「和」という言葉にはいろいろ意味が込められていると思うのですが、私はそれを日本の文化であるという以前に、「他の国の文化を摂取して独自のものを生み出す文化」であると定義してます。伝統的な日本文化はずっとそのように在り続けて来ました。かつては中国大陸に影響を受け、現在はアメリカやその他から多くを吸収、融合しております。もちろん、鎖国が独自の文化を育むための大きな要素になったことも事実なのでしょうけどね。神道と仏教が融合したのもまた「和」であり、それが江戸の林羅山以降、儒教的なあり方に収まって今日にいたるというのも非常に政治的な意味合いがあるのですが、それもまた「和」であると思います。それらすべての現象を表現する言葉として、「和」は最適なのではないのでしょうか。聖徳太子の十七条憲法に「和をもって尊しとなす」とありますが、日本において仏教と神道の融合が始まったのは仏教に傾倒していた太子の存在によるところが大きいと思います。これはまた、「和」という観念がもともとの国民性に加えて、仏教の縁起の思想、つまり依他起(他の存在に依存して存在を許される)という思想に基くものなのではないかと思います。第二次戦争当時、帝国政府は「和」の精神を忘れ、自国の独自性にのみ固執した結果として歴史自体を書き換えようとし、「廃仏毀釈」、すなわち無理やりに神道と仏教を引き剥がさんと経典や仏像を焼いたりしました。また韓国では近年、自国のオリジナリティを追及した結果として、すべての書物から漢字という漢字をすべて排除するなどという政策を採りました。「和」という文化形式のないところには、このような極端に走った暴挙が興りうるということの、よい例だといえます。だから、私は「和」という自由でのびのびとした文化形式があることは幸運なことだと思うし、それはむしろなければならないと思います。上のような意味で、私は自分のサイトである『密厳浄土』が『言霊』さんのテーマ的に今後も密接に関わってゆくであろうことを勝手に予見させていただいております(^^)[2003/11/24(月) 10:21 番号204 より]