否定さるべきものは激越な欲望であるブッダ・ゴータマの最初の説法は、欲望をその中項として展開された。では、いったい、この師は、欲望というものをどのように考えたか。また、どのように処理すべきものとしたか。そのことをじゅうぶんに検討しておかなくては、ブッダ・ゴータマの実践の体系は理解しがたい。しかるに、ここでもまた、ブッダ・ゴータマの欲望論についての一般的な誤解を解きほぐすことから始めなければならないことを遺憾とする。その一般的な誤解というのはほかでもない。ブッダ・ゴータマのおしえは欲望をすてることを説くもの、仏教とは欲望を捨離せよと語るものであるかのように受けとっている向きがおおい。それは誤解であって、その点をまず明確にし、訂正しておかなければ、ブッダ・ゴータマの欲望論はこれを明快に語ることを得ない。そして、そのことを明確にするには、まず、この師のもちいた欲望に関する術語を吟味してみることが、もっとも手近な方法であるように思われる。たとえば、さきの「四諦説法」において、欲望に言及してこの師がもちいたことばは《渇愛》(tanha)であった。《渇愛》とは、すでにさきに指摘したように、もと「のどの渇き」ということばである。それによって彼は、喉のかわける者が水を求めてやまざるがごとき「激しい欲望のはたらき」を表現しようとしているのである。「こは苦なり」。この苦なる人生を克服するためにはどうしたらよいか。それには、かかる激しい欲望のはたらきをなくすればよい。それが「こは苦の滅尽なり」という命題をもって打ち出されている。そのいずれの場合においても、ブッダ・ゴータマは、けっして欲望そのものを表現することばとしてこの語彙を用いているのではなくて、ただ、欲望のはたらき――それは激越にして好ましからざるはたらき――を表現することばとしてそれを行使している。その慎重な用法に、わたしどもはまず注目しなければならないのである。また、たとえば、ブッダ・ゴータマは、そのような好もしからぬ欲望のはたらきを《貪》(raga)という用語をもって語っている。後年の彼の用語法においては、その用語は、さきの《渇愛》よりも、はるかに頻度数がおおい。しかるに、その用語は、これもまたすでに指摘したように、もともと「赤」もしくは「燃焼」を意味することばである。それによってブッダ・ゴータマは炎のように燃える欲望のはげしいいとなみを表現する。それは人々を焼きさいなむ。それをわが胸中にいだくかぎりは、やすらぎはいつまでも望みがたい。しかるに、シナの訳経者がそれを《貪》と訳するにいたって、そのイメージは影うすいものとなてしまったけれども、なお「煩悩のほのお」などという表現のなかに、その名残をとどめている。ともあれ、それもまた、欲望そのものを表現したことばではなくて、その激しい、恐ろしい、好もしからぬはたらきをこそ表現しているのである。他方、経典のなかに見えるブッダ・ゴータマのことばは、彼がしばしば「少欲」を称賛し、「知足」を強調した人であったことを示している。その意味するところをまた、ここでしずかに省察してみるに足るものがある。もし、彼が欲望を全面的に否定する人であったとしたならば、彼はそれを「あますところなく滅し、捨て、去り、脱す」べきことを説かねばならなかったはずである。しかるを、なにゆえに「無欲」ではなくて「少欲」を語り、「滅尽」ではなくて「知足」を語ったのであろうか。それもまた、彼がまったき欲望の否定者ではなく、彼が「あますところなく滅し、捨て、去り、脱す」べきことを説いたのは、「渇愛」もしくは「貪欲」、すなわち、越度の欲望のありように対してであったことを示しているのである。では、彼はいったい、欲望そのものをどのように考えていたか。それをにたいする応えは「無記」(avyakata)である。「無記」とは、善悪を区別する以前に立つということである。彼は、欲望そのものをとりあげて、それを一方的に善とも悪とも断定的に語った人ではなかったのである。だが、そのような問題のとりあげ方は、いわば今日的なものであって、ブッダ・ゴータマ自身が、正面からそのような問題に取り組んだような証拠は、どこにもない。ただ一つの経(『ウダーナ』〔自説経〕六、八、「遊女」)は、彼が側面からその問題に触れて、つぎのような偈(韻文)を説いたと記している。それは、ブッダ・ゴータマとその弟子の比丘たちが、ラージャガハ(王舎城)のちかくのヴェールヴァナ(竹林)の精舎にとどまっていた時のことであった。ある日のこと、ラージャガハの町に托鉢に行ってかえってきた比丘たちは、師のまえに出てこんなことを報告した。それは世間によくあることであるが、遊女を奪いあって二組の男たちが大喧嘩をした話であった。そのために重傷者も出たらしい。比丘たちが、いささか興奮しながら、そのさまを詳しく語るのを聞いて、ブッダ・ゴータマは、誰にともなくつぶやいた。それがかなりながい偈になって記されているが、そのなかにつぎのような一節がある。禁欲を行じ、梵行をいとなむも、それは一つの極端である欲望のなかに過誤なしとするも、また一つの極端である欲望を一途に禁圧するをもってよしとするのは、いわゆる禁欲主義である。それも一つの極端であるとする。それに反して、欲望はすべてこれをよしとするのは、いわゆる快楽主義の主張である。それもまた一つの極端であるとするのが、この偈の意味するところである。それは、つまり、欲望そのものをもって、直ちに、そして固定的に、よしともあしとも裁断しない立場なのである。「無記」とは、そのような立場をとることなのである。(一六七〜一七一頁)