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掲示板管理者:空殻
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● 仏教の修行法について /河の陽子 (04/12/14(Tue) 15:35) [313]
....● 辞典における定義 /空殻 (04/12/15(Wed) 18:00) [314]
....● 初期仏教における修行法 /空殻 (04/12/15(Wed) 18:55) [315]
........● 五停心観 /空殻 (04/12/19(Sun) 21:26) [318]
............● 数息観 /空殻 (04/12/19(Sun) 21:32) [319]
................● 『雑阿含経』に見る数息観 /空殻 (04/12/19(Sun) 21:38) [320]
................● 『達摩多羅禅経』に見る数息観 /空殻 (04/12/19(Sun) 21:39) [321]
................● 『修行道地経』に見る数息観 /空殻 (04/12/19(Sun) 21:39) [322]
................● 『坐禅三昧経』に見る数息観 /空殻 (04/12/19(Sun) 21:40) [323]
................● 『大安般守意経』に見る数息観 /空殻 (04/12/19(Sun) 21:40) [324]
....● 大乗仏教における修行法 /空殻 (04/12/15(Wed) 20:20) [316]
....● (未入力) /空殻 (04/12/16(Thu) 16:55) [317]
....● 修行法について /スターダスト (06/03/17(Fri) 10:58) [444]
....● Re[1]: 仏教の修行法について /大山 (06/04/27(Thu) 10:48) [452]


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NO.313  仏教の修行法について
□投稿者/ 河の陽子
□投稿日/ 2004/12/14(Tue) 15:35:59
□IP/ 222.8.141.111
初期仏教における修行法と現在の修行法の違いを教えてください。



▲[ 313 ] / 返信無し
NO.314  辞典における定義
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/12/15(Wed) 18:00:18
□IP/ 4.27.3.43
河の陽子さま、初めまして(^_^)
問題提示感謝いたします。
もともと腰が重いので抛っておくと何もやらない上、師走は忙しいため当分本当に何もしないつもりでいたのですが、お蔭様で少し問題意識に火がつきました。
それではまず手始めに、以下に仏教における修行の定義を、いくつかの辞典から引いてみたいと思います。改行、傍線、番号などを施してなるべく分かりやすくなるよう編集しておきます。

岩波書店『岩波仏教辞典』

修行[s: bhAvanA, yoga, anuyoga, pratipatti]
仏道修行の語が示すように、仏教における修行とは、真実の自己を実現するために、みずからの行いを正し修めることであるから、サンスクリット原語bhAvanA(みずからを現すことという原意)が「くりかえしして身につけること」を語義とする。
この語を「修行」とか「修習」と漢訳するが、「修」にも「習」にもインド古代語と同じ語義が含まれている。ちなみに中国古典では、「仁義を修行す」(史記・宋微子世家)「先王の道を修行す」(漢書・儒林伝)のように儒教の教えによって身を修めるという意味で用いられていた。
初期仏教以来、修行の目的は苦滅の境地に達すること
で、そのために戒定慧の三学が順次に修せられてきた。
まず五戒などの誓戒や生活規律を身につけ、それによって禅定・三昧の瞑想を深めながら諸種の真理観を修める。
ついで、真理の観察を通して智慧を体得する者、すなわち初歩のさとりを得る聖者位から進んで阿羅漢の解脱の位に達する者となる。ちなみに、「戒」(SIla)は習慣の意味があり、bhAvanAと同じに、くりかえし身につけるから、自戒の力が体内に蓄積され、戒香薫習(かいこうくんじゅ)の人とたたえられる。
また、「慧」は智慧(prajn~A)のことで、相対分別する知識を超えた無分別智をいい、この智慧は正法(正しい真理の教え)を聞くこと、あるいは思惟(思索)すること、あるいは修習することによって得られるとする(聞思修[もんししゅ]の三慧という)。そこで、智慧の獲得は単なる知識・理論よりも、修行によってなされることがわかる。
ゴータマ・ブッダ(釈尊)の出家目的が聖求(ariyapariyesanA、聖なるものの探求)であり、菩提樹下でさとりを開き覚者となって80歳で入滅するまで、ひたすら聖求の道を歩み続けたと、ブッダみずからが語っている。さとりを求める人を菩薩(求道者)と呼ぶが、ブッダはさとりを開いて覚者となっても、なおさとりを求め続けた。仏も求道者であり、永遠の修行者であるということである。
大乗仏教は、このような釈尊観に立つ。とりわけ、大乗仏教徒は前生の釈尊が菩薩の修行をなしたことに共鳴し、かれらも菩薩と称して空観と慈悲観を修行内容とした
修行によって仏果のさとりを得るといっても、釈尊滅後、修行道が複雑化し、人びとの能力低下などによって、さとりを現生において得ることが困難であるとされ、三祗百大劫(さんぎひゃくだいこう)という長年月を経なければならぬとさえいわれ出した。一方、道元のいうごとく、修と証は別々のものでなく(修証一等)、修行の一歩一歩が証に現成しており、また仏も求道者であるという把握に基づく本証妙修の考えが強調されたことは、仏道修行の本旨を鮮明にするものである。
なお、「修行」は、日本では転義して、托鉢などをして諸国の霊場寺院を遍歴すること、廻国巡礼の意味となり、さらに広義に諸芸諸道の習得に努力する意ともなった。


法蔵館『仏教学辞典』

修行
教えを身にたもって修め習い実践することで、仏教ではさとりを求める心を発(おこ)し(発心)、その願望目的を達成するために修行し、その結果としてさとりを開くとする。日本では修行の語を、特に頭陀(ずだ)苦行、または廻国巡礼の意味に用い、これを行なう者を修行者(しゅぎょうじゃ、ずぎょうさ)ということがある。声聞・縁覚・菩薩がそれぞれの究極の果に至るまでの修行の年月について、声聞は三生六十劫、縁覚は四生百劫、菩薩は三祗(ぎ)百劫を要するとする。

 〇粟枯蚕醜紊箸蓮∪縞垢阿羅漢果に至るのに、最も速い者は三度生まれ変わる期間を経、最も遅い者は六〇劫(この劫は刀兵などの一中劫)を経るとし、第一生または初めの二〇劫には順解脱分を起こし(三賢位)、第二生または次の二〇劫には未至定によって順決択分(じゅんけっちゃくぶん)の慧を起こし(四善根位)、第三生または終わりの二〇劫には根本定によって再び順決択分の慧を起こして見道に入り、ついに無学果を証するとする。ただし第三生で初めて順決択分の慧を起こすとする説もある。また、速い者を利根、遅い者を鈍根とするが、逆に遅い者は長い鍛錬に耐え得る練根で利根の者とすることもある。

◆〇誉孤換紊箸蓮縁覚が辟支仏果に至るのに、最も速い者は四生、最も遅い者は百劫を要するのをいう。倶舎論第一二には、麟角喩(りんかくゆ)独覚(縁覚)は必ず百大劫の期間にさとりのものでとなるものを修めると説き、四生の説を説かない。

 三祗は三阿僧祗(あそうぎ)劫(三僧劫、三祗劫)、百劫は百大劫の略で、三僧劫百大劫ともいい、菩薩は三百大劫ともいい、菩薩は三阿僧祗劫にわたって波羅蜜を修め、その後の百大劫において、仏が具えるすぐれたすがたかたち(三十二相、八十種好)を生ずるたねとなる相好業(そうごうごう)を植えるとし、これらの修行を三祗の修行、この修行を経て成仏するのを三祗成仏という。
⇒ 大毘婆沙論巻一七八には、菩薩が初阿僧祗劫に七万五千仏、第二阿僧祗劫に七万六千仏、第三阿僧祗劫に七万七千仏という数多い仏につかえて、さとりに至るもとでを作り、次いで九一劫に六仏につかえて異熟業を修め、王宮に生まれて後、三四心断結成道することを説き、大智度論巻下では三祗のみを説いて百劫を別に説かない。
⇒ 法相宗では初阿僧祗劫は五位のうちの資糧・加行の二位で、ここでは一行のうちに一行を修め、第二阿僧祗劫は通達位及び修習位の一部、即ち初地から七地までで、ここでは一行中に一切行を修め、第三阿僧祗劫は修習位の残り、即ち八地から十地の満心までで、ここでは一切行中に一切行を修める。そして十地の満心において等覚の位にのぼり、ここで成仏のための方便の行を修めるのが百劫の行にあたる(五位)。また三祗の修行の間において階をとび超えて高い修行階位に至ることができるとし、これを超劫というが、初地以上には超劫がないとする説もある。
⇒ 華厳宗や天台宗では、三祗百劫の説は小乗および下根の者のための方便的な教えについていうのであるとし、両宗がそれぞれに円教とする教えからすると、衆生は本来的に仏であるから三祗という時間の長さは問題ではないとする。
⇒ また真言宗では三劫の妄執(三妄執、さんもうじゅう)を一念に超えることを説き、
⇒ 浄土教では本願の力によって往生し成仏させられるのであるから三祗の修行を説かない



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NO.315  初期仏教における修行法
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/12/15(Wed) 18:55:14
□IP/ 4.27.3.43
宇井伯壽氏も
仏陀の教の凡ては皆之を実践の上に表はすことに於て其真の意義を発揮するものである。そして実践の道としては種々なるものがあるであらうが、其中で最重要にして基礎的のものとも称し得べきものは即ち八聖道である。(岩波書店『印度哲学研究 第三』一九六五年、五〜六頁)

といっているように、八正道(八聖道、八支聖道、Aariyo aTThaNgiko maggo, AryANgikamArga)は四諦に基づいた初期仏教の基本的な修行項目で、これを完成することで涅槃にいたると説かれていました(ただし、十二縁起(掲示板の歴史-九)と同様に、これが当初から修行道の段階的展開を意図して説かれたものだったのかを疑問視する説もあります)
以下はその八項目の、稲垣久雄氏(龍谷大学教授)による定義です。

  1. 正見
    四諦の一つ一つを認知することが中心であるが、また善悪の業とその報いがある、などと正しく見ることをいう。
  2. 正思惟
    欲と怒りと人を害する気持を起こさないことである。
  3. 正語
    妄語、両舌、悪口、綺語などをなさないことである。
  4. 正業
    十悪のうち体の行為に関する三つ、すなわち殺生、偸盗、邪淫をつつしむことをいう。
  5. 正命
    占いなどの間違った生活方法を捨てて、出家者の場合は衣服、飲食など定められた規則に基づく正しい生活をすることをいう。
  6. 正精進
    四つの面で努力することをいう。すなわち、(1)すでにしてしまった悪は断ずる、(2)まだしていない悪は起らないようにする、(3)まだしていない善は起るようにする、(4)すでにした善はますます増大するようにする。
  7. 正念
    特に四念処といわれる観念をさす。すなわち、(1)体は不浄である、(2)感覚でとらえられるものは苦しみである、(3)心は無常である、(4)法、すなわち存在するものは無我で実体がない、と観ずることをいう。
  8. 正定
    正しい禅定のことで、特に初禅から四禅までの高い三昧の境地をいう。

後には、これを含めた三十七の修行方法がまとめられて、三十七菩提分(三十七覚支)として語られるようになりました。

田中教照氏(武蔵野女子大教授)は岩波書店『インド仏教/3』所収の『戒・定・慧――修行道の体系』という論文の中で「八聖道は、釈尊の初めての説法において説かれた、と伝承する経典もあり、仏弟子たちのあいだではことほど左様に重視されてきているのである」と述べており、また『中部経典』中「大四十経」を参照して八正道が修行段階論として詳しく説かれていることを報告しています。
経典引用の詳細は論文を実際に読んでいただくとしまして、以下は同経の説示から同氏が導き出した六つの項目です。

  1. 冒頭の一文から、八支のなかでは正定が中心に位置し、他の七支は正定の補助具であること。
  2. 正定を除く七支のなかでは正見が常に先頭に位置し、この正見によって邪見・邪思惟・邪語・邪業・邪命と正見・正思惟・正語・正業・正命の区別がなされ、また、邪見・邪思惟・邪語・邪業・邪命の断除のためにつねに正精進と正念とともにこの正見が随転すること。
  3. 正見・正思惟・正語・正業・正命には有漏と無漏の二種類があり、有漏のものは煩悩(漏)があり、福徳を分有し(pun~n~abhAgiya)、煩悩の拠り処たる心身の展開上にあるもので、無漏のものは聖なる、煩悩なき、世間を出た、悟りへ至る道の一部であるものである。
  4. 正精進と正念は正見と共に正思惟・正語・正業・正命を実現し正定へと修行を達成させる修行の基礎となるものであること。
  5. 八支は正見からはじまり、正思惟、正語などと順次、段階的に進んで正定に至り、さらに正智・正解脱へと修行道が完成されていくことを示しており、これは明らかに八聖道が修行の方法として用いられることを示していること。
  6. 八支は正定で終わることなく、さらに正智・正解脱へと連絡して修行が完成されるわけで、八支は有学にすぎず、無学である十支道の完成がなければ、実質的な修行道とはなりえないこと。


この十支道は「大四十経」のみではなく『増支部経典』にも頻繁に説かれることから、同氏はこれを修行道とする考えはかなり広く行なわれていたのだろうと述べてます。
また「有明小経」の八正道の項目を三学(戒定慧)に分けて正語・正業・正命は戒学、正念・正定は定学、正見・正思惟を慧学にカテゴライズし、正精進を三学共通とする説がありますが、R. Buckness氏はこれを批判して「十支道=三学」すなわち「正見・正思惟・正語・正業・正命=戒学」「正精進・正念・正定=定学」「正智・正解脱=慧学」と捉えています。
一方、同じく「八正道=三学」について宇井氏は「修行道の大綱は八聖道とは独立に組立てられたものと考へられるるし、此が組立てれて後此方から八聖道を見て此に配当せむとしたのが実際上の経過」(『印度哲学研究 第三』四七頁)と述べています。

また、田中氏は同論文で『中部経典』「象跡喩小経」を阿含・二カーヤにおける三学の修行道を提示した代表的経典として取り上げ、次のようなおよそ十三段階に分類し得る段階的な「修行の実態」を導き出しています。

  1. 如来の説法と資産家たちの出家
  2. 戒の修得
     /塙埓蕎堯壁垰生など)
     語行清浄(不妄語など)
     生活清浄(種子を傷つけないなど)
  3. 感官(眼〜意)の制御
  4. 正念正知
  5. 独住遠離、五蓋(貪欲・瞋恚・棔眠・掉悔・疑)の捨断
  6. 初禅
  7. 第二禅
  8. 第三禅
  9. 第四禅
  10. 宿住随念智
  11. 死生智
  12. 漏尽智(四聖諦の観察)
  13. 解脱

これは三学に割り当てると戒=二、定=三〜九、慧=十〜十三となることから、三学の修行道を提示したものといわれていて、同氏はこれとまったく同文が「自他共に苦しめない者の修行法」として「カンダラカ経」に載せられていること、またこの「自他共に苦しめない修行法」が『集異門足論』や『人施設論』といった後の初期アビダルマ文献にも採用されていることから、後世にいたっても代表的な修行法として見做されていたと断言しています。

以下は、宇井伯壽氏による「沙門果経」に説かれる修行道の概観。

  1. 如来が出現して初中後善の完全な法を説くを聴いて如来を信じ
  2. 在家を捨てて出家し梵行を修して解脱に達せむと欲し
  3. かくして出家せる沙門比丘は波羅提木叉の定むる制御によつて自らを制御し善所行を具し僅少の過犯をも怖れ、諸学処を持して行じ、正しき身業と口業とを得て清浄に生活し、戒を具足し、諸根の門を護り、正念正智を得て、知足にして住すと説き、そして戒具足の詳説として前引用の小中大の三戒を其儘列挙し(此経四三−四五、四六−五五、五六−六二)、之を戒蘊と称して結び(六三)
  4. 又護根の説明をなし(六四)、正念正智を解釈し(六五)、知足を詳説し(六六)、更に、此の如き四種を完全して独処に閑居し結跏趺坐して身を整へ、念を緊張にし(六七)、貪欲瞋恚睡眠掉挙疑の五蓋を捨離す(六八)と説いて次に多くの譬喩説を挙げ(六八−七四)
  5. 進むで四禅を一々譬喩を伴ふて詳説し(七五−八二)、また四禅の効果として得らるる神通天耳他心宿命天眼漏尽の三明六通を一々譬喩によつて明にしつつ説いて居る(八三−九八)。

田中氏は各面から同経典を「これまでに示した修行道の総合」「仏教内外の修行道の総合」「あらゆるものをつぎ込んだ修行道の集大成」であると評しているのですが、そのためにあまりにも多くを含みすぎて修行の実態を見えにくくしてしまっていることから、実際の修行道というよりも修行道「論」であるとも言っています。



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NO.318  五停心観
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/12/19(Sun) 21:26:58
□IP/ 4.27.3.43
以下は『岩波仏教辞典』による五停心観の定義。

五停心観 ごじょうしんかん
小乗アビダルマ(阿毘達磨、あびだつま)の三賢の第1位。声聞の入門的な仏道修行である。邪心を停止する5種類の観法。

 ”埔観 肉体や外界の不浄なありさまを観じ、貪りの心を止める。
◆〇悲観 一切衆生を観じて慈悲の心を生じ、怒りの心を止める。
 因縁観 諸事象が因縁によって生ずるという道理を観じ、愚かな心を止める。
ぁヽκ別観 五蘊・十八界などを観じ、物に実体があるという見解を止める。
ァ/息観 呼吸の回数を数えて、乱れた心を止める。

界分別観のかわりに念仏観(仏随念、仏徳を繰り返し億念して禅定三昧の中に観仏すること)をおいて、「五種観門」ともいう。


同様に、『仏教学辞典』より二項目引用。

ごじょうしん‐かん 五停心観
五度観門、五門禅、五観、五念ともいう。仏道修行の最初の位において、五種の過失を止めるために修める五種の観法。
即ち

 ”埔観 自他の肉体の不浄な有様を観察して、貪欲を止める。
◆〇悲観 一切衆生に対して慈悲の心を起こして瞋恚を止める。
 因縁観 縁起観ともいう。諸法因縁生の理を観察して愚癡を止める。
ぁヽκ別観 界差別観、界方便観、分析観(ぶんしゃくかん)ともいう。十八界の諸法はすべて地・水・火・風・空・識の和合に外ならないと観察して我見を止める。
ァ/息観 呼吸を数えて散乱した心を整える。

である。
時には界分別観を省いて念仏観(仏を念じて種々の煩悩を止める)を加える。このような五停心観を修める位を五停心位(ごじょうしんい)といい、小乗ではこの位から別相念住位を経て総相念住位に至るまでの三位を総称して三賢(さんげん)という。

さんげん‐い 三賢位
修行の階位。

[1] 小乗の三賢。
涅槃の証果(解脱)をもたらす(順ずる)はたらきのある有漏の善根(順解脱分)を修める段階で、外凡位(げぼんい)ともいう。即ち五停心(観)位・別相念住位(別相念処位)・総相念住位(総相念処位)の三である。四善根位(内凡位)とあわせて七方便位といい、見道に入るための準備的な修行の階位にあたる。
 仝淞篆粥粉僉飽
五停心観によって貪・瞋・癡・我見・散乱心の五種の心をおさえる位。
◆(盟蠻綾三
身・受・心・法を個別的に順次に不浄・苦・非常・非我であると、その自相(独自なすがた)を観じ、またそのいずれもが非常・苦・空・非我であると、その共相(ぐうそう、共通なすがた)を観じて四念住を修める位。
 総相念住位
四念住の全体がただちに非常・苦・空・非我であると総括して、その共相を観ずる位である。
このうち五停心位で奢摩他(しゃまた、心をしずめること。止)を成就し、次の二位で毘鉢舎那(びばしゃな、観)を成就する。

[2] 大乗の三賢。
十地以前の菩薩の階位に三階三十心の別があること。また三十心ともいう。普通には瓔珞本業経などに基づいて十住・十行・十廻向の三階位をこれに当て、十信を外凡位とするのに対して内凡位ともいう。



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NO.319  数息観
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/12/19(Sun) 21:32:28
□IP/ 4.27.3.43
以下は『岩波仏教辞典』による数息観の定義。

数息観 すそくかん [s: Ana-apAna]
原語の漢訳語で、音写では「安那波那(あなはな)」または「安般(あんぱん)」という。出入の息を数える観法。出入の息を数えることによって、心の散乱を収め、心を静め統一する方法で、五停心観(ごじょうしんかん)の一つ。ヨーガの行法としてインドで古くから行なわれていたのが仏教にも取り入れられたもの。最初期の漢訳仏典の一つである後漢(25-220)の安世高訳の大安般守意経上に「安般守意に十黠あり。数息・相随・止・観・還・浄・四諦と謂う」とあって、中国にも非常に早い時期に伝えられている。


同様に、『仏教学辞典』より二項目引用。

すそく‐かん 数息観
(梵)アーナーパーナ・スムリティAnApAna-smRtiの意訳。念出入息と直訳し、持息念とも意訳する。アーナーパーナは安那般那、安那波那、略して安般と音写する。五停心観の一。出入の息の数をかぞえて心をしずめる観法で、正定に入るためにこれを修める。これをさらに多種類に細分して拡充したものが十六特勝である。

じゅうろく‐とくしょう 十六特勝
十六勝行ともいう。呼吸を数えて心の散乱を除く精神統一法(数息観)を多種類に細分拡充したもので、十六種の特に勝れた観法という意。内容細目、順序、解釈に不同があり種々の説がある。
いま成実論巻十四によれば、

 ’安短 まだ心が粗雑で散乱しているから呼吸が短いが、その短い呼吸に心を集中して意識的、自覚的に呼吸する。
◆’安長 同様に心が微細になれば呼吸も長くなるのを観ずる。
 念息遍身 肉身が空であることを知り、気息が身に遍満するのを観ずる。
ぁ―身行 身体的行為を除くことで、心が安静になって粗雑な息が滅する。
ァヽ亟遏/瓦亡心遒鯑世襦
Αヽ亞據/箸飽続擇鯑世襦
Аヽ仗換圈ヾ遒ら貪心が起こることの禍を知る。
─―心行 貪心を滅し粗雑な受を除く。
 覚心 心が沈まず浮き立たないのを知覚する。
 令心喜(りょうしんき) 心が沈めばふるい起こして喜を生じさせる。
 令心摂(りょうしんしょう) 心が浮きたてばこれをおさめ静める。
 令心解脱(りょうしんげだつ) 心の浮き沈みを離れて解脱する。
 無常行 心が寂静となり一切の無常を知る。
 断行 無常を知って煩悩を断つ。
 離行 煩悩を断って厭い離れる心を生ずる。
亜〔嚢圈 ̄淮イ靴動貔擇量任鯑世襦


人文書院『気の伝統/調息法を中心として』(鎌田茂雄、一九九六年)では、仏教修道の基本である数息観と、それに付随する形で五停心観その他について書かれている。
以下、記事[No.320][No.321][No.322][No.323][No.324]では、同テキストの記述に従ってその内容を纏めて紹介したい。

まずは、鎌田氏による数息観の定義(趣意)
パーリ語AnApAna-sati(安那般那念)で、出入の息を念ずる観法。
あらゆる呼吸法の基本で、吐く息と吸う息を十まで数え、十までいったらまた繰り返して数える。これを何回か繰り返していると自然と気持が落ち着き、精神が統一されるようになる。基本であるだけに、これは坐禅のみでなく、いたるところで応用できる。たとえば就寝時に行なう寝禅や、歩きながら行なう呼吸法などにもこれを適用できる。



▲[ 319 ] / 返信無し
NO.320  『雑阿含経』に見る数息観
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/12/19(Sun) 21:38:34
□IP/ 4.27.3.43
鎌田氏によると、『雑阿含経』における数息観の記述で注目すべきなのは「内息」と「外息」と表現されるコンセプトである。氏はこれらをそれぞれ「体内呼吸」「体外呼吸」と解釈している。

巻二十六「安般品」には、まず五つの修行方法があると説かれる。

  1. 戒律 =浄戒を守り、威儀を正し、微細の罪を犯しても怖畏を生じ戒律を守る。
  2. 復た次に比丘は、小欲、小事、小務たること(仕事や務めを少しく減らすこと)。そして安那と般那の呼吸法を修習せよ。
  3. 比丘、飲食するに量の多少を知り、飲食に対して欲望を起さず精勤思惟すること。そして安那般那念もて修せよ。
  4. 睡眠を多く貪らないで精勤思惟すること。そして安那般那念もて修せよ。
  5. 比丘、静かな林中に住して、さわがしいところを離れ、そして安那と般那の呼吸法を学ぶべし。

同品は『安那般那念経』を引いて、仏が舎衛国(コーサラ国の首都シュラーバスティ)の祗樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん、祗園精舎)で安那般那の念の効用を説いている。
すなわち、これを多く修習すると身心が安らかになり、心が寂滅、純一になって明らかになるということである。
まず、その前段階として、修行者は次のようにすべきであると同経典は説いている。

  1. もし集落や城邑に行ったなら、早期に衣を著け鉢を持ち、村に入って乞食する。
  2. その時、よくその身を護り、欲望の入口となる六根をしっかり守り、よくその心にそのことを留めておく。
  3. 乞食し終って住処に帰り、衣鉢をおいて、足を洗い終わったならば林の中の樹の下や、或は空き地に入って端身正坐して観念する。

このようにすることによって、修行者は世間の貪愛を断じて欲を離れ清浄になり、瞋恚、睡眠、悼悔、疑などを断じて心を善法に決定することができること、煩悩がなくなることを説いている。
同品ではさらに安那般那念、すなわち数息観の詳細が説かれている。
鎌田氏は、ここで説かれる「内息」「外息」が非常に重要であるという。
以下は同品に見られる数息観の詳細である。

  1. 内息(内呼吸、体内の呼吸)を念じては念を繋(か)けて善く学す
  2. 外息(外呼吸、体外の呼吸)を念じては念を繋けて善く学す
  3. 息の長き息、一切の身の入息を覚知して、一切の身の入身に於いて善く学す
  4. 一切の身の行息を覚知して、一切の身の出息に於いて善く学す
  5. 一切の身の行息・入息を覚知して、一切の身の行息・入息に於いて善く学す
  6. 一切の身の行息・出息を覚知して、一切の身の行息・出息に於いて善く学す
  7. 喜を覚知する
  8. 楽を覚知する
  9. 身行を覚知する
  10. 心の行息・入息を覚知して、心の行息・入息を覚知するに於いて善く学す
  11. 心の行息・出息を覚知して、心の行息・出息を覚知するに於いて善く学す
  12. 心を覚知する
  13. 心悦を覚知する
  14. 心定(心の統一)を覚知する
  15. 心の解脱(凝り固まった心が解けること)入息を覚知して、心の解脱入息を覚知するに於いて善く学す
  16. 心の解脱出息を覚知して、心の解脱出息を覚知するに於いて善く学す
  17. 無常を観察する
  18. 断(煩悩を断ずること)を観察する
  19. 無欲を観察する
  20. 滅入息を観察して、滅入息を観察するに於いて善く学す
  21. 滅出息を観察して、滅出息を観察するに於いて善く学す
  22. 身止息し心止息して有覚、有観ならば寂滅、純一にして明分なる想の修習が完成する(鎌田氏は、これを「息は体全体で行なう体呼吸となり、かくて安那般那の最高の境地を体得することができる」と解釈している)



    ▲[ 319 ] / 返信無し
    NO.321  『達摩多羅禅経』に見る数息観
    □投稿者/ 空殻
    □投稿日/ 2004/12/19(Sun) 21:39:07
    □IP/ 4.27.3.43
    同氏によると、『達摩多羅禅経』でポイントとなるのは「呼吸」と「無常観」の関連性である。

    『達磨多羅禅経』は東晋の仏陀跋陀羅(三五九〜四二九)の訳。
    禅定三昧に入る方法としての数息観、不浄観などの観法を説く経典で、鎌田氏によると数息観に関してはもっとも詳しい資料だということである。
    同経典で数息観を説くのは「修行方便道安般念決定分(しゅぎょうほうべんどうあんぱんねんけつじょうぶん)」第七で、ここでは次のようなことを説いている。

    • 出息の念を善くすれば、入息も倶に亦た然り
      (吐く息に重点をおくべきということ)
    • 出息入息の時、正しく無常の相を観ずべし
    • 譬えば天の運行するが如く、息の変ずることは彼よりも疾し
    • 比丘よ安般念の雑想覚に乱され、既に乱れて心悦ばずんば応に数より起すべし
      (雑念によって心が乱れた場合には数を数えよ)



    ▲[ 319 ] / 返信無し
    NO.322  『修行道地経』に見る数息観
    □投稿者/ 空殻
    □投稿日/ 2004/12/19(Sun) 21:39:35
    □IP/ 4.27.3.43
    同氏によると『修行道地経』で注目すべきなのは呼吸法の体系化ということである。

    『修行道地経』
    七巻三十品。西晋の竺法護(三世紀後半)訳。
    さまざまな修行法の説明や修行の段階を説いたもので、ほぼ順をおって禅観修道の階程を示す。

    以下は同経典に説かれる修行階程の一般論的な順序であり、坐禅観法の予備的基礎となる訓練。

    1. 修道の手始めとして、自己の苦悩や恐怖から逃れるために己を空しくして仏法僧の三宝を念じる
    2. 眼・耳・鼻・舌・身の五根の欲望を制して色・声・香・味・触の五境に駆使されないよう努める
    3. 食を貪ることが道行に益なきことを自覚する
    4. 他人に対しては寛容慈悲の徳を以て、瞋恚の心を起して自ら苦悩を招くことのないようにする
    5. わが身心を反省して四念処観を学ぶ(つまり、身は不浄なり、感覚器官は苦なり、心は無我なり、法は無常なり、ということ)
    6. 専ら心を摂して信・精進・智慧の諸徳を以て三毒のために乱されないように工夫する
    7. 専念道に進むべきを勤める
    8. 空無我の理を慕い、究極の境地の涅槃に達することを志して正法を念じ、常に歓喜してますます修道に進入する

    そして禅観修行に入るために必要な五種の観法(五門)が、次のように説かれている。

    1. 情欲熾(さかん)なる者に不浄観
    2. 瞋恚熾なる者に慈心観
    3. 愚痴多き者に因縁観
    4. 想念多き者に数息観
    5. 驕慢多き者に白骨観

    鎌田氏は、修行者はかならずしも上記の五項目のすべてを修する必要はなく、その一門に入ってそれを最後まで修行すれば、究極の解脱位に到達できると説かれていると述べる。
    また巻五「数息品」には呼吸法の詳細が書かれているといい、その方法として次の四つを数える。

    1. 数息
      「若し修行者、閑居無人の処に坐して志を秉って乱れず、出入息を数え、而して十に至らしめて一より二に至る。設し心乱るれば当に復た更に数えて一、二より九に至るべし。設し心乱るれば、当に復た更に数うべし。是を数息と謂う」
      「自在にして不同なること譬えば山の如く、出入息を数えて十に至らしめ、昼夜月歳懈止せず、修行して是くの如く数息を守る」
    2. 相随
      「数息し意定まって自由なり。息の出入を数うるを修行と為し、其の心相随って乱れず、数息して心を伏するを相随と謂う」
    3. 止観
      「牧牛者の遥かに住して察し、群の沢上に在るを護視するが如く、数息を持御するも亦是くの如く、守意(意識の集中)すること彼の若き是を観と謂う」
    4. 還浄(げんじょう)
      「(還浄の状態になるには)心を鼻頭に係けて、当に数息を観じ、其の出入を知るべし」
      「譬えば守門者の、坐して出入の人を観るに、一処を在って動かず、皆人数を察知するが如く、当に一心に数息して、其の出入の息を観ずべし。修行も亦是の如く数息して還浄を立す」

    ここで鎌田氏は、止観を説明する場合に用いられるこの「守意」という言葉に注目し、この語を経名とする『大安般守意経』を仏教における呼吸法の集大成であると言及している。



    ▲[ 319 ] / 返信無し
    NO.323  『坐禅三昧経』に見る数息観
    □投稿者/ 空殻
    □投稿日/ 2004/12/19(Sun) 21:40:00
    □IP/ 4.27.3.43
    同氏は、『坐禅三昧経』の要点として、同経典の特徴でもある「丹田呼吸の重視」を挙げている。

    『坐禅三昧経』
    別名『菩薩禅法経』、略称『禅経』。
    後秦の鳩摩羅什訳。
    禅法を専修して解脱すべきことを説いたもので、治貪欲法門(不浄観)・冶瞋恚法門(慈心観)・冶愚癡法門(因縁観)・冶思覚法門(数息観)・冶等分法門(念仏観)の五門禅の教えなど修道の次第を開示する。数息観に関しては、『達摩多羅禅経』(記事[No.321])に同じく「無常観を得やすいからである」と説いている。

    第四「思覚を治する法門」
    • 若し、思覚偏に多ければ当に、阿那般那三昧の法門を習うべし(冒頭)
    • 阿那般那(anApAna)とは出入息を観じて三昧に入ることで、これには「初習行」「巳習行」「久習行」の三種の修行法がある
    • 数息観を行なうのは無常観を得やすいからである
    • 心を数えれば諸の思覚を断ずることができる

    三種の阿那般那
    1. 初習行
      若し初習行ならば当に次のように教えなければならない。一心に念じて入息出息を数える。或は長、或は短、一から数えて十に至る。
    2. 巳習行
      もし巳習行者ならば、一を数えて十に至り、息の入出に随って、念と息とを倶に一処に止めることを教える。
    3. 久習行
      もし久習行の者にならば、この安那般那三昧は数・随・止・観・転観・清浄の六種(六妙門)に分けて説く

    六妙門
    1. 数息門
      一から十まで呼吸を数え、乱れた心をおさめる。
    2. 随息門(anugama)
      息を数えることなく、呼吸にしたがって心を散乱しないようにする。
    3. 止門(sthAna)
      心を平静にし、邪念を離れて心を一つの対象に集中させること。
    4. 観門(upalakSaNA)
      対象を明らかに観察すること。
    5. 還門(vivartanA)
      転ともいう。観察する心を反省し、その空なること、すなわち実体がないことを知ること。
    6. 浄門(pariSuddhi)
      心によりどころを持たず、妄想の起こらないようにすること。

    上記で呼吸に関係しているのは(1)〜(3)である。

    六思覚
    • 欲思覚
    • 恚思覚
    • 悩思覚
    • 親里思覚
    • 国土思覚
    • 不死思覚
      (*この不死思覚が無常観を得るために重要な項目である)

    前三項目を麁思覚、後三項目を細思覚といい、浄心を求めて正道に入らんと欲する者は、まず麁思覚(麁病)を除去し、次に細思覚(細病)を除かねばならない。これらがすべて除かれて初めて一切清浄の法が得られる。六思覚を除き無漏道を得るためには、心を世間を厭い、常に正観を続けて煩悩を除いていかなければならない。

    不死思覚(自分は死なないという無意識的な思い込み)を除くためには、死の存在をとことん実感せねばならない。
    • 数息法を得れば、つぎに
    • 随法を行じて諸の思覚を断じなければならない

    と説かれているらしいが、これが正しいならば、他の思覚を断じてこれを行なうためには矢張り、数息観をまず行なう必要があるといわなければならない。

    鎌田氏は第三項目「止法」について、「丹田呼吸という観点からみて重要」であると主張している。どうやら同経典には次のようにあるらしい。
    1. 止法とは、意を風門に住せしめて、入出の息を念ずるなり心を風門すなわち丹田(臍の下の下腹部)に集中する。そして、それによって諸思覚を断じて心の散乱を防ぐことができる。数と随の息の時は心はまだ不安定で散乱している。止になればすなわち心は静かに安定する。心を一処に集中すれば、息出づる時は臍心胸咽より口鼻に至り、息入る時は口、鼻、のど、胸より臍(臍下丹田のことだと氏は解釈する)に至るを知ることができる。この如く心を一処に繋げた状態を名付けて止と為す。
    2. 入息には身中乃至足指や体中の毛孔にまでも遍く水が砂に入るように感じ、息の出る時には足から髪に至るまで、毛孔にまでも水が砂に滲みてゆくように覚知する。一切の毛孔から体全体で呼吸をするのが大切である(同三三頁)

    このように、丹田呼吸からさらに身体呼吸を説くのが同経典の特徴なのだという。



    ▲[ 319 ] / 返信無し
    NO.324  『大安般守意経』に見る数息観
    □投稿者/ 空殻
    □投稿日/ 2004/12/19(Sun) 21:40:26
    □IP/ 4.27.3.43
    同氏はこの『大安般守意経』をもって「仏教における呼吸法の完成」であるとしている。

    『大安般守意経』
    後漢の安世高訳。中国に訳された経典群の中でももっとも古い部類に属する。
    インドの仏典の中で調息法だけを専門的に説いている経典は同経典のみであるという。
    安世高は安息国(パルティア)出身であり、中央アジアにあった当時の安息国にこのような経典が存在したのではないかと鎌田氏は推測する。ちなみに、現存している『大安般守意経』は西暦三世紀に訳されたために古訳が使われていて、氏は十分に意味を理解できないといっている。

    同経典の名前ともなっている「守意」という言葉はサンスクリット語「sati」の訳語で、念とも訳される。
    すなわち、意(心)を乱さずコントロールするという意味である。
    氏は、同経典における次のフレーズに言及している。
    • 「仏が坐して安般守意を行ずること九十日」(冒頭)
      鎌田: 九十日やれば一定の程度まで修得できる。釈尊が九十日間守意を修したということには重要な意味があると思う。
    • 「安般守意に十黠(慧)有り。謂く、数息と相随(anugama)と止(sthAna)と観(upalakSaNA)と還(vivartanA)と浄(pariSuddhi)と、四諦と、是れを十黠を成ずと為す」
      鎌田: 四諦を除いた六項目が安般守意を行なうのに特有なもので、中国の天台大師はこの六つを「六妙門」と名付けた。この六妙門こそ同経典が明らかにしようとしたものである。
    • 「何等をか安と為し、何等をか般と為す。安を名づけて入息と為し、般を名づけて出息と為し、息を念じて離れざるを是れを名づけて安般と為す。守意とは意を止するを得んと欲す」
      鎌田: 安般とは入息と出息の呼吸を意識することであり、守意とは心を一つにとどめて散乱させないことである。

    岩波書店『訳経史研究』所収「安世高の研究」(宇井伯壽博士、一九七一年)で、宇井氏は同経典の本文と陳慧による註釈とを書き下し文にしている。以下は各語彙とそれらに対する経典の説明、及び陳慧の註釈である。
    • 守意
      守意とは無所著(むしょじゃく、つまり無執着)を守意と為し、所著有るをば守意と為さず。(陳慧)
    • 六法(六妙門)
      数息、相随、止、観、還、浄を念じて意を修せんと欲す。道に近きが故なり、是の六事を離るれば、便ち世間に随うなり。数息は意を遮すとなし、相隋は意を斂(おさ)むとなし、止は意を定むとなし、観は意を離るとなし、還は意を一つにするとなし、浄は守意となす。人が意を制すること能わざるを用っての故に此の六事を行ずるのみ。
    • 安般守意
      人、安般守意を行いて、数息、相随、止を得て便ち歓喜す。此の四種は譬えば火を鑽(き)りて煙を見るも、能く物を熟せざるが如し。何等かの喜びの用を得るも、未だ出要を得ざるが故なり。

    1. 数息
      数息に三事有り。 ^譴砲賄に坐行(つまり坐禅)すべし。◆‘鵑砲録Г鮓て当に非常(つまり無常)不浄を念ずべし。 三には当に瞋恚、疑、嫉を暁(さと)り、過去を念ずべし。
      数息の得られないのに三因縁あり。 ^譴砲郎瓠文撞曚乱れるような障害、たとえば雑念や妄想が次々に浮ぶこと)が到る。◆‘鵑砲蝋圓工ならず、 三には精進せざるなり。
      入息は短く、出息は長く、念いに従う所無きを道の意と為し、念う所の有るを罪と為す。罪は外に在って内に在らざるなり

      坐と行
      道の人、道を得んと欲せば、要らず当に坐行の二事を知るべし。 ^譴砲郎繊丙造辰討僚す圈∪伝機砲醗戮掘↓◆‘鵑砲蝋圈糞咾鰺僂い討瞭虻遒里△觸す圈動禅)と為す。問う。坐と行とは同じと為すや、不同なりや。報(こた)う、有る時は同じにして、有る時は不同なり。数息、相随、止、観、還、浄の此の六事は有る時には坐と為し、有る時には行と為す。何を以ての故に。数息(呼吸法)にて意は定まる。是を坐と為し意の法に随う(心の安定に随って行動すること)を是を行と為す。巳に意を起して離れざるを行と為し、亦坐とも為すなり。

      三坐
      坐に三坐ありて道に随う。 ^譴某息坐(数息を坐位によって実行すること)、◆‘鵑幕峽从繊雰佇犬魄貎瓦貌赴屬垢襪海函法↓ 三に聞経喜坐(誦経を聞いて喜ぶこと、または他の者たちと共に読経する喜び)を為す。

      数息の目的
      問う、仏は何を以て人に数息守意を教うるや、報う、四因縁有るなり。 ^譴砲歪砲鰺澆擦兇襪鰺僂辰討慮里覆蝓閉垢坐っていると脚腰が痛くなるが、数をかぞえていると多少でも痛みを減らすことができるため)、◆‘鵑砲詫隶佞鯣鬚るを用っての故なり(心の散乱を防ぐため)、 三には因縁を閉じて生死を会するを欲せざるを用っての故なり(迷いの原因である外界からの刺激、雑音を遮断するため)、ぁ〇佑砲賄洹 道(ないおんどう、つまり涅槃)を得んと欲するを用っての故なり。

    2. 相随 (anugama)
      相随とは善法を行うをいう。是に従りて脱を得、当に与に相い随うべし。亦謂く、五陰(色受相行識)と六入(眼耳鼻舌身意)に随わず、息と意と相い随うなり。

    3. 止 (sthAna)
      問う。第三の止は何を以ての故なりや。止は鼻頭に在りや。報う。数息、相随、止、観、還、浄を用ゆるに皆鼻より出入す。意習う故に処また識り易しとなす。この故に鼻頭に著けるなり。悪意来れば断つを禅となす。ある時は鼻頭に在って止す、ある時は心中に在って止す。著する所あるを止となせば、邪来りて人意を乱さば、直ちに一事を観じ、諸悪来るも心は当に動ずべからずも、心は之を畏れずとなさんや。

      四種の止
      止に四あり、 ^譴砲録止、◆‘鵑砲倭蠖鏤漾↓ 三には鼻頭止、四には息心止となす。止とは五楽六入を制止すべきものなり。入息至り尽せば鼻頭止なり。謂く悪復た入らず、鼻頭止に到る。出息至り尽せば鼻頭に著く。謂く意復た身を離れず、行い悪に向うが故に鼻頭に著す。

    4. 観 (upalakSaNA)
      観。息の敗るるを観ずる時、観と身体と異る。息は因縁(原因と条件)ありて生じ、因縁なくして滅す。心意、相を受くるとは、謂く意、所得あらんことを欲す。心に因縁を計(かんが)えるに、会うて当に滅ぶ。便ち所得を断って復た向わず。是を心意、相を受くるとなす。

    5. 還 (げん、vivartanA)
      還は尚有身亦は無身なり。何を以ての故に、有意は有身、無意は無身なり。意は人の種なり。是を名付けて還となす還とは意にまた悪を起さぬことをいう。悪を起せば是を不還となす。

    6. 浄 (pariSuddhi)
      何等かを浄と為す。謂く、諸の所貪欲を不浄と為す。何等をか五陰相となす。譬えば火を喩えて陰と為し、薪を相と為す、息より浄に至るを、是れ皆観と為す。



    ▲[ 313 ] / 返信無し
    NO.316  大乗仏教における修行法
    □投稿者/ 空殻
    □投稿日/ 2004/12/15(Wed) 20:20:07
    □IP/ 4.27.3.43
    岩波文庫『インド仏教3』所収の『信・願・行』という論文で、稲垣久雄龍谷大学教授は大乗仏教においては大きく分けて  嶇伺藩緻」と ◆嵎を対象とした行」の二つの修行方法があるとしています。
    「波羅蜜」(pAramitA)という言葉は仏陀の前生譚『ジャータカ』などにも見られ、布施、特に極端な自己犠牲を中心とした菩薩行が説かれてますが、大乗仏教ではこれが組織的に教義に組み込まれて六波羅蜜を形成し、これが菩薩行を代表することになります。
    以下の六波羅蜜の定義は同教授によるものです。

    1. 布施(dAna)= 物を与えて物質的な欠乏からくる苦しみを除き、正しい道理を教えて精神的な悩みを取る。
    2. 持戒(SIla)= 戒律を守る。
    3. 忍辱(kSAnti)= 苦難に耐えまた他人の軽蔑や非難などを堪え忍ぶ。
    4. 精進(vIrya)= 精進努力を重ねる。
    5. 禅定(dhyAna)= 種々の禅定三昧を修行する。
    6. 智慧(prajn~A)= ものの真実相を認知し、悟りに達する。

    後期の大乗経典『入楞伽経』では、上記六波羅蜜をさらに三つの段階に分けて次のように分類しています。

    1. 執着に基づきより高い快楽の境界を求める世間的な(laukika)波羅蜜
    2. 小乗の行者が涅槃にあこがれて行う出世間的(lokottara)波羅蜜
    3. すべての執着を離れ分別を起こさないで行ずる出世間上上(lokottaratama)の波羅蜜

    一方、「仏を対象とした行」に関しましては、同教授は以下の経典論書を例に取って「仏の供養」を成仏のための基本的な行の一つとして掲げています。

    1. 『法華経』
      「方便品第二」に説かれる様々な菩薩行を総括すると自力的な「六波羅蜜」と他力的な「仏塔や仏像等の建立と供養礼拝」の二つにまとめることができる。
    2. 『大無量寿経』
      「讃仏偈」で法蔵菩薩が仏になるために六波羅蜜の修行と諸仏の供養をなすことを誓っている。
    3. 『大乗荘厳経論』
      「供養品」で仏の供養が功徳と智慧の二資糧を満たすと述べている。
    4. 『般舟三昧経』
      般舟三昧(はんじゅざんまい)とは諸仏が現前する三昧であり、念仏三昧に通じる。ちなみに「般舟三昧」という表現は、「現在仏現前三昧」(s: pratyutpannabuddhasaMmukhA-vasthita-samAdhi)に相当する省略された音写であると考えられている(『岩波仏教辞典』)。釈尊滅後に功徳と智慧の二資糧を効果的に開発するには、これによって現在仏に対面して供養をする以外に方法がない。同経典はこれに伴う「四事供養助歓喜」の法で作仏することを説く。四事とは飲食・衣服・臥具・湯薬で菩薩が仏に供養する物質的なものであり、助歓喜は仏に供養する心的なもの。つまり、物心両面からの供養が菩薩を菩提に導くということ。
    5. 『十住毘婆沙論』
      龍樹が般舟三昧を説いている。
    6. 『浄土論』
      世親が観仏中心の菩薩行を示している。

    少なくとも上のように見た限りでは、大乗仏教の菩薩行には初期の段階からすでに自力的な修行法と他力的な行法とが混在していて、それが連綿と続いていたものが、複雑化の末にやがては側面的で専門的(で時に排他的)な分派を経験しつつ現在に至っている、というのが分かるように思います。



    ▲[ 313 ] / 返信無し
    NO.317  (未入力)
    □投稿者/ 空殻
    □投稿日/ 2004/12/16(Thu) 16:55:12
    □IP/ 65.168.28.130
     



    ▲[ 313 ] / 返信無し
    NO.444  修行法について
    □投稿者/ スターダスト
    □投稿日/ 2006/03/17(Fri) 10:58:00
    □IP/ 61.214.108.212
    仏教では阿含経に修行法が説かれており、阿含経そのものが修行の書です。
    先ずは『十二因縁』『四聖諦』を理解すること。
    修行法を簡単に言うと『無常・苦・空・非我』の理解です。



    ▲[ 313 ] / 返信無し
    NO.452  Re[1]: 仏教の修行法について
    □投稿者/ 大山
    □投稿日/ 2006/04/27(Thu) 10:48:15
    □IP/ 219.66.161.15
    空殻様
    修行法に三十七道品と呼ばれるものがあります。
    国訳一切経の雑阿含経巻第三、第十品に言葉として
    四念処と四正勤と四如意足と五根と五力と七覚分と八正道分があります。
    八正道はここに載っていますが、他のものについて、数息観のように詳しく説明しているものはないのでしょうか?

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