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Re(3):内山高志
 ラクシュン  - 10/9/20(月) 22:47 -

引用なし
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   テスト
ボクシング はいくらなんでもだいじょうぶでしょうね。
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Re(2):内山高志
 ラクシュン  - 10/9/20(月) 22:36 -

引用なし
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   二度訂正してもやっぱりダメだ。
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Re(1):内山高志
 ラクシュン  - 10/9/20(月) 22:34 -

引用なし
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   何でもないことなのに?
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内山高志
 ラクシュン  - 10/9/20(月) 22:33 -

引用なし
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   テスト
禁止語句の制限が強すぎて書けない。
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Re(1):あ!ごめんなさい!
 ラクシュン  - 10/9/14(火) 22:59 -

引用なし
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   >芥屋さん:

いや、消したかったのでちょうどよかった。w
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あ!ごめんなさい!
 芥屋  - 10/9/13(月) 23:23 -

引用なし
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   >ラクシュンさん

スパム処理してたら、誤って『ザッケローニ』って題の投稿、
消しちゃいました…
すいません!!
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Re(13):最近面白いと思ったこと
 ラクシュン  - 10/8/29(日) 0:11 -

引用なし
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   >Josefさん:
>私は永井のいう<私>を宗教的だなーと思います。10年くらい前までの永井の本を読んだ感想で、最近どうなっているのかは知りませんが。

どうなんですかね? 2007年頃にその筋で有名らしいチャーマーズに反論するような本を書いているようですが、紹介文だったかを読む限り「<私>」は出てきていないようですけど。


>言い換えると、<私>を「対象」化しようとする思考作用それ自体が、テーマであるはずの<私>をただの「私」へといわば「堕落」させてしまうのですね。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
 亀の要求が不可能であることは、その要求が終わらないことによって、そして、明示化の第一歩を踏み出すことの不可能性は、その一歩を踏み出し続けることによって、遡及的に、しかし先行するものとして成立する。したがって、亀の最初の要求を拒否し、第一歩を踏み出すことを阻止することは、いったん要求を受け入れて歩み始めてしまわない限り、できない解決方法なのである。こうして、先行する行為は遅れてやってくるのであり、「一歩を踏み出す」ことを経由することによってのみ可能になるのである。「亀がアキレスに言ったこと」というストーリーは、そのような「経由=媒介」をまさに実演しているのであり、論理的強制力はあらかじめ受け入れているしかないという「解決」は、無限後退(の可能性)においてこそ生み出されている。
゜゜゜゜゜゜『相対主義の極北』゜゜゜゜゜
(ここでの「行為」は、論理的強制力や主張力)

永井氏(にとって)の欲求(独在性への理解)が不可能なのは、その欲求が終わらないことによって、そして、独在性の伝達を開始すことの不可能性は、その一歩を踏み出し続けることによって、遡及的に、しかし先行する思考作用(行為)として成立する。したがって、その伝達行為を阻止することは、いったん行為を開始してしまわない限り、できない解決方法なのである。こうして、先行する思考作用(行為)はおくれてやってくるのであり、伝達を開始しないという解決は、それを開始することを経由することによってのみ可能になるのである。

なーんてヘンですかね。w
脚注に永井氏に対する疑問が長々と書かれていることに改めて気がついたのですが、いろいろな書かれてあって纏めるのは難しいです。

>ここでも私が勝手に連想するのは「神(超越者)と私」のような個別かつ特殊かつリアルな宗教的体験です。その体験を語る人は当然理解されることを求めて語るわけですが、「わかるわかる」と賛同・共有され、既成の宗教の中に取り込まれる時、あるいは新たな宗教として制度化される時、元々の原的体験の個別性・特殊性は失われ、堕落します。

精神分析でも、被分析者(主体)の語りに分析家が肯定的なことを言うとうまくいかなくなるみたいですし、「語りえない」何かあるものを語ろうとするとどうしてもそうなるのかも知れませね。
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Re(12):最近面白いと思ったこと
 Josef  - 10/8/20(金) 21:19 -

引用なし
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   >ふと思ったのですが、私は永井さんの立場は相対主義の逆の立場のような気がするんですよ。

確かに、相対主義とは相容れないでしょうね。
相対主義にもいろいろあるでしょうが、たとえば永井の言う<私>のようなものがどういう社会的あるいは環境的条件から生まれるか、というふうな問いを立てれば、その問いは相対的と言えるでしょう。そういう問い方をするのは自由ですが、永井的問題とは一切関係がなくなると思います。
言い換えると、<私>を「対象」化しようとする思考作用それ自体が、テーマであるはずの<私>をただの「私」へといわば「堕落」させてしまうのですね。当然そのことは永井自身の思考にも言えるわけで、彼の論述はそうした「堕落」に自ら陥らないために相当のエネルギーが注がれていると思います。思考力よりも「筆力」の方が重要かもしれないと思うくらいに。

ラクシュンさんの孫引きを利用させていただきます。

> まさしく・この・私の存在の驚きから出発し、それが類例のないもので
>あることを力説したとしても、類例のなさというその規定が一般化され、
>類例のなさの類例を見出すことになるだろう。(『<私>の存在の比類なさ』p.78)

これが永井が避けようとする「堕落」の一形態ですね。

ここでも私が勝手に連想するのは「神(超越者)と私」のような個別かつ特殊かつリアルな宗教的体験です。その体験を語る人は当然理解されることを求めて語るわけですが、「わかるわかる」と賛同・共有され、既成の宗教の中に取り込まれる時、あるいは新たな宗教として制度化される時、元々の原的体験の個別性・特殊性は失われ、堕落します。
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Re(11):最近面白いと思ったこと
 ラクシュン  - 10/8/19(木) 23:38 -

引用なし
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   ふと思ったのですが、私は永井さんの立場は相対主義の逆の立場のような気がするんですよ。
相対主義の解釈とか難しいことは抜きにして、あらゆる立場に対する肯定性によって否定性(論駁)を免れるというのが私の相対主義に対するイメージなのですが、永井さんの独在論は、あらゆる立場に対する否定性(or特殊性)を唱えることによって肯定性(普遍性)を免れようとしているといった感じです。
…そして思い出したのが、入不二基義氏の論文(『相対主義の極北』)を出版社に紹介したのが永井さんでした。何か通じるところがあるんだと思います。

素朴すぎますかね。

「人間は万物の尺度である。あるものについては、それがあるということの、あらぬものについては、それがあらぬということの。」
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Re(10):最近面白いと思ったこと
 ラクシュン  - 10/8/18(水) 21:42 -

引用なし
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   >>引用文から判断して、ここで言う「独在性」って例の「私はあのパンダや
>>中曽根ヤスヒロじゃなくって、なぜこの私なのだ」的なあれでしょ?

この書き方はちょっと不正確だったと思うので、一応三浦俊彦さんの『論理学入門』の中から引用しておきます。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
 中曽根康弘や福沢諭吉やデカルトやランランやこれから生まれてくるまだ名のない赤ん坊ではなく、永井均だけが・この・私と呼べる特殊なありかたをしているのは、どうしてなのか。その特殊性はどこから来ており、その実態は何であるのか。
…この私の存在する現実の世界とそうでない世界とは、厳密にいってどこが異なっているのだろうか。すなわち、永井均というこの人間は、現在の私と・まったく・同じあり方で存在しているにもかかわらず、彼はこの私ではなく、単なる・ある・「私」のひとりにすぎないことも可能であるはずなのに、現実には、・たまたま・彼がそれ以上のありかたをしているのは、どうしてなのか。
 彼がそれ以上のありかたをしているのは、彼が永井均であるからでも、無数に存在する「私」たちのひとつであるからでもなく、<私>であるからなのである。(『<私>のメタフィジックス』pp.76-77から)
゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
 まさしく・この・私の存在の驚きから出発し、それが類例のないものであることを力説したとしても、類例のなさというその規定が一般化され、類例のなさの類例を見出すことになるだろう。(『<私>の存在の比類なさ』p.78)
 だが、この独在者の複数化の思考は、成就した瞬間に消滅を余儀なくされる。独在するはずの<私>が、複数の≪私≫のうちの一つに転落するからである。……この等質化、平準化からもう一度離反するためには、再び独在化の運動が開始されなくてはならない。(p.81)
゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜
(「・・」間は傍点のつもり)
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Re(9):最近面白いと思ったこと
 Josef  - 10/8/17(火) 13:36 -

引用なし
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   ラクシュンさん

>引用文から判断して、ここで言う「独在性」って例の「私はあのパンダや中曽根ヤスヒロ
>じゃなくって、なぜこの私なのだ」的なあれでしょ?

そうそう。「この私」という独特な在り方を言いたいみたいで、誰にでもある「自己意識」のようなものとは根本的に違うわけですね。

フッサールの現象学も「私」(純粋意識)に徹底して拘るわけですが、その場合の「私」は誰にでも当てはまるような「私」なので、永井の言う唯一的かつ存在論的な「私」とは違います。フッサールに学んだ竹田はこの点で永井を捉え損なったのかもしれません。

私は永井のいう<私>を宗教的だなーと思います。10年くらい前までの永井の本を読んだ感想で、最近どうなっているのかは知りませんが。
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Re(8):最近面白いと思ったこと
 ラクシュン  - 10/8/16(月) 21:35 -

引用なし
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   >Josefさん
>しかし上の本を読む限りでは、竹田の批判はひどいですね。永井の「独在性」を「主体」や「自己」といった出来合いの哲学図式に無理やり押し込んで論評する様は、現代思想本で覚えたばかりの概念を振り回したがる頭でっかちの文系大学院生のようです。

私も「現代思想」(のポストモダンだけかも?)に批判的だというイメージがあっただけになお意外でした。
引用文から判断して、ここで言う「独在性」って例の「私はあのパンダや中曽根ヤスヒロじゃなくって、なぜこの私なのだ」的なあれでしょ? だったら「なぜ『自己』や『主体』が重大な問題だったのかという背景」なんてピント外れな気がします。


>しゅうさん
>「人間の社会の場合はルールの審判者がいない」でググると出てきますよ♪

その手が通じたか・・・眼中になかった。
#2ちゃんが囲い込んでいる(できるのか?)んじゃないかという思い込み。
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Re(7):最近面白いと思ったこと
 しゅう  - 10/8/16(月) 20:25 -

引用なし
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   >ラクシュンさん:
>しゅうさんはすごい情報収集能力ですね。
>2ちゃんのオプションサービス?かなんかですかね。

「人間の社会の場合はルールの審判者がいない」でググると出てきますよ♪
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Re(7):最近面白いと思ったこと
 Josef  - 10/8/16(月) 18:23 -

引用なし
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   >しかし何があったのか知らないけど、永井さんはそーとー怒ってるみたいですね。w

『子どものための哲学』だけを読むといきなり怒り出して唐突な感じを受けます。だから私も記憶に残っていたのですが。

しかし上の本を読む限りでは、竹田の批判はひどいですね。永井の「独在性」を「主体」や「自己」といった出来合いの哲学図式に無理やり押し込んで論評する様は、現代思想本で覚えたばかりの概念を振り回したがる頭でっかちの文系大学院生のようです。竹田の文章を直接読めばまた違う印象なのかもしれませんが。
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Re(8):最近面白いと思ったこと
 ラクシュン  - 10/8/14(土) 22:03 -

引用なし
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   あらまっ、大野さんとこの本の画像も画像認証も出てる?
治ったのかな?w
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Re(7):最近面白いと思ったこと
 ラクシュン  - 10/8/14(土) 21:58 -

引用なし
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   あれっ、今日は「送信」の文字が出た。
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Re(6):最近面白いと思ったこと
 ラクシュン  - 10/8/14(土) 21:57 -

引用なし
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   しゅうさんはすごい情報収集能力ですね。
2ちゃんのオプションサービス?かなんかですかね。

しかし何があったのか知らないけど、永井さんはそーとー怒ってるみたいですね。w
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Re(5):最近面白いと思ったこと
 Josef  - 10/8/13(金) 13:58 -

引用なし
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   >93年6月21日の「週刊読書人」に掲載されたらしいとのこと。
>ttp://f61.aaa.livedoor.jp/~sslogbbs/2ch.philo.974.974326375.htm

しゅうさん、情報をありがとうございます。

なるほど、96年刊の永井『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書)における永井の竹田に対する反論には、前史としてこういう噛み合わない対談があったのですね。この新書の中で永井は自分の論文に対する竹田の批判(『群像』94年7月号)に対して反論しています。一部引用してみましょう。

> 率直に言って、どうしてこんなにもでたらめなことが次々と書けるのか、
>ぼくには理解ができない(いや、でたらめではなく根拠があると言えるなら、
>竹田さん、ぜひきちんと説明してください!)。[中略]
> 続けて竹田さんはこう言う。「そういう現代思想の動向を踏まえて言うと、
>この本での『自己問題』の語られ方は、…なぜ『自己』や『主体』が重大な
>問題だったのかという背景が、どういう理由でか抹消されて」いる、と。
> 抹消だって?自己や主体が重要な問題であることに、もともと「背景」
>なんかありはしない。「現代思想の動向」なんか糞くらえ!だ。哲学と
>いうのは、ぜんぜんそんなものじゃないのだ。「主体の形而上学」やら
>「ヘーゲル的自己」やらが「解体」できるかできないかなんて、大仰で
>空疎な問題が、哲学の問題なんじゃないんだ。そうではなく、<子ども>の
>驚きをもって世界に接したひとが−だからほんとうはすべてのひとが−
>そのとき感じたもっとも素朴な問いこそが、哲学の問いなのだ。
(107-108ページ)

こういう批判・反批判がまずあって、その後にラクシュンさんが紹介された二人の対談が行われたのかと思いましたが、順序は逆なのですね。
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Re(4):最近面白いと思ったこと
 しゅう  - 10/8/12(木) 7:35 -

引用なし
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   >ラクシュンさん:
>>  この対談の出典はどこですか?
>
>「出典(元ネタ)」を聞かれた1番が答えていないのでわかりません。
>前スレも無くなっているし。
>
>というか、いかにも言いそうだなと思いました。

93年6月21日の「週刊読書人」に掲載されたらしいとのこと。
ttp://f61.aaa.livedoor.jp/~sslogbbs/2ch.philo.974.974326375.htm

20年近く前の話ですね。
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Re(3):最近面白いと思ったこと
 ラクシュン  - 10/8/12(木) 0:43 -

引用なし
パスワード
   >  この対談の出典はどこですか?

「出典(元ネタ)」を聞かれた1番が答えていないのでわかりません。
前スレも無くなっているし。

というか、いかにも言いそうだなと思いました。


>ラクシュンさんて竹田のファンじゃなかったっけ?

ファンだったとしても何でもOKとはならないということです。

>竹田 (略)永井さんがヴィトケンシュタインに依拠すると言われる時に、その
    先をどう考えるのか聞きたいところです。

ここはヴィトゲンが言語哲学(的なもの)を解体したが、「言語の謎」を解かないまま「哲学とは、我々が所有する言語という手段(道具)によって我々の知性が魔法にかけられている事に対する、戦いなのである」と言ったことに対応しているのかも知れませんね。
俺はその「魔法」を解いたぞ、と。


>竹田 それだとニーチェが「善悪の彼岸」で行き着いたところで必ず終わると
    思います。それは永井さんが今持たれている結論ですか?

こちらはおそらく竹田さんが、ヴィトゲンはカントからニーチェまでを一人で歩ききったと言っていることからの帰結でしょうね。


>何がなんだかわかりません・・・

正直、私も摘み食い程度の知識しかありません。
ヴィトゲンはJosefさんが詳しいかもね。
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