ▼[ 38 ]
NO.25  Re[1]: で、再び私の立場ですが
□投稿者/ みのる
□投稿日/ 2003/07/30(Wed) 22:32:01
□URL/ http://plaza11.mbn.or.jp/~mminoru/
□IP/ 211.123.224.107
空殻さんへ−1
 のっけから失礼ですが、いろいろと的外れなご指摘、有難うございました。いちいち反論する気も起きません。
 それはそうでしょ。私が「仏教に引導を!」をわざわざあなたにご案内して期待した答えは、(私の早トチリでしたが)<仏教文献学専門家>としての広く深い学識から、「人生皆苦」(>「みんな〜である」 という固定化した観念、決め付け、ステレオタイプ、ですね?)や輪廻転生からの解脱の現代的意義。そして又、それらを根本義とする仏教が、
>「用をなしている」もしくは「用をなしうる」
とするなら、いかなる理由、根拠からですか?であることは明らかだと思っていたのです。(そのことは私が、Yahoo!掲示板で「No.1に対する返信」にしないで、わざわざあなたのNo.4098に対する返信」にしたことからわかるだろうと考えたのです。)
 そして又、そのお答えがスジが通るものであったら、勿論私は喜んで自説を撤回するつもりでした。正しさが常に重要ですから。
 それなのに、私のご案内をどう血迷って取り違えたのか、>唐突で喧嘩腰 と邪推して、反論のための枝葉の揚げ足取りに執着したので、肝心の本題には一言も触れず仕舞ですから。当て外れもいいところでした。

 ただ二つだけ申し述べましょう(一つは別記)。
 そもそも宗教とは、「不合理であるから信じるのではなくて、不合理であるが故に信じる」ものでしょ。それなのに、
>物理的に(もちろん精神的にも)証明不可能な憶測、
と、宗教関係分野の方から、「証明不可能」の言葉が出たのには、強い衝撃を受けました。
 宗教的啓示や奇蹟は、物理的に証明できるものなのですか?証明できないからこそ奇蹟なのでしょ。それを承知の上で、証明だ、何だとつべこべ言わずに信じる、観じる、それが信仰でしょ。科学ではない。これは宗教のイロハだと思うんですが、あなたはそれをご理解ないようですね。失礼ですが、進む道を間違えていますね。まだお若いのですから、理系へ方向転換をなさることをお勧めしますよ。(余計なお世話? 私って思いやりがあるでしょ。(^^))

 以下に「用をなしうるや?」にチョット補足します。
 典型例では、米国大統領の就任式で、聖書に手を載せて宣誓しますね。キリスト教は少なくともこういう面では生きていて、人間の行動の規範となっていることを垣間見させます。又イスラムでは、天国へのパスポートとして、自爆テロが世界各地で多発しています。民衆の現実生活の中に、イスラムの教えが息づいているのがわかります。
 翻って仏教は? タイ、スリランカなどの中・後進国で日本人が小乗と軽蔑する南方仏教が細々と生きているだけ。仏教発祥の地・インドでは、仏教信者数約470万人、全人口のわずか0.7%、しかもその信者達は所謂不可触賎民であって、現在のインドにあって社会的影響力に乏しいという惨状。
 仏教は確かに、過去には多大の恩恵を与えてくれたのでしょうが、これからは果たして如何なものでしょうか。ヒョットして万里の長城? ましてや、「人生皆苦」や「空」ではね。



▲[ 25 ] / 返信無し
NO.27  残念ですね。
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/07/31(Thu) 14:46:02
□IP/ 4.60.144.241
>のっけから失礼ですが、いろいろと的外れなご指摘、有難うございました。いちいち反論する気も起きません。

どういたしまして。
みのるさんの早とちりと偏見にもとづく的外れなご期待に添えなかったことが残念ですが、あなたとの出会いは同サイトにとって多少有意義であったと、ある程度感謝しております。
ただ、すでに「空殻の立場」と「同掲示板の方針」は充分述べてきましたし、みのるさんもご自身が聞きたがっていたはずの私の「高説」とやらに耳を貸す様子もなく、ただひたすら自己正当化と反論をまくしたてる、等といった事情から、あなたとの議論もこちらでの意味を失いつつあるように思うようになりました。
したがいまして、今後あなたがこちらの方針に障るような書き込みをされた場合、即刻「荒らし」であるとして書き込みを禁止させていただきます。
ご理解ください。

>「人生皆苦」は「みんな〜である」という固定化した観念、決め付け、ステレオタイプ、ですね?

どうでしょうか。
これは推論ですが、それはもしかすると「人間は皆、時とともに老いて死ぬ」ということが「みんな〜である」ということでありながら決め付けでなく「事実」であることと関係があるのではないでしょうか。
少なくとも、それはみのるさんがおっしゃるような「日本国民は今世紀において皆もれなく幸せである」という類の個人的価値観とは、根本的に性質が違うように見受けます。

>人生皆苦と輪廻転生からの解脱の現代的意義。

その質問を私に対してされたのはまことに的外れでした。
前にもいったように、少なくとも現時点では私は仏教の代弁者や弁護者ではなく、一愛好者兼一求道者としての立場を取っております。つまり、人生皆苦も輪廻転生もあくまで一可能性ととらえており、鵜呑みにしておりません。

>そして又、それらを根本義とする仏教が「用をなしている」もしくは「用をなしうる」とするなら、いかなる理由、根拠からですか?

それにつきましては、『で、再び私の立場ですが[13]』の再読を希望します。
もう少し頭を冷やしてから、注意深くお読みください。

>であることは明らかだと思っていたのです。(そのことは私が、Yahoo!掲示板で「No.1に対する返信」にしないで、わざわざあなたのNo.4098に対する返信」にしたことからわかるだろうと考えたのです。)

何が明らかなのかが不明です。
また、私のNo.4098に対して、しかも誰に「宛てる」でもなく返信していただいても、私はYahoo!掲示板にあまり出入りしませんし、勝手にそのように思って期待していただいても困るというものではないでしょうか。

>そして又、そのお答えがスジが通るものであったら、勿論私は喜んで自説を撤回するつもりでした。正しさが常に重要ですから。

『で、再び私の立場ですが[13]』を再読ください。
みのるさんのご主張が、「仏教は不要だから消えろ」という結論にいたる前に破綻しているため、その間違った結論をもとにした議論が発展し得ないことは明らかです。
ただ、「仏教は不要であるから消えろ」というあなたと「仏教をかならずしも信仰するわけではないが、仏教が好きで教えの内容やその歴史についてもっと知りたい」と願う私とでは、私が仏教徒として自認し反駁しない限り、平行線を辿るだけなのではないかと憂慮し始めてます。

>それなのに、私のご案内をどう血迷って取り違えたのか、唐突で喧嘩腰と邪推して

想像してみてください。
初めて会った見ず知らずの相手からいきなり面と向って「お前のことを期待してたのに、取るに足らないヤツだったんだな、ガッカリだよ」などといわれたとします。
これでお分かりになられなければ、あなたは救いようがありません。

また、私のことを「真正の仏教徒と自認している」と強引に判断した上で「仏教などなくなった方がよい」といわれているところから、みのるさんという方が「おそらく私に対してなんらかの敵意・悪意を抱いている」ことを伺い知るのは必然なのではないでしょうか。
みのるさんには、どうも礼儀といえるものが欠如しているようにお見受けします。
警告させていただきます。
どうかご自分の非を反省し、お気をつけください。

>反論のための枝葉の揚げ足取りに執着したので、肝心の本題には一言も触れず仕舞ですから。当て外れもいいところでした。

あの分析を「枝葉の揚げ足取り」としてしか見なかったということから、みのるさんが結局ご自分の持論である「仏教は用をなさないから消えろ」に執著し、それしか目に入っていない、ということが分かります。
私は枝葉を指摘したのではなく、「結論を成り立たせる基本が間違っているから結論自体が説得力を失うのですよ」となるべく分かりやすい形で丁寧にご報告申し上げたまでです。
ご自分の文体の本質を「枝葉である」とおっしゃった時点で、みのるさんは、結論へ至る理由などどうでもよい、と自分で自分の主張を無効にしています。
『で、再び私の立場ですが[13]』における私の私情抜きの分析を再読ください。

>宗教的啓示や奇蹟は、物理的に証明できるものなのですか?証明できないからこそ奇蹟なのでしょ。それを承知の上で、証明だ、何だとつべこべ言わずに信じる、観じる、それが信仰でしょ。科学ではない。これは宗教のイロハだと思うんですが、あなたはそれをご理解ないようですね。

さて、この記事においてみのるさんは仏教はあくまでも信仰であって科学ではないと決め付けてかかっていますが、果たしてそうなのでしょうか。
モンチーさんのご投稿にも引用されていましたが、ダライラマ氏のように「仏教は宗教・科学のどちらにも属さない」と主張する方もいます。私も実はそれと同感で、仏教が信仰でなければならぬとは思っておりません。
ただ、仏教には未知の部分も多くあり、また納得のいかないことも多いため、なるべくその代表者を気取って代弁をするような行為は慎みたいのです。
とりあえずこの時点では、仏教をただの信仰であるとするのは早計なのではないかとだけ申し上げておきます。

>失礼ですが、進む道を間違えていますね。まだお若いのですから、理系へ方向転換をなさることをお勧めしますよ。(余計なお世話? 私って思いやりがあるでしょ。(^^))

おっしゃるところの「進む道」というのは「仏教を勉強すること」を意味するのでしょうが、それは別に奇跡云々を信じなくても問題なく行ない、楽しむことができます。
むしろ、研究というものは個人的な感情や信仰に捉われることなく、公正に行なわれるべきではないかと思っております。

>「用をなしているか」・・・典型例では、米国大統領の就任式で、聖書に手を載せて宣誓しますね。キリスト教は少なくともこういう面では生きていて、人間の行動の規範となっていることを垣間見させます。

それは果たして必ずしも素晴らしいことなのでしょうか。
また、なぜそれが素晴らしいといえるのでしょうか。
荒唐無稽な問いになりますが、みのるさんがおっしゃるように仮に「仏教に消えてもら」ったとして、日本にはアメリカにおけるキリスト教のような宗教現象が起り得るのでしょうか。
「仏教には消えてもらおう」と主張した上でアメリカにおけるキリスト教を「用をなすもの」として例にとっているくらいだから、その程度のビジョンはおありなのでしょうね。
世の中はあなたが思うほど単純にできているわけではないのですよ、みのるさん。

>又イスラムでは、天国へのパスポートとして、自爆テロが世界各地で多発しています。民衆の現実生活の中に、イスラムの教えが息づいているのがわかります。

この記事から、みのるさんが「自爆テロ」の推奨者であることが分かります。
用さえなしていれば自爆テロさえ容認するわけですか。
非常に残念です。

ところで、具体的にいって「(宗教が)用をなす」とは一体どういうことなのでしょうか。
上の二例を見る限りでは、「国民の行動規範になる」ことであり、「現実生活の中に教えが息づいている」ことがそういうことらしいのですが、アメリカなどは特に移民の国なので、仏教や道教、カトリック、モルモンなどを含め非常に多くの宗教宗派がせめぎあってます。そういう状況において、本当に「キリスト教がアメリカ国民の行動規範である」「用をなしている」といってしまって差し支えないのでしょうか。
疑問です。

>翻って仏教は? タイ、スリランカなどの中・後進国で日本人が小乗と軽蔑する南方仏教が細々と生きているだけ。仏教発祥の地・インドでは、仏教信者数約470万人、全人口のわずか0.7%、しかもその信者達は所謂不可触賎民であって、現在のインドにあって社会的影響力に乏しいという惨状。

みのるさんが大乗仏教の分布をまったく無視しているところから、情報が明らかに一面的で偏っていることが分かります。
また、よく見てみると

$(C(g(B「広範囲に分布すること」か
$(C(h(B「多くの人口に信仰されること」そして
$(C(i(B「社会的影響力があること」

が、先述の二項に加えた「宗教が用をなすということ」の条件だとみのるさんが主張しているのが分かります。
これが仮に正しいとして、「広範囲に分布」せず、「多くの人口に信仰」されず、「社会的影響力」がなかったり弱かったりしたら、本当にその宗教は「用をなさない」のでしょうか。つまりみのるさんがいうように「消えてもらおう」ということになるのでしょうか。
仏教は東南アジア、東アジア、チベットを中心として約五億人、キリスト教はヨーロッパと南北アメリカを中心に約十七億、イスラム教は西南アジア、東南アジアとアフリカを中心におよそ十億、ちなみに神道は日本に一億人程度ということですが、そうすると、仏教は「用をなす」けど神道は人口だけでいったらどう考えても「用をなさない」ことになってしまいますね。

>仏教は確かに、過去には多大の恩恵を与えてくれたのでしょうが、これからは果たして如何なものでしょうか。ヒョットして万里の長城? ましてや、「人生皆苦」や「空」ではね。

さあ、どうでしょう。
私には分からないとしかいいようがありません。

先にも書きましたが、「仏教は不要であるから消えろ」というあなたと「仏教をかならずしも信仰するわけではないが、仏教が好きで教えの内容やその歴史についてもっと知りたい」と願う私とでは、私が仏教徒として自認し反駁しない限り、平行線を辿るだけなのではないかと憂慮し始めてます。



下記は親記事です。混雑してきたのでこちらにも付けておきます。



[25]  RE:で、再び私の立場ですが
□投稿者/ みのる
□投稿日/ 2003/07/30(Wed) 22:32:01
□URL/ http://plaza11.mbn.or.jp/~mminoru/


空殻さんへ−1
 のっけから失礼ですが、いろいろと的外れなご指摘、有難うございました。いちいち反論する気も起きません。
 それはそうでしょ。私が「仏教に引導を!」をわざわざあなたにご案内して期待した答えは、(私の早トチリでしたが)<仏教文献学専門家>としての広く深い学識から、「人生皆苦」(>「みんな〜である」 という固定化した観念、決め付け、ステレオタイプ、ですね?)や輪廻転生からの解脱の現代的意義。そして又、それらを根本義とする仏教が、
>「用をなしている」もしくは「用をなしうる」
とするなら、いかなる理由、根拠からですか?であることは明らかだと思っていたのです。(そのことは私が、Yahoo!掲示板で「No.1に対する返信」にしないで、わざわざあなたのNo.4098に対する返信」にしたことからわかるだろうと考えたのです。)
 そして又、そのお答えがスジが通るものであったら、勿論私は喜んで自説を撤回するつもりでした。正しさが常に重要ですから。
 それなのに、私のご案内をどう血迷って取り違えたのか、>唐突で喧嘩腰 と邪推して、反論のための枝葉の揚げ足取りに執着したので、肝心の本題には一言も触れず仕舞ですから。当て外れもいいところでした。

 ただ二つだけ申し述べましょう(一つは別記)。
 そもそも宗教とは、「不合理であるから信じるのではなくて、不合理であるが故に信じる」ものでしょ。それなのに、
>物理的に(もちろん精神的にも)証明不可能な憶測、
と、宗教関係分野の方から、「証明不可能」の言葉が出たのには、強い衝撃を受けました。
 宗教的啓示や奇蹟は、物理的に証明できるものなのですか?証明できないからこそ奇蹟なのでしょ。それを承知の上で、証明だ、何だとつべこべ言わずに信じる、観じる、それが信仰でしょ。科学ではない。これは宗教のイロハだと思うんですが、あなたはそれをご理解ないようですね。失礼ですが、進む道を間違えていますね。まだお若いのですから、理系へ方向転換をなさることをお勧めしますよ。(余計なお世話? 私って思いやりがあるでしょ。(^^))

 以下に「用をなしうるや?」にチョット補足します。
 典型例では、米国大統領の就任式で、聖書に手を載せて宣誓しますね。キリスト教は少なくともこういう面では生きていて、人間の行動の規範となっていることを垣間見させます。又イスラムでは、天国へのパスポートとして、自爆テロが世界各地で多発しています。民衆の現実生活の中に、イスラムの教えが息づいているのがわかります。
 翻って仏教は? タイ、スリランカなどの中・後進国で日本人が小乗と軽蔑する南方仏教が細々と生きているだけ。仏教発祥の地・インドでは、仏教信者数約470万人、全人口のわずか0.7%、しかもその信者達は所謂不可触賎民であって、現在のインドにあって社会的影響力に乏しいという惨状。
 仏教は確かに、過去には多大の恩恵を与えてくれたのでしょうが、これからは果たして如何なものでしょうか。ヒョットして万里の長城? ましてや、「人生皆苦」や「空」ではね。



▲[ 25 ] / 返信無し
NO.29  「汝もまた信仰を捨て去れ。」
□投稿者/ モンチー
□投稿日/ 2003/08/02(Sat) 05:31:12
□URL/ http://www.urban.ne.jp/home/sugano/index.htm
□IP/ 202.231.166.69
>宗教的啓示や奇蹟は、物理的に証明できるものなのですか?証明できないからこそ奇蹟なのでしょ。
>それを承知の上で、証明だ、何だとつべこべ言わずに信じる、観じる、それが信仰でしょ。
>科学ではない。これは宗教のイロハだと思うんですが・・・・

上記のような信仰をブッダは
「汝もまた信仰を捨て去れ。」(スッタニパータ:1146) と言うのである。

譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを聞くように、方向に迷った者に道を示すように、
あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、
ゴータマさまは種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたくしはここにゴータマさまに帰依します。
(スッタニパータ:82)



▲[ 25 ] / 返信無し
NO.38  仏教における「信」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/08/12(Tue) 13:07:58
□IP/ 4.60.144.241
>宗教的啓示や奇蹟は、物理的に証明できるものなのですか?証明できないからこそ奇蹟なのでしょ。それを承知の上で、証明だ、何だとつべこべ言わずに信じる、観じる、それが信仰でしょ。科学ではない。これは宗教のイロハだと思うんですが、あなたはそれをご理解ないようですね。失礼ですが、進む道を間違えていますね。まだお若いのですから、理系へ方向転換をなさることをお勧めしますよ。

上のみのるさんの投稿を念頭に置いて『永遠の世界観 華厳経』(筑摩書房刊、玉城康四郎著)を再読していたら、ちょうどよい記事を見つけました。昨今ではこのような学者による見識はいたるところでよく耳にするので、仏教をそこそこご存知の方には常識的知識かと思いますが、参考までに引用いたします。


(中略)
われわれは、ここに信ずるということに関して、種々の問題をかかえている。
第一に、信ずるとは一体どういう意味であろうか。
第二に、信ずることが人生行路の第一歩であるとは、なにを表わしているのであろうか。
第三に、信ずることが、同時に人生行路の終局まで貫かれているとは、いかなる事態を指しているのであろうか。
われわれは、これらの問題に関して、つぎつぎにその意味を解きほぐしていこう。
第一に、信ずるということが、むずかしいばかりでなく、それに先立って、信ずるという意味が同様にむずかしい。他の宗教にも信ずるということは強調されている。キリスト教には、blief, faith, Glaube などがいわれている。ヒンズー教では、bhakti が強調されている。仏教の信は、これらの宗教の信と類似しているところがある。しかしまた一方では、仏教特有の信が浮かび上ってくる。
まず大切なことは、信という観念をいかに分析してみても、信の意味はでてこない。そうではなく、信は、実は重要な人生経験であり、この経験には、信の種々の表情が含まれている。その種々の表情を信という一語にまとめたのであるから、われわれは信の観念を勝手に分析するのではなく、人生経験の表情にもどして、これを味わってみなければならない。
原始経典には、を表わすいろいろの語が用いられている。たとえば、サッダー(saddha)、パサーダ(pasada)、アディムッティ(adhimutti)などである。大乗仏教のサンスクリットでいえば、シュラッダー(sraddha)、プラサーダ(prasada)、アディムクティ(adhimukti)である。
第一のサッダー(シュラッダー)は、信頼の意味を持っている。

「老いるときに、戒はよく、はよき安住処であり、智慧は人の宝であり、功徳は盗みによっても奪われない。」(相応部経典、一、六、五一)

信仰と清浄な心によって食を施す人は、この世においても、あの世においても、食を得るであろう。」(相応部経典、二、三、二三)

「わたしは、信仰によって在家者から出家者となった。正念と智慧は、わたしのなかで目覚めており、心は、いとも静寂である。」(相応部経典、四、三、二二〜一〇)

右の文に挙げられているサッダー(信)は、一般的な意味に用いられる宗教的な信仰であり、宗教的な世界に対して信頼の心の確立している状態を指しているのであろう。
第二のパサーダ(プラサーダ)も、信頼の意味に用いられている。

「この世に人身を得て、親切で、貪ぼりをはなれ、仏を信じ、法と僧とに深く帰依する。」(相応部経典、一、五、四九〜三、四)

右の文の信にはパサーダが使用されているが、これもまた、仏を信頼する意味であろう。われわれの人間関係においても、信頼は突然に生まれてくるものではなく、交わりをつづけていくうちに、相手が信頼に価すればおのずからその感情が現われてくるものである。仏は目覚めたひとであり、すぐれた人物であり、これに接する人々が信頼の情を寄せたことは、想像にかたくない。
ところでパサーダ(プラサーダ)は、もともと、純浄、よろこび、満足などの意味を持っており、原始経典のなかでもそのような意味に用いられている。すなわち、仏を信じ、法を信ずれば、心はおのずから清められ、よろこびの気持が湧いてきて、満足するようになる。昔から、信とは、すなわち澄浄の義なり、といわれているのは、この意味を指したものである。われわれの通常の心はにごっており、垢がついているが、しかし信心は、あたかも清水が底の底まで澄みとおっているように、清浄で純粋である。
大乗経典の「大無量寿経」のなかには、サンスクリットのプラサーダ(信)をつぎのように用いている。

「一切衆生が、無量光(限りなき光の仏)の名号をきいて一念を動かし、信心歓喜を伴なえる願望をもって菩提心をおこすものは、ことごとく、究極の悟りから退かない位に安住する。」

右の文は、無量寿経のなかのいわゆる願成就の文である。プラサーダを、シナ訳でも信心歓喜と翻訳している。この信心は、もとより信頼の意味であるけれども、たんに信頼という態度のみにとどまらず、信頼の結果は、究極の悟りから退かない位につながっており、したがってそれは、究極のさとりそのものにも関係している。それゆえに、プラサーダは、信頼を意味していると同時、その結果としてのよろこびや満足をも包含している。信心がよろこびや満足を持っているとすれば、それが清浄であることは自然であろう。
第三のアディムッティ(アディムクティ)は、信解と訳されているものである。この言葉には、信じ理解するという意味が含まれている。たんなる盲信ではなくて、むしろその反対の智的信仰あるいは智慧の信心といわれるものであろう。非常に古い経典であるスッタニパータのなかに、パサーダとアディムッティとが平行して用いられてある。その例を見てみよう。これは、ピンギヤという人が釈尊に対していったことばである。

「わたしは、聖者の言葉を聞いてますます信ずる(パサーダ)ようになりました。目覚めたひとは、心のおおいが開かれ、心は習熟し、しかも叡智をもっておられます。・・・・・・どこにも譬うべきものがなく、打ちまかされることもなく、動かされることもない境地に、わたしはたしかにおもむくことでしょう。これについて、わたしには疑いはありません。このように、わたしの心が信じ了解し(アディムッティ)ていることをご承認ください。」(「スッタニパータ」一一四七、一一四九)

ここには、パサーダとアディムッティのニュアンスがよく現れている。ピンギヤは釈尊に接しているうちに、釈尊の心は開かれ、習熟し、叡智の光をもっていることが次第にわかり、釈尊を信頼するようになり、自分の心も清浄になってきた。それがパサーダであろう。そしてピンギヤは、自分もまた釈尊と同じように絶対不動の境地に必ず到達するとおもう。そう信じ了解していることがアディムッティである。
アディムッティはこのように智的な信仰を意味している。大乗仏教では、仏性(如来蔵)を説明して、仏性とは、信解(アディムクティ)と禅定と智慧と慈悲の混然一体になっているものであると考えられている。ここでもアディムクティは、智慧につながっている。すなわち心のなかから、とびらが開かれ、おのずからうなずくという意味の智慧の信心を指している。
以上は、について、サッダー(シュラッダー)、パサーダ(プラサーダ)、アディムッティ(アディムクティ)のそれぞれのニュアンスをふりかえったのであるが、なおこのほかに、昔からつぎのような解釈も行なわれている。それは、すべての経典の最初に「如是我聞」(このようにわたしはうけたまわった)ということばがあって、経典の内容が説かれるのであるが、その如是がすなわちをあらわす、というのである。如是(このように)は、うなずく心であり、うけとる心であり、それがすなわち信である。大乗仏教の先覚者ナーガールジュナ(龍樹)の有名なことばに、

「仏法の大海は、をもって能入となし、智をもって態度となす。」

というのがある。われわれは、信によって仏法の大海に入り、智によってその大海をわたることができる、というのである。
うなずく心、うけとる心、すなわち信が、仏法の第一歩であるということができる。ナーガールジュナは、また信をに譬えている。この譬えは、つぎに述べる華厳経のなかにも出ているのであるが、ナーガールジュナによれば、われわれが折角宝の山に入っても、手がなければ宝をとってくることができない、それと同じように、仏法の山のなかにはいっても、信という手がなければ、その真理をうけとってくることが出来ない、というのである。ここでも信は、うなずく心、うけとる心であり、仏法の第一歩であるということができる。
以上のように見てくると、信にはいろいろなニュアンスがあり、そのときどきに応じてちがったことばが用いられているのであろうが、根本には信という共通の意味が流れている。したがって実際には、信は、信頼・清浄・喜悦・満足・理解というようなさまざまな意味を、混然としてそなえているというのが実情であろう。
実存哲学者カール・ヤスパースに、「哲学的信仰」という著書がある。その信仰というのは、自己自身を明らかにすることであり、自己確信によって、間断なくより明るく、より意識的にすることである、といっているが、この点からいえば、仏教のうなずく心に似ているといえよう。また、初期キリスト教の護教家にテルトリアヌスというひとがあり、「不合理なるゆえにわれ信ず」(credo quia absurdum est)ということばが伝えられている合理的なものは信ずる必要がない。不合理であり理解し得ないからこそ信ずる、神は、われわれのまったく理解し得ないものであるから、信ずる、という意味であろう。これは、キリスト教の信仰をすべて代表しているものではないが、このような意味の信仰からは、仏教の信は明瞭に区別されるのである。
このように信は、うなずき、うけとる心であり、仏法の第一歩である。そして信ずる心は、次第に澄みとおり、清らかとなり、よろこび、満足し、ついには心の扉が内から開かれるところの智慧につながっていくのである。宝の山に入って、存分に宝をにいれてくるように、信の功徳は、なにものにも譬えようのないほど大きい。(後略)
(第三章「菩薩の人生行路 $(C(h(B第一歩」/九〇〜九七頁より抜粋)



玉城氏はこれに続けて、上記のような信を華厳経がどのように表わしているかを書かれています。

また、下記は『仏教辞典』(中村元編、岩波書店)より辞書引用です。
これを見ても分かるように、仏教には他の宗教と類似した「信仰」の在り方と、そうではない、きわめて知的なニュアンスでの「信」の二面が共存していることが窺い知れます。




$(C(g(B信楽 しんぎょう
教えを聞いて信じて喜ぶこと。ひたすら信じて疑わず、おのずから心に歓喜が生じることをいう。また、「信」は信じること、「楽」は教えに従って修行し、さとりを願い求めることの意に解釈されることもある(「楽」には願の意味がある)。浄土教では、弥陀の本願を深く信じて疑わず、救済されんことを願うことをいい、「至心」「欲生(我国)」(ともに無量寿経上に見える[→第十八願])と合わせて三信もしくは三心とよぶ。

$(C(h(B信解 しんげ[adhimukti]
原語は、強い意向、志向、信頼、確信などの意で、《志楽(しぎょう)》《欲性(よくしょう)》《信》《信受》《勝解(新訳)》など多くの訳語が当てられている。信解もその訳語の一つで、(教を)確信すると同時に了解するという意に解される。この語は法華経に多用され、特に「分別功徳品」の「一念信解」の語は、中国および日本天台とその流れを汲む日蓮宗においては重要な意義を賦与されて理解されている。

$(C(i(B信仰 しんこう[sraddha/saddha]
古くは「しんごう」と読んだ。無垢な心で神仏を信頼し崇拝すること。疑惑・不信の反対。宗教特異の用語。仏教信者にとって仏法僧の三宝帰依が必須とされ強調される。ひとえに三宝への信頼があればこそ帰依が生ずる。そして帰依の対象は今生とか特定の時や場所に制約されていず、過去から永遠の未来に向け、そしていかなる状況下にあっても信頼できるものであって、その故に信仰が確立されている。
仏教では信仰より「信」「信心」という表現のほうが伝統的である。仏教の説く「信」の原語はsraddhaのほかprasada, adhimukti が代表的である。sraddha はインドで仏教以前から用いられた単語で、仏僧は「信」と漢訳した。冷静で客観的な信頼を意味する。解脱に必要な五根や七力の最初に数えられ、また心所の一つとして大善地法に配当されている。「信」は疑惑を除き悟りへの基盤であると考える。prasada は「浄信」「澄浄」「信心」などと漢訳する。心が清まり澄むことで、そこには「信」が看取される。また、adhimukti は「信解」「勝解」「信楽(しんぎょう)」などと漢訳される。智慧により理解が進んで確立される信頼で、そこにはもはや疑惑がない。
浄土真宗では解信(げしん)と仰信(ごうしん)を説く。「解信」は知的に仏や祖師の教えを理解して得る信で、「仰信」は自分の知識や見解を加えずに無心に得るところの信。ヒンドゥー教では「信愛」(bhakti)を神に至る道の最高と定め、神への熱烈な崇敬からほとばしる思慕の情感を説くが、それに対して仏教の説く「信」はずっと知的で冷静である。

$(C(j(B信心 しんじん
仏の教えを信じて疑わない心。親鸞は、阿弥陀如来の誓いを聞いて疑う心のないこととしている。そしてこの信心の定まる時往生もまた定まり、成仏すると説く。信心は如来から与えられるもので、信心が得られるのは、わが身は限りない罪悪深重の凡夫であると深く思い、こうした罪悪のかたまりであるから、自己を頼みとすることはできず、自己放棄=他力を頼む以外にないと深く信ずる心を持つことであるとする。




▲[ 12 ] / ▼[ 16 ]
NO.15  さて、さて・・・・
□投稿者/ モンチー
□投稿日/ 2003/07/28(Mon) 06:57:47
□URL/ http://www.urban.ne.jp/home/sugano/index.htm
□IP/ 202.231.165.200
>総まとめをしますと、あれやこれやで仏教の教えは二十一世紀以降に全く用を成さないものなのですよ。
>引導を渡して舞台から消えてもらうべきと愚考していますが、如何なものでしょうか?

私にとっては、

「吹く風も、降る雨音も、川の流れも・・・・
有りとあらゆるものが、多くを語っている。

無用なものは、何一つ存在していないのだが。」



▲[ 15 ] / ▼[ 30 ]
NO.16  お久し振りです、モンチーさん(^^)
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/07/28(Mon) 17:32:37
□URL/ http://6927.teacup.com/mminoru/bbs
□IP/ 4.60.144.241
私としてはむしろ「彼女募集中」の何が悪いのか、もしくはそれが何故「真正の仏教徒」でないということになるのか(私が実際どうであるかは別にして)、みのる氏にご高説を伺いたいところなのですが・・・正直、あまり期待してません。
同掲示板に貢献する話題でもなさそうですしね。


モンチーさん、お久し振りです(^^)
お元気そうで何より。



▲[ 16 ] / ▼[ 31 ]
NO.30  「彼女募集中」
□投稿者/ モンチー
□投稿日/ 2003/08/02(Sat) 07:14:26
□URL/ http://www.urban.ne.jp/home/sugano/index.htm
□IP/ 202.231.166.69
良き伴侶が与えられますよう、祈っています。
(キリスト教的祈りも、いいものでしょ?)



▲[ 30 ] / 返信無し
NO.31  痛み入ります(^^)
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/08/02(Sat) 13:57:05
□IP/ 4.60.144.241
祈りと励ましのお言葉、痛み入ります。
モンチーさんは、いつもタイミングよく、しかもわずかな言葉(特に引用)で有効にポイントを突いた合いの手を入れてくださるので大助かりです。
今後も頼りにしております。
よろしくお願いします。



ところで、ここでこの掲示板にいらっしゃる方々全員にお伝えしておきたいことがあります。
私はこれまで自分の「仏教好き」を繰り返し強調してきましたが、実はキリスト教を含めた諸宗教、哲学、神話学、民俗学といった分野の愛好家でもあります。
ただ、少なくとも今はそれらすべてに手を伸ばすだけの余裕が自分にはありませんし、仏教という分野自体がすでに広大な知識体系なので、止むを得ない場合を除いて、これ以上こちらにおける行動範囲を拡大することはありません。
最も自分に近しい仏教とその周辺(仏教の発展に関わった宗教など)のみに的を絞らせていただきます。
また、体験的な話になるとどうしても話相手との(信仰形態、生活環境、教育水準、肉体年齢、精神年齢、性別などといった)土俵の差異や距離が障害となり、ややこしく切りのない議論になりがちですが、知識の交換や確認ならば同じ書物を読めば済みます。
そういった事情から、こちらでは

「仏教、そして必要あらばその周辺に関して、信仰的で体験的な情報を発露したり特定の宗教的目的意識を発揮するのではなく、手元にある辞書や専門書を使うなりしてどうにか学術的情報だけのコミュニケーションをする」

という方針を、少々実験的な意味合いをもって採用することにしております。
宗教分野である以上、今後なんらかの必要に応じて例外も多数生じるとは思いますが、こちらではあくまでも上の方針に則って運営させていただきます。


また、私自身は縁あって「信仰」に生きてはおりませんが、だからといって「信仰」を侮るわけでも否定するわけでもありません。
私は「人間」という現象がある限り、「宗教」という現象が存在するのも当然であり、そこに「信仰」や「非信仰」といった諸現象が含まれるのも当然であると考えております。




繰り返すようですが、モンチーさんの親切なご投稿にはいつも感謝してます。
今後もなにかとお世話になると思いますが、どうかよろしくお願いします。



▲[ 11 ] / ▼[ 28 ] ▼[ 87 ] ▼[ 87 ]
NO.26  Re[2]: 空殻の立場について
□投稿者/ みのる
□投稿日/ 2003/07/30(Wed) 22:43:28
□URL/ http://plaza11.mbn.or.jp/~mminoru/
□IP/ 211.123.224.107
空殻さんへ−2、私がガッカリしたわけ。
 「初めに言があった。・・・言葉は神であった。」のキリスト教ならいざ知らず、「不立文字」が地下水脈として底流している仏教、更には誤訳、意訳、音写、音訳、真言・・が混在している仏教では、字面を追っているだけでは何にもわからないのです。
 それは、仏教の正面入口とされる坐禅が、「調身、調息、調心」のように体(の形)から入るし、又心経が端的に示すように、「観自在菩薩、・・を行じる時、・・苦厄を度したもう」つまり、仏教は、行じなければ肝心のところはわからないのですよ。
 早い話が、「痛い」ということは言葉でいくら説明しても実感できないでしょ。一発殴られたり、どこかを切られたりして体験して初めてわかるのです。仏教は「体認」が重要なのです。ですから、「面壁九年」があるわけです。
 言わんとすることは、釈尊が必要と判断されて決められた五戒を厳守して初めて、釈尊の悟りに多少とも近づけるのですということです。(ああそうか、あそこはこういうことを意味していたのかと忽然とわかるようになるのです。)(それでも
容易には近づけない?)

 そんな考えの中で、「仏教文献学専門サイト」を見た時にどういうわけか、何かを求めてこの道に進み、長い参禅や五戒の厳守の修行をなさった今時稀有な真正の方と早トチリしてしまったのです。今思えば浅はかでした。(^^)
 そんな先入観があったので、あなたのプロフィールで「彼女募集中」を見て、なんだこりゃ、ただのミーハーと同じ神経の持ち主じゃないか、これじゃいくら仏教文献を読んだって仏教の何たるかがわかるはずがないと、落差が大きかった分幻滅を感じてガッカリしたのです。 以上で説明になりました?

 それにしてもあなたは何故、このやり取りをYahoo!掲示板にカキコしなかったのですか?皆さんが参考になって喜んだでしょうに。(私って親切でしょ。(^^♪)



▲[ 26 ] / ▼[ 35 ]
NO.28  不邪淫戒について
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/07/31(Thu) 14:46:14
□IP/ 4.60.144.241
>「不立文字」が地下水脈として底流している仏教

果たしてそうでしょうか。
それはみのるさんの個人的な意見であるとお見受けします。
お読みになられた方はご注意ください。

>更には誤訳、意訳、音写、音訳、真言・・が混在している仏教では、字面を追っているだけでは何にもわからないのです。

そうでしょうか。
そのように「どうせ何もわからない」と決め付けてよいものでしょうか。
字面を追っていても何かがわかるかも知れませんよ。
もしくは、字面を追わなければ分からない何かがあるやも知れません。

>それは、仏教の正面入口とされる坐禅が「調身、調息、調心」のように体(の形)から入るし、又心経が端的に示すように「観自在菩薩、・・を行じる時、・・苦厄を度したもう」つまり、仏教は、行じなければ肝心のところはわからないのですよ。

仰るとおり、一般的に仏教は行じなければ肝心のところはわからないとされています。ただ、だからといって「字面を追う」ことでは何も分からない、得られないとされるのは極論であり、また早計です。逆に、読まねば分からないことの方が多い可能性もあります。

例えば、禅でいう「不立文字」「以心伝心」の典拠とされる「拈華微笑」のエピソードは偽経と認められる『大梵天王問仏決義経』に見られるわけですが、このエピソードが読まれなければ「不立文字」というコンセプトも正式には成り立たなかったかも知れません。また、それが学者に読まれ、彼らによる文脈や表現方法、考古学的出土品などの調査研究を経なければそれが偽経であるとはいつまでも判明せず、われわれ一般人もまた学術書を読まねばこれが偽経である(またはそう認められている)とは分からないのです。
このことからも、「読む」という行為が如何に大切であるかが知れると思います。

ところで、「坐禅が仏教の正面入口とされる」というのはみのるさんの個人的なご意見であると見受けます。
お読みになられた方はご注意ください。

>早い話が、「痛い」ということは言葉でいくら説明しても実感できないでしょ。一発殴られたり、どこかを切られたりして体験して初めてわかるのです。仏教は「体認」が重要なのです。ですから、「面壁九年」があるわけです。

仏教には「実践」が重要だとはよく聞かされますが、なぜ「ですから面壁九年がある」なのでしょうか。

>長い参禅や五戒の厳守の修行をなさった今時稀有な真正の方

なるほど、みのるさんは「長い参禅や五戒の厳守をした人」を「真正」であるとおっしゃるわけですね。

>「彼女募集中」を見て、なんだこりゃ、ただのミーハーと同じ神経の持ち主じゃないか、これじゃいくら仏教文献を読んだって仏教の何たるかがわかるはずがないと、落差が大きかった分幻滅を感じてガッカリしたのです。 以上で説明になりました?

まず、五戒の一である不邪淫戒について説明させていただきますと、これは「女性と付き合ってはならない」ということではなく「夫が妻以外の女、または妻が夫以外の男と肉体関係を結ぶことや、夫婦でもよこしまな方法などで性交を行なうことを禁ずる戒」のことをいいます。
つまり、「彼女を募集すること」は五戒に抵触しないということが分かります。
「長い参禅や五戒の厳守をした人」を「真正」とするならば、もしかすると私はおっしゃるところの「真正」なのかも知れませんね(苦笑)

したがいまして、「彼女募集中を自称するのはミーハーと同等であって、ミーハーと同じく仏教の何たるかがわかるはずがない」と押し付けがましく決め付けられるのもまた浅薄な極論なのではないでしょうか。(ミーハーを自称する方にも失礼ですし)

>それにしてもあなたは何故、このやり取りをYahoo!掲示板にカキコしなかったのですか?

大して理由はありません。
あえていえば、なんとなくといったところでしょうか。



下記は親記事です。



[26]  RE:空殻の立場について
□投稿者/ みのる
□投稿日/ 2003/07/30(Wed) 22:43:28
□URL/ http://plaza11.mbn.or.jp/~mminoru/


空殻さんへ−2、私がガッカリしたわけ。
 「初めに言があった。・・・言葉は神であった。」のキリスト教ならいざ知らず、「不立文字」が地下水脈として底流している仏教、更には誤訳、意訳、音写、音訳、真言・・が混在している仏教では、字面を追っているだけでは何にもわからないのです。
 それは、仏教の正面入口とされる坐禅が、「調身、調息、調心」のように体(の形)から入るし、又心経が端的に示すように、「観自在菩薩、・・を行じる時、・・苦厄を度したもう」つまり、仏教は、行じなければ肝心のところはわからないのですよ。
 早い話が、「痛い」ということは言葉でいくら説明しても実感できないでしょ。一発殴られたり、どこかを切られたりして体験して初めてわかるのです。仏教は「体認」が重要なのです。ですから、「面壁九年」があるわけです。
 言わんとすることは、釈尊が必要と判断されて決められた五戒を厳守して初めて、釈尊の悟りに多少とも近づけるのですということです。(ああそうか、あそこはこういうことを意味していたのかと忽然とわかるようになるのです。)(それでも
容易には近づけない?)

 そんな考えの中で、「仏教文献学専門サイト」を見た時にどういうわけか、何かを求めてこの道に進み、長い参禅や五戒の厳守の修行をなさった今時稀有な真正の方と早トチリしてしまったのです。今思えば浅はかでした。(^^)
 そんな先入観があったので、あなたのプロフィールで「彼女募集中」を見て、なんだこりゃ、ただのミーハーと同じ神経の持ち主じゃないか、これじゃいくら仏教文献を読んだって仏教の何たるかがわかるはずがないと、落差が大きかった分幻滅を感じてガッカリしたのです。 以上で説明になりました?

 それにしてもあなたは何故、このやり取りをYahoo!掲示板にカキコしなかったのですか?皆さんが参考になって喜んだでしょうに。(私って親切でしょ。(^^♪)



▲[ 28 ] / 返信無し
NO.35  ブッダにおける欲望論
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/08/10(Sun) 08:46:08
□IP/ 4.60.144.241
今回のことでゴータマシッダールタの欲望観、特に不邪淫戒について興味がわきまして、いろいろ再読してみました。
副島正光著『釈迦』中に引用される『仏説摩$(CTx(B女経』の一節や中村元訳『スッタニパータ』などを見ると、特に後者でゴータマシッダールタは在家者に対しては『不邪淫戒について[28]』で私が説明したように不倫や浮気を戒めているようですが、出家者に対しては「淫欲に耽ること」を禁じています。また中村版『スッタニパータ』によると、シッダールタは一人の見目うるわしき神に対して、最上の喜びの一つとして「妻子を愛し守ることである」といっております。
一方、辞書を見ると、石田瑞麿著『仏教語大辞典』や法蔵館の『仏教学辞典』にはあくまで「不倫や浮気やよこしまな性交を禁じたもの」と定義されるだけであるのに対し、中村元編の『岩波仏教辞典』には「五戒」であるなしに関わりなく一般に「不邪淫戒」といった場合、「邪淫」という項目で「出家者に対しては清浄な行の妨げになるため全面的に禁じたが、在家者にはよこしまな性行為のみを禁じた」といった内容が書かれています。
しかし同『岩波仏教辞典』によると、「五戒」はあくまでも「在俗信者の保つべき戒」であると定義されていて、もしそれが正しいとすると、「五戒」を厳守する者は在俗であり、「五戒における不邪淫戒」である「不倫・浮気禁止」を厳守する者であるということになります。

さらに興味深いのは、『仏教の思想・智慧と慈悲[ブッダ]』(増谷文雄・梅原猛著、角川文庫ソフィア刊)で増谷文雄氏が「ブッダによる(とされる)漢訳前の言語表現」と『ウダーナ』の一節について言及し、そこから「ブッダは禁欲を説いたのではなく、あくまで中道を問いたのだ」と主張していることです。
参考までに該当部分全文を引用させていただきます。
これが仏教学界の通説となっているかは分かりませんが、少なくとも下記のような見解が著名な仏教学者の方によってなされているということだけでもご報告させていただきたいと思います。


否定さるべきものは激越な欲望である

ブッダ・ゴータマの最初の説法は、欲望をその中項として展開された。では、いったい、この師は、欲望というものをどのように考えたか。また、どのように処理すべきものとしたか。そのことをじゅうぶんに検討しておかなくては、ブッダ・ゴータマの実践の体系は理解しがたい。しかるに、ここでもまた、ブッダ・ゴータマの欲望論についての一般的な誤解を解きほぐすことから始めなければならないことを遺憾とする。
その一般的な誤解というのはほかでもない。ブッダ・ゴータマのおしえは欲望をすてることを説くもの、仏教とは欲望を捨離せよと語るものであるかのように受けとっている向きがおおいそれは誤解であって、その点をまず明確にし、訂正しておかなければ、ブッダ・ゴータマの欲望論はこれを明快に語ることを得ない。そして、そのことを明確にするには、まず、この師のもちいた欲望に関する術語を吟味してみることが、もっとも手近な方法であるように思われる。
たとえば、さきの「四諦説法」において、欲望に言及してこの師がもちいたことばは《渇愛》(tanha)であった。《渇愛》とは、すでにさきに指摘したように、もと「のどの渇き」ということばである。それによって彼は、喉のかわける者が水を求めてやまざるがごとき「激しい欲望のはたらき」を表現しようとしているのである。「こは苦なり」。この苦なる人生を克服するためにはどうしたらよいか。それには、かかる激しい欲望のはたらきをなくすればよい。それが「こは苦の滅尽なり」という命題をもって打ち出されている。そのいずれの場合においても、ブッダ・ゴータマは、けっして欲望そのものを表現することばとしてこの語彙を用いているのではなくて、ただ、欲望のはたらき――それは激越にして好ましからざるはたらき――を表現することばとしてそれを行使している。その慎重な用法に、わたしどもはまず注目しなければならないのである。
また、たとえば、ブッダ・ゴータマは、そのような好もしからぬ欲望のはたらきを《貪》(raga)という用語をもって語っている。後年の彼の用語法においては、その用語は、さきの《渇愛》よりも、はるかに頻度数がおおい。しかるに、その用語は、これもまたすでに指摘したように、もともと「赤」もしくは「燃焼」を意味することばである。それによってブッダ・ゴータマは炎のように燃える欲望のはげしいいとなみを表現する。それは人々を焼きさいなむ。それをわが胸中にいだくかぎりは、やすらぎはいつまでも望みがたい。しかるに、シナの訳経者がそれを《貪》と訳するにいたって、そのイメージは影うすいものとなてしまったけれども、なお「煩悩のほのお」などという表現のなかに、その名残をとどめている。ともあれ、それもまた、欲望そのものを表現したことばではなくて、その激しい、恐ろしい、好もしからぬはたらきをこそ表現しているのである。
他方、経典のなかに見えるブッダ・ゴータマのことばは、彼がしばしば「少欲」を称賛し、「知足」を強調した人であったことを示している。その意味するところをまた、ここでしずかに省察してみるに足るものがある。もし、彼が欲望を全面的に否定する人であったとしたならば、彼はそれを「あますところなく滅し、捨て、去り、脱す」べきことを説かねばならなかったはずである。しかるを、なにゆえに「無欲」ではなくて「少欲」を語り、「滅尽」ではなくて「知足」を語ったのであろうか。それもまた、彼がまったき欲望の否定者ではなく、彼が「あますところなく滅し、捨て、去り、脱す」べきことを説いたのは、「渇愛」もしくは「貪欲」、すなわち、越度の欲望のありように対してであったことを示しているのである。
では、彼はいったい、欲望そのものをどのように考えていたか。それをにたいする応えは「無記」(avyakata)である。「無記」とは、善悪を区別する以前に立つということである。彼は、欲望そのものをとりあげて、それを一方的に善とも悪とも断定的に語った人ではなかったのである。だが、そのような問題のとりあげ方は、いわば今日的なものであって、ブッダ・ゴータマ自身が、正面からそのような問題に取り組んだような証拠は、どこにもない。ただ一つの経(『ウダーナ』〔自説経〕六、八、「遊女」)は、彼が側面からその問題に触れて、つぎのような偈(韻文)を説いたと記している。
それは、ブッダ・ゴータマとその弟子の比丘たちが、ラージャガハ(王舎城)のちかくのヴェールヴァナ(竹林)の精舎にとどまっていた時のことであった。ある日のこと、ラージャガハの町に托鉢に行ってかえってきた比丘たちは、師のまえに出てこんなことを報告した。それは世間によくあることであるが、遊女を奪いあって二組の男たちが大喧嘩をした話であった。そのために重傷者も出たらしい。比丘たちが、いささか興奮しながら、そのさまを詳しく語るのを聞いて、ブッダ・ゴータマは、誰にともなくつぶやいた。それがかなりながい偈になって記されているが、そのなかにつぎのような一節がある。

禁欲を行じ、梵行をいとなむも、それは一つの極端である
欲望のなかに過誤なしとするも、また一つの極端である

欲望を一途に禁圧するをもってよしとするのは、いわゆる禁欲主義である。それも一つの極端であるとする。それに反して、欲望はすべてこれをよしとするのは、いわゆる快楽主義の主張である。それもまた一つの極端であるとするのが、この偈の意味するところである。それは、つまり、欲望そのものをもって、直ちに、そして固定的に、よしともあしとも裁断しない立場なのである。「無記」とは、そのような立場をとることなのである。(一六七〜一七一頁)


また、同氏は筑摩書房刊『仏教概論』(一二七〜一三二ページ)において上とほぼ同様の内容を書いており、そこでも、ゴータマシッダールタが四諦説法において「欲望」という言葉を一切使用せず、代わりに「タンハー」「ラーガ」といった欲望の劇的な部分的作用を現わす言葉のみを用いて説いていることに注目してます。



▲[ 26 ] / 返信無し
NO.87  Re[2]: 空殻の立場について
□投稿者/ 大閑道人
□投稿日/ 2004/01/06(Tue) 12:59:53
□IP/ 219.164.81.244
空殻師が主宰するこの掲示板の主旨に従った書き込みになるかどうか、まったく自信がないのだが・・・

不立文字は、不用文字とは違う。単に、真理は文字に乗り切れない、というほどのこと。
⇒ 私は、個人的に「真理は何語で語って来るのか?」を学生時代の課題とした。
で、真理は、言語では語ってこないで現象で諭すことを、体験として、知った。

梵語文献を学生時代に読まされたので(苦い思い出!)、その知識を基にして言えば、
日本語には「しる(知る)」に関する単語がない。「しる」の一語のみ。

漢語ならば、知る・識るなど、多彩にある(※ どういうわけか、日本語辞書がこの掲示板では、展開しない)。
梵語においても、知るについて「近づく」とか「(それに)成る」とか、さまざまな単語が類比的に「知る」を表現している。

つまり、文字情報として知識の形で「知る」と、実際体験の上で「知る」とは、同じ「知識」でも次元が違うのだ。

さらに、
>仏教、更には誤訳、意訳、音写、音訳、真言・・が混在している仏教では、字面を追っているだけでは何にもわからないのです。
というのであれば、それ以前の原語=サンスクリット語に戻りなさい、ということになるけど、言語は、如何なる言語であっても、その土地土地の歴史伝統分化風俗とともにあるので、本当に梵語母国人にならなければ、微細なニュアンスなどもわかるまい。
そうなると、それを日本語母国人に正確に伝えることも、無理難題になりますね。

玄奘の翻訳も、無駄の典型になってしまうでしょう。



▲[ 26 ] / 返信無し
NO.87  Re[2]: 空殻の立場について
□投稿者/ 大閑道人
□投稿日/ 2004/01/06(Tue) 12:59:53
□IP/ 219.164.81.244
空殻師が主宰するこの掲示板の主旨に従った書き込みになるかどうか、まったく自信がないのだが・・・

不立文字は、不用文字とは違う。単に、真理は文字に乗り切れない、というほどのこと。
⇒ 私は、個人的に「真理は何語で語って来るのか?」を学生時代の課題とした。
で、真理は、言語では語ってこないで現象で諭すことを、体験として、知った。

梵語文献を学生時代に読まされたので(苦い思い出!)、その知識を基にして言えば、
日本語には「しる(知る)」に関する単語がない。「しる」の一語のみ。

漢語ならば、知る・識るなど、多彩にある(※ どういうわけか、日本語辞書がこの掲示板では、展開しない)。
梵語においても、知るについて「近づく」とか「(それに)成る」とか、さまざまな単語が類比的に「知る」を表現している。

つまり、文字情報として知識の形で「知る」と、実際体験の上で「知る」とは、同じ「知識」でも次元が違うのだ。

さらに、
>仏教、更には誤訳、意訳、音写、音訳、真言・・が混在している仏教では、字面を追っているだけでは何にもわからないのです。
というのであれば、それ以前の原語=サンスクリット語に戻りなさい、ということになるけど、言語は、如何なる言語であっても、その土地土地の歴史伝統分化風俗とともにあるので、本当に梵語母国人にならなければ、微細なニュアンスなどもわかるまい。
そうなると、それを日本語母国人に正確に伝えることも、無理難題になりますね。

玄奘の翻訳も、無駄の典型になってしまうでしょう。



▲[ 87 ] / 返信無し
NO.90  学術的行為の意義
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/01/06(Tue) 14:49:29
□URL/ http://members13.tsukaeru.net/qookaku/
□IP/ 4.60.158.54
そういった内容で問題ありません。
むしろ、素晴らしく参考になるのでどうかご遠慮なく。

お説ごもっともです。
このことは前述の「信」についての記事をご覧いただいても分かることですが、サンスクリット語やパーリ語の場合、原語が何を意味する言葉であるかによって日本語においては同じ「信」でも、大幅にニュアンスのかけ離れたものになることがありますね。
しかし、それはある意味、「信」の本質がひとつではないということ、そして具体的にどのような行為や現象に基づくものであって、どんな作用があるものなのか、などという母国語の日常語に普通に触れているだけではおそらく考えもしないような分析的な目で、その行為や心作用を観直す切欠になる。
もちろん、それを最終的に吟味して本当にそうなのかを確かめるのはわれわれ自身であって、それはただの切欠であって誘引でしかない。
この行為の結果として、物事(特に自分自身の本質)に対する理解は深まると思われる。

上記のような事例から、学術的行為は有意義だと私は考えます。

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