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Re(1):防衛大臣の失言
 tpkn  - 07/7/29(日) 23:02 -

引用なし
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   >と思って毎日ブログをチェックしてますがお忙しそうですね…。

こりゃまた入院かな…。
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Re(5):例の
 Josef  - 07/7/29(日) 22:01 -

引用なし
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   >こういう人たちのことを総称して、あのmacska氏が「ヤバい(…学)」云々と言っているわけですよね。

違うでしょう。

気づかれていない真実、あるいは気づかれていてもタブー視されていて誰も明言しない真実を、誰もが追試できるちゃんとした根拠に基づいて言ってしまうのが「ヤバい(…学)」。
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Re(4):例の
 ラクシュン  - 07/7/28(土) 22:37 -

引用なし
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   >大脳の大半がまだよく分かっていない現在においてそういうことをもっともらしく語れば、一方では似非科学、他方では思想・哲学の生齧りになってしまうのは当然かなと思います。

こういう人たちのことを総称して、あのmacska氏が「ヤバい(…学)」云々と言っているわけですよね。
(´・ω・`).。oO(だけど当の本人が一番ヤバそうだなんてことは大きな声では言えない)
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Re(3):例の
 Josef  - 07/7/28(土) 20:25 -

引用なし
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   ><超越論的主観>(≒意識の枠組み)、そしてその構成要素である[超越論的自我(純粋自我)](≒意識の働き)と[意識的相関者(意識の素材・知覚・表象)]などがごっちゃになっているだけではないでしょうか

ええ、いろんなことがごっちゃになって、全部クオリアでいけるという感じなんでしょうね、よく分かりませんが。

>あとどーなのかな、「主体(被分析者・患者)」「私」「自我」を厳密に区別する(らしい)精神分析の立場からの疑問の矛先が、茂木というのはちょっと的外れというかコクな感じもします。

本来はそうだと思います。「本来」というのは私が理解した「クオリア」の意味からすれば、ということで、ラクシュンさんの指摘からはズレているかもしれませんが。
「本来」、クオリアとラカンなどのいう意識・無意識とはあまり関係がない話ですね。後者は「構成されたもの」です。その「構成」は言語とも深く関係しているわけですが、クオリアは本来、言語や言語的構成以前のレベルにあるものでしょう?言い換えれば脳の働きに直接発するもの。だから脳科学を専門とする茂木の議論に期待するわけで。ところが、「この私」のような構成されるものに対してまで同じ理論装置で説明しようとするとトンデモになりやすい。

精神医の中井久夫が、統合失調患者の感じる強烈な「恐怖」は、動物的レベルの恐怖が言語的に構築された「私」を突き破って現れるものではないか、という意味のことをどこかに書いていました。動物的レベルの恐怖とは(原初的恐怖といってもいいでしょうが)、たとえば動物が捕食者に追い掛けられる時に覚えるであろう恐怖です。それが何らかの変調によって、構成された意識の網の目を突き破るようにして出てくる。だとすれば、これ、まさにクオリアです。
統合失調が「精神分析」だけでは治せず、脳に直接作用する薬を使う必要があるのは、「恐怖」を含めてその病因が「構成された自己」の内にではなく、何よりもまず脳にあるからなのでしょう。

私の理解するクオリアとは、まずはこのような直接的感覚です。アリアリとした、イキイキとした、ナマナマしい、原初的な疑いえない感覚です。斎藤は次の文を「典型的な脳還元主義」として批判的に引用しますが、茂木的にはこれが出発点だったはずです。

******引用開始(茂木氏の文章より)******
「<クオリアの先験的決定の原理=認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火パターンと、クオリアの間の対応関係は、先験的(ア・プリオリ)に決定している。同じパターンを持つ相互作用連結なニューロンの発火には、同じクオリアが対応する>
 この原理が主張することは、「クオリア」自体は、経験や学習に依存して決定されるのではなく、それ以前に決定されているということである。認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火パターンとクオリアの間の対応に、任意性あるいは変化の余地はなく、その対応関係は必然的であるということだ」(『脳とクオリア』日経サイエンス社、一七一頁)
******引用終了(茂木氏の文章より)******

これが批判対象になってしまうのは、茂木がクオリアでもって「この私」なんてものまで包括して論じようとするからですね。それどころか「倫理」まで言い及んでいるそうではないですか。遠い将来にはそれが可能であるかもしれないということはまあ留保しておくとして、大脳の大半がまだよく分かっていない現在においてそういうことをもっともらしく語れば、一方では似非科学、他方では思想・哲学の生齧りになってしまうのは当然かなと思います。
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Re(2):例の
 ラクシュン  - 07/7/27(金) 22:25 -

引用なし
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   :::::::::::::::::::::::
言いかえるならば、クオリアについて考えることが可能であるためには、認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提となるのではないでしょうか。
:::::::::::::::::::::::

どーなのかなぁ、このようにクオリアについて間接的にでも語ることができている斎藤には、「認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提」されていなのでしょうか?
何故なら

:::::::::::::::::::::::
「この私」という立脚点を肯定することなしに、クオリア概念をつきつめて考えることはできない。
:::::::::::::::::::::::

フッサールも認めている、(自己)同一化機能・中心化機能があるお陰で斎藤は「「この私」という立脚点を肯定」できている訳でしょう?
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Re(2):例の
 ラクシュン  - 07/7/26(木) 22:06 -

引用なし
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   >「クオリア」でこういうところまで引っ張っていこうというのは調子に乗りすぎで、

「クオリア日記」まで引っ張る性格ですから。(笑)
ttp://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/06/post_1af6.html


>なんで茂木は「私」にこだわるんでしょうね。

ぜんぜんうまく説明できませんが、以前に茂木のHP(?)に、フッサールの著書名が書かれていた(と思う?)ことと引用文の「私たちが感じるクオリアが<私>という主観的体験の枠組みと無関係には存在しえない」という表現から考えれば、<超越論的主観>(≒意識の枠組み)、そしてその構成要素である[超越論的自我(純粋自我)](≒意識の働き)と[意識的相関者(意識の素材・知覚・表象)]などがごっちゃになっているだけではないでしょうか。

あとどーなのかな、「主体(被分析者・患者)」「私」「自我」を厳密に区別する(らしい)精神分析の立場からの疑問の矛先が、茂木というのはちょっと的外れというかコクな感じもします。
「調子に乗りすぎ」た結果なのかも知れませんけど。

まーしかし、あの『意識とななにか』がココで取りあげられて、そのすぐ後でしたねNHKに出始めたのは。メディアってあまりにも軽すぎ(orウソっぽすぎ)ちゃうのん?という印象を持っていたんですけどね(帯か何かに付いていた養老猛の推薦文の影響力か?)。
『心理学化する社会』を読んでも(これしか読んでない)、斎藤はこういう傾向から嫌いなんですよ。
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Re(1):例の
 Josef  - 07/7/24(火) 17:19 -

引用なし
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   ラクシュンさんご紹介の書簡を斜め読みしてみました(前置きが長すぎですね、この書簡)。茂木クオリア論を読んで「私」という(絶対的)主観性に引っ掛かるものを感じるのは私(=Josef)だけではないようですね。
斎藤氏はこう書いています。

**********斎藤氏第一書簡引用開始*********
ところで、私の感ずる疑問の第一は、まさにこの「クオリア」という概念にきわまります。
 「クオリア」を肯定することは、「この私」のゆるぎなさを肯定することです。
 「この私」という立脚点を肯定することなしに、クオリア概念をつきつめて考えることはできない。言いかえるならば、クオリアについて考えることが可能であるためには、認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提となるのではないでしょうか。
 [中略]
 ほんらい茂木さんは、随所でポストモダン的な発想に違和感を表明されてきたはずです。これはある意味では当然のことで、そのこと自体の当否を、今は問いません。ただ、ポストモダンへの嫌悪と、ラカンの思想の肯定的評価とは、けっして両立し得ないものです。その意味で茂木さんがラカン入門書などに向けてとるべき態度は、「まだそんなことをいっているのか!」と一喝後、本はくずかごに直行、というものであったはずです。
ポストモダンとされる思想に共通のものがあるとすれば、それは「主体への懐疑」にきわまるでしょう。ラカンをポストモダニストに位置づけるかどうかは議論のあるところですが、それを準備した「思想家」のひとりであることは間違いない。ラカンの思想は、欠如と逆説の思想です。「人間」とは、欠如した主体の周囲に構成された幻想の一種であると見なすのが、ラカン派です。
 それゆえラカンは、デカルトのコギトを一蹴します。「我思う、ゆえに我在り」ではなく、「我思う、または、我は在る」だ、とはラカンの有名なジョークです。これは簡単にいえば、思う「我」と在る「我」とが、すでに同一物ではないことを意味しています。そのように、実感的に理解された「我」なるものは、シニフィアンの連鎖がもたらした想像的効果にほかならない。これがラカンの主張であって、それゆえラカニアンにとっての「クオリア」なる概念は、典型的なナルシシズムの徴候、ということになります。証明ができず、「あるとしか言えない(糸井重里)」場所にこそ、ナルシシズムは強く滞留するでしょう。
**********斎藤氏第一書簡引用終わり*********

ラカンを別としても、茂木クオリア論で「私」がそこに含まれるor前提されるのはおかしいのですね。だいぶ前、私はラクシュンさん、じゃなくて楽俊さん宛てにこんなことを書きました。

>ところで、茂木の考え方で納得がいかないのは、クオリアを「私」と不可分で
>あるかのように考えているところです。
>「ギラギラ」「ピカピカ」をクオリアというなら、動物の方が直接的にクオリアの
>中に生きていて、人間は解釈や判断などの知的操作によってむしろクオリアの直接性
>から遠ざかって生きているのではないかと思うのです。(*蛇足ですが、だから
>人間はより直接的かつ強烈なクオリアを渇望しているのではないかと思います。
>その手っ取り早い手段がクスリ。)
>はたしてアメーバはクオリアを感じないのか。感じるとしたらアメーバにも
>意識=私はあるのか。それともアメーバには意識=私がないからクオリアもないのか。
>
>茂木は、そういう問題をすっ飛ばして、「クオリアを感じ取る意識イコール私」と
>あまりにも素朴に結びつけているようにみえます。そのため「意識とは何か」という
>問題設定(本のタイトルでもある)が、「クオリアの解明」という問題設定に
>すりかわっています。
>
>>私たちが感じるクオリアが<私>という主観的体験の枠組みと無関係には存在
>>しえないという事実は、次のようなことを考えてみてもわかる。(158頁)
>
>と茂木は書くのですが、「次のようなこと」で挙げられるたとえの中では
>すでに「Aさん」という人物が<私>を持っていることが前提となっています。
>これはトートロジーであって、感じられるクオリアと<私>とが無関係には存在
>しえないという「事実」の説明にはなっていません。
>
>私はクオリア現出に<私>は必ずしも必要ないと思います。いや、茂木のいう
>クオリアなら<私>を必要としないというべきでしょうか。

なんで茂木は「私」にこだわるんでしょうね。
ところで斎藤は「価値」(さらに「倫理」)についても批判していますが(上の引用より後)、当然価値はクオリアとは言えないでしょう。「ギラギラ」「ピカピカ」と「良い、悪い」が同じレベルで語れるわけがありません。「クオリア」でこういうところまで引っ張っていこうというのは調子に乗りすぎで、せっかく頭いいんだから、書く時間を減らして考える時間を増やした方がいいんじゃないかと思います、茂木氏は。
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例の
 ラクシュン  - 07/7/23(月) 0:01 -

引用なし
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   ttp://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2007/06/1_108a.html#more

茂木健一郎が、斎藤環に論破されていますね。
返信が無いようですから…。
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Re(3):個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言
 Josef  - 07/7/16(月) 15:11 -

引用なし
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   >今でも、終戦記念日とかに繰り返されるような反戦ドラマがあるでしょう。
>そこで描かれる戦時中の日常は大体一緒ではないでしょうか。
>一般庶民は日常の平和を愛しながら、しかし軍部(政府)の目を恐れそれを口には出来ず、憲兵は高圧的で恐ろしく、、、といった。
>そして日本が戦ってるはずのアメリカは描かれない。
>まるで、一般庶民が、日本軍部と対立してるような。

いわゆる「反戦」ものに限らず、戦争の時代を舞台とするドラマはそうですね。NHKの朝ドラとか。

アメリカや日本の一般庶民を無罪化し、日本の軍部を悪魔化してきた戦後を、単に占領政策や東京裁判のみに帰することはできないでしょう。多くの日本人がそれを望まなければ成功しなかったはずです。敗戦後に「一億総懺悔」を唱えた政治家の声も、デモクラシーを「でも憎らしい」と洒落たアメリカ憎しの庶民の声も、あなたたちは悪くないという居心地の良い図式の前に消されていった。そしてひとり悪を背負った旧軍はもう無い。実体を失い、抽象化された「悪」であればこそ、安心して非難することができたし、安心して新生日本は宗主国アメリカと同衾することができた。デモクラシーを結納金として。

そこには嘘が、誤魔化しがあるんだと思います。日本人の伝統からいえば、葬り去らねばならなかった旧軍や戦前的なものに対する鎮めや祈りがあってよさそうなもの。ところがあらゆる人的・物的被害の責をそこに押しつけた。
それゆえに繰り返し物語を反復しなきゃいけない。これでよかったのだ、と言い聞かせるために。
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Re(1):歌う、食う、射精する、、、古典的な自我拡...
 Josef  - 07/7/16(月) 14:50 -

引用なし
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   >例えば、風俗、ポルノを含めた、「性」を対象とした表現=産業はとても大きく「豊か」です。
>それを私は「ヒトの性が豊かで自由になった」と表現します。
>しかし、それは同時に「ヒトの性が貧困になり、不自由になったのだ」という意味を含みますし、両者は矛盾しません。

自由のパラドクスに似てます。不自由な時には自由の「快」を求めるが、自由になると「快」が減り、逆に自由自体が苦痛となって制約=不自由を求める。渇いた時には掬って飲む川の水でも極上の味だが、あの水この水といっぱい水がある時にただ味のみを求めて飲む水は大して旨くない。ビールを旨く飲むためにわざわざ運動して汗をかいて渇いた状態に持っていくという人も少なくない。「大人は分かってくれない」と文句をいうガキも、物分りのいい大人ばかりになると厳しいことを言ってくれる大人にゴロニャンと擦り寄っていく。
性への抑圧が強い時ほど性への希求も強く、快楽もまた大きい。性が自由で選択肢がいっぱいある時には性の快楽は減じる。不倫が「いけないこと」でなくなれば不倫ならでは快楽も無くなる。

豊かさは同時に貧しさであるわけですね。

>『生の充溢』とはいかなる物なのか。
>自身の身体的な万能感を拡大し、世界(観)を拡大するという事ではないでしょうか。

大きくいえばそうですが、もう少し「生」と「芸術」の二分法にこだわってみます。。
またしても岸田秀で行きますと、彼は本能で生きる動物を理想化しているところがありますね。曰く、現実とぴったり密着して生きている、と。岸田秀の図式でいえば「生の充溢」はこの動物の生にあたります。

でもそれだと本能の壊れた人間に「生の充溢」は不可能だということになる。そこで「生vs.芸術」を「本能/幻想」の図式からもう一つの図式、「共同幻想/私的幻想」にずらしてみましょう。
環境の与える価値観にすーっと入って行けてその中で生き生きと生きられる人と、既存の価値観を我が価値観とすることができず不安定な生を生きる人とがいるとします。前者は所与の共同幻想を「現実」としてその中を生き生きと生きていく、後者は所与の共同幻想に馴染めず、未だ「現実」化していない私的幻想の中を不安定に漂う。この場合、前者が「生の充溢」で後者が「芸術」です。あくまでも相対的なものですが。

>『芸術』というのもそういった方便のひとつではないのでしょうか。
>古代の王がピラミッドや様々な宗教施設を造ったのもそういう理由だと理解出来ないでしょうか。

上記の「共同幻想/私的幻想」で言うと、古代の王の「永遠の生命」のようなものは宗教、つまり当時の共同幻想と繋がっていたと思うのです。その意味で近代以降の、個人の私的表現と見なされる「芸術」とは異なっていたと言えるでしょう。もちろんこの辺は芸術の定義次第でどうとでも言えるところですが、近代において芸術が王や神や祭祀に奉仕する従属的な役割からそれ自体としての価値を担う自律的なものとなってきたことは押さえておくべきだし、それなりの区別があってしかるべきなのではないかと思います。

実業家として成功し財を成して息子に跡を継がせる人は、共同幻想の中で成果を上げる人と言えるでしょう。跡を継いだはいいが、社会的成功にも後継ぎを作ることにも関心が無くぼんやり空想にふけって事業を傾かせる3代目は私的幻想に生きる人でしょう。

もちろん大きく言えば、猫まんまさんの言う通り、人間は「肉体を離れた自我=物語を生きて」おり、自我の拡大を願う生き物でしょう。この点では古代人も現代人もありませんが。
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Re(2):てへっ
 ラクシュン  - 07/7/15(日) 20:41 -

引用なし
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   <補足>
「捏造している」のはラディカルフェミor一部のフェミ。

用語解説については、↓にあたってください。
ttp://homepage2.nifty.com/mtforum/term.htm

んまぁ、結果的には再び書き込み禁止になったわけですがぁ。
#「秘密主義」ならぬ<排除主義>的ブログ主に手によって…。
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Re(1):てへっ
 ラクシュン  - 07/7/15(日) 20:29 -

引用なし
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   遅れましたがぁ…

ttp://macska.org/article/192#comments
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
ラクシュン のコメント

2007/07/08 - 03:48:01 -
>だから、ラディカルフェミニストが実際に何と言っているかを読みもせずに、「自分を『女』として自認している」と決めつけるのはおかしい、とわたしは言っているのですが。

何に拘っているのか私にはよく解りませんが、Bresnahanというラディカルフェミニストの文章など読まなくても、「トランスジェンダーはレズビアンと違って保守勢力の保護を受けている」としてFTMやMTFを排除しようとする人に、「女」の自認がないはずがないということは自然な推測の範疇内ではないのでしょうか。サードジェンダーなどの可能性を視野に入れているとしても、それでは逆にラディカルフェミの「定義」によってフェミニストとは言えなくなってしまいます。

>もしかしてラクシュンさんは、オカマとは男性同性愛者のことだと思ってるのかな。

「オカマ」が同性愛的な意味合いではないとすれば、「そういった人たちはオカマとしてジェンダー制度と闘うべきであり、」までは理解できても、「「女性」という抑圧的なカテゴリに適応すべきではない」、の意味が不明です。そんなことするはずないでしょう。

>構築から脱却することは無条件に素晴らしい、というのはラクシュンさんオリジナルの思想ですか? ここまで何も知らず理解していないことに自信をもって発言できるというのも、珍しいですね。

べつにオリジナルと言えるほどの代物ではなくて(笑)ラディカルフェミニズム的構築主義が、セックス/性自認(ジェンダー・アイデンティティ)/性役割(ジェンダー・ロール)の対応関係の無根拠性を主張する思想なら、FTMを「排除」(or敵視)する理由がないと思うのです。まぁ、現在のこの男女の役割パターンから、あの役割パターン(役割付けの無化?)への社会的移行を目的としている場合には邪魔な存在にはなるのでしょうが、「構築」されたものには根拠がないなら、”あの役割パターン”にしたって根拠なんてなくなるわけでしょう? またこの立場は、セックス・性自認の一致(対応関係)を自明の前提とする立場でしかありませんよね。性別が「女」(性自認=女)のままで任意のアル役割を担いたい女の集団でしかないのだから。

そして、(それがどんなものであれ)”あの役割パターン”が社会的に浸透したとしても、男女の役割に統計学的有意差が見出されれば、「うーん、まだまだジェンダーの「構築」は根絶されていない!」と判断するのがラディカルフェミということなんでしょうね。こうなると、生物学的嗜好まで許されなくなりそうな雰囲気ですね。だとすればこの思想は、当然のこととしてセクシュアル・オリエンテーションにまで拡張されてしまいます。

しかしどうなんですかね、「構築」とか何とか言ったって中身は単なるセパレーショニズムに過ぎないじゃないですか。セクシュアリティを基準にして他カテゴリーを排除し合う思想なら、「保守勢力」(普通の男)に対する批判に説得力までなくなりそうな気がします。

であと気になることといえば、生物学的性別である「女」の中のごくごく一部の中の一部に過ぎないと思われるラディカルフェミニストは、性に基づく役割付けそのものを根底から無くしたがっているように見えるのに対して、MTF・FTMの多く(および、どうも生物学的性別である「女」の大多数)の人はそれには否定的な印象を受けています。私はこの両者のズレor対立(フェミがMTF・FTMを排除したがることも含む)は、<セックス>と<性自認(ジェンダー・アイデンティティ)>が一致していない人たちの研究(≒マネー理論)から、<性自認>と<性役割(ジェンダー・ロール)>の独立性を捏造していることの証左ではないのか、ということです。

まだよく確認はしていませんが、とりあえずこう考えると、なんとなく、もしかすると「ラディカルフェミニズム・レズビアンフェミニズムの立場に立つ人がどういう論理でトランスジェンダーを否定するのか」というmacskaさんの疑問も解けそうな、気が、してきませんかぁ?
もちろん、絶対に解けるという保証はありませんけど。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

勢いで書いたのですが、フェアにやりたいので…気になる所があれば何でも書いてください。
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Re(2):個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言
 猫まんこ  - 07/7/13(金) 18:55 -

引用なし
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   >>確かに武器=道具でしかない『原爆』のみを問題視してそれを悪意をもって落とした当事者=アメリカに対する『感情』をスルーする事は、例えそれが親であれば、そんな親をみて子供は「情けない、欺瞞だ」と思うかもしれず、また違う子供であれば、そんな親を「立派だ」と感じるかもしれませんが、いづれもそれが、その子供たちが親のようにならない(あるいはなる)事を意味するものではありません。
>
>子供がどうなるかは不可知ですね。だから「こうすれば良くなる」という分かりやすい処方箋は眉唾でしょう。
>それは別として、私はアメリカを非難すべしとはあまり思ってないんですね。「安らかに眠ってください/過ちは繰り返しませんから」という主語も批判も明示されぬ碑文が私は割と好きで、理由は、起こったことを受容した上で未来に向かう集合的意志をここに読み取るからです。あえてそう読み取るというだけですが、ポイントは「過ち」が過去の受容(赦しではない)なのか否認なのかです。

私にもおそらくJosefさんにもアメリカを憎む理由はないでしょう。「〜ねばならない」と言われても憎む感情が涌いてくる事もないでしょう。一応。


>
>岸田秀の良き読者である猫まんこさんには賛成反対は別として言わんとすることは伝わると思いますが、彼に「自己嫌悪の効用」というエッセイがありますよね。戦後日本は彼のいう自己嫌悪をやってきたと思うのです。自分(のある一部、責めやすい部分)を責めることで、責めている「真の自分」なる虚構を拵えるという、「卑劣」なことをやってきた、と。戦後の「反省」とは否認すなわち「嫌悪」だった。これをそのままアメリカへ非難の向きだけ変えても自罰が他罰に替わるにすぎず、単に「嫌米」になるだけでしょう。マックを頬張りながらの嫌米。
>
>「しょうがない」はそこを期せずして突いている。「否認」や「嫌悪」は対象を変えません。変えるどころか強迫的に反復するしかない。隠された目的が「真の自己」の捏造ならば当然そうなるでしょう。対象を変えるのではなく温存してしまう否認は、見かけとは異なり、何も変えないこと、つまり「しょうがない」としてうっちゃってしまうことと大差ありません。久間発言はそこを突いた。それは久間氏の意図の問題ではなく、受け取る側の問題です。「しょうがない」への非難もまた久間批判の形をとった自己嫌悪のように思われます。

今でも、終戦記念日とかに繰り返されるような反戦ドラマがあるでしょう。
そこで描かれる戦時中の日常は大体一緒ではないでしょうか。
一般庶民は日常の平和を愛しながら、しかし軍部(政府)の目を恐れそれを口には出来ず、憲兵は高圧的で恐ろしく、、、といった。
そして日本が戦ってるはずのアメリカは描かれない。
まるで、一般庶民が、日本軍部と対立してるような。

それは放送局の上層部の意向とかあるのかもしれませんが、それだけでなないでしょう。
視聴者が抗議することなく、もう何十年も続いて、みんなおとなしく見てるのですから。

これらに対して、アメリカ側から「硫黄島の手紙」とかが上映されると日本人はどのように・誰に感情移入して見るのでしょう。映画自体には興味がありませんが。
これとか昭和天皇を描いた「太陽」とかは日本人からでは中々作る事はできないでしょう。

それはタブーというより盲点になってる部分があるように思えます。
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歌う、食う、射精する、、、古典的な自我拡大欲求...
 猫まんこ  - 07/7/13(金) 18:53 -

引用なし
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   >猫まんこさんは「表現行為」に照準を合わせて語っています。仰る通りなのかもしれませんが、読みながら私はトーマス・マンの「生vs.芸術」という古典的な二律背反を思いました。生の充溢と芸術とは逆比例する。ブッデンブローク家は代を替えるごとに生命力を失い、没落していく。対して、芸術的感性は洗練の度を増し研ぎ澄まされていく。
>

例えば、風俗、ポルノを含めた、「性」を対象とした表現=産業はとても大きく「豊か」です。
それを私は「ヒトの性が豊かで自由になった」と表現します。
しかし、それは同時に「ヒトの性が貧困になり、不自由になったのだ」という意味を含みますし、両者は矛盾しません。

『生の充溢』とはいかなる物なのか。
自身の身体的な万能感を拡大し、世界(観)を拡大するという事ではないでしょうか。

しかし、そこでも決して個人が逃れられない事がある。それは肉体の死です。
獲得した世界をそこでは無常に手放さざるえない。だからこそ死は恐怖なのですね。
そこで、死の恐怖を緩和するため、肉体的な遺伝子上は連続した子孫に獲得したものをひきつがせる、といった「物語」により自我の死をまぬがれようとする。

『芸術』というのもそういった方便のひとつではないのでしょうか。
古代の王がピラミッドや様々な宗教施設を造ったのもそういう理由だと理解出来ないでしょうか。

肉体の死は逃れられないが、自我=物語は死後もその制約を受けない。
ヒトは肉体を生きてるのではなく、肉体を離れた自我=物語を生きてるとはいえないでしょうか。


>かつて「最近の子は鉛筆もろくに削れない」という年配者の言葉に対して「でも僕たちはあなた方の弾けないギターを弾くことができる」と若者が返したという話がありました。刃物もギターも両方、というわけにはなかなかいかないんでしょうかね。
>

空を飛ぶことを望んだクジラはもうクジラではなく、海のなかを生きることを望んだ鳥はもう鳥ではなくなる・・・とか。
両者を望むものはそのどちらでもなくなる。とか。
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Re(1):個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言
 Josef  - 07/7/11(水) 20:36 -

引用なし
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   >それこそがモダーンな、『洗練された表現行為』というヤツではないでしょうか?
>裏返せば「個人の内実に基づいたもの」など誰も求めてはいない。と。

「誰も求めてはいない」は言えてます。その手のものから距離を取り、茶化し、笑いのめすのが80年代的ポスモダゲームだったわけで、それを洗練と言えば言えなくもないでしょう。しかしそのゲームの参加者が湾岸戦争というリアリティに直面して言葉を失ったり、オウムのような虚構に簡単にやられたりするのを見ると、あまりにもひ弱な洗練だったのではないでしょうか。

猫まんこさんは「表現行為」に照準を合わせて語っています。仰る通りなのかもしれませんが、読みながら私はトーマス・マンの「生vs.芸術」という古典的な二律背反を思いました。生の充溢と芸術とは逆比例する。ブッデンブローク家は代を替えるごとに生命力を失い、没落していく。対して、芸術的感性は洗練の度を増し研ぎ澄まされていく。

かつて「最近の子は鉛筆もろくに削れない」という年配者の言葉に対して「でも僕たちはあなた方の弾けないギターを弾くことができる」と若者が返したという話がありました。刃物もギターも両方、というわけにはなかなかいかないんでしょうかね。

>確かに武器=道具でしかない『原爆』のみを問題視してそれを悪意をもって落とした当事者=アメリカに対する『感情』をスルーする事は、例えそれが親であれば、そんな親をみて子供は「情けない、欺瞞だ」と思うかもしれず、また違う子供であれば、そんな親を「立派だ」と感じるかもしれませんが、いづれもそれが、その子供たちが親のようにならない(あるいはなる)事を意味するものではありません。

子供がどうなるかは不可知ですね。だから「こうすれば良くなる」という分かりやすい処方箋は眉唾でしょう。
それは別として、私はアメリカを非難すべしとはあまり思ってないんですね。「安らかに眠ってください/過ちは繰り返しませんから」という主語も批判も明示されぬ碑文が私は割と好きで、理由は、起こったことを受容した上で未来に向かう集合的意志をここに読み取るからです。あえてそう読み取るというだけですが、ポイントは「過ち」が過去の受容(赦しではない)なのか否認なのかです。

岸田秀の良き読者である猫まんこさんには賛成反対は別として言わんとすることは伝わると思いますが、彼に「自己嫌悪の効用」というエッセイがありますよね。戦後日本は彼のいう自己嫌悪をやってきたと思うのです。自分(のある一部、責めやすい部分)を責めることで、責めている「真の自分」なる虚構を拵えるという、「卑劣」なことをやってきた、と。戦後の「反省」とは否認すなわち「嫌悪」だった。これをそのままアメリカへ非難の向きだけ変えても自罰が他罰に替わるにすぎず、単に「嫌米」になるだけでしょう。マックを頬張りながらの嫌米。

「しょうがない」はそこを期せずして突いている。「否認」や「嫌悪」は対象を変えません。変えるどころか強迫的に反復するしかない。隠された目的が「真の自己」の捏造ならば当然そうなるでしょう。対象を変えるのではなく温存してしまう否認は、見かけとは異なり、何も変えないこと、つまり「しょうがない」としてうっちゃってしまうことと大差ありません。久間発言はそこを突いた。それは久間氏の意図の問題ではなく、受け取る側の問題です。「しょうがない」への非難もまた久間批判の形をとった自己嫌悪のように思われます。
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Re(1):個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言
 tpkn  - 07/7/10(火) 21:11 -

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   >はだしのゲンとか

ちがうだろう。
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個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言
 猫まんこ  - 07/7/10(火) 20:05 -

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   >Josefさん:

>社会学者の大澤真幸はオウム信者たちを「アイロニカルな没入」と呼びました(ちくま新書『虚構の時代の果て』)。意識の水準では麻原の「虚」に対してアイロニカルな立場を取りつつ、行為の水準ではその「虚」の審級に準拠し、「虚」に内在してしまう。平たく言えば、ウソと分かっているけれど、行動はそのウソを真実として演じる。この時、自己の「内面」は、もはやそこに準拠して行動する場ではなくなっている。
>

それこそがモダーンな、『洗練された表現行為』というヤツではないでしょうか?
裏返せば「個人の内実に基づいたもの」など誰も求めてはいない。と。


>昔に比べれば人々はある意味賢くなりました。新聞やテレビの情報を頭から信じる人は少なくなりました。いわばそうしたものにアイロニカルに接するようになってきた。ところがそれと反比例するように、自らの行動の基準を「虚」たる他者に置くようになる度合いが強くなっているのではないか。意識と行動が乖離し、その乖離を矛盾なく生きることに慣れてきているのではないか。しかし乖離は乖離だから、時に「こんな行動を取っている私は誰?」という疑問が起こる。いや、「私は誰?」という内面の喪失現象こそが行動を虚の水準に委ねてしまう原因かもしれません。
>「失言」への国民的非難は原爆への怒りが依然として強いことをではなく、怒りが形骸化していることをこそ示しているのだと思います。
>

その分裂症的な乖離は倒錯ではありますが、しかし、私たちにとって決して「不利」なことではない。むしろ、さまざまな表現行為を「豊か」にするものだと考えます。

例えば、「戦争はよくない」「原爆は悲惨だ」という紋切り型の「表現」(火垂るの墓とかはだしのゲンとか新派とか?)が無効になってしまった今だからこそ、網の目のように張り巡らされたアイロニカルな倒錯を掻い潜って人の心を掴む表現がありうる。

舞台ですが、やや「古いタイプの表現者」に野田秀樹がいます(漫画でいえば萩尾望都、作家だと倉橋由美子みたいな?)。
.しかし、それでも、その才覚で、知的な罠を用いて、倒錯に倒錯を重ねあわす事で「形骸化したスローガン」をリアルなものとする場合もある。
氏の作品「パンドラの鐘」「オイル」は凡百の「反戦・反原爆」では届かなくなってしまった所を確実に打つ、最も良質な作品でしょう。

また、普通に男女間のエロスがリアル過ぎて、か、色褪せすぎている状況では男を女が演じる宝塚的な物が説得力をもつ。
一度ほつれたリボンはそのほつれを解こうとするよりも、むしろそのほつれに別のほつれを重ねあわすほかはありません。
いまさら「原始社会に還れ」なんてちゃんちゃら可笑しいでしょう?

表に見える圧倒多数は「サザエさん」「水戸肛門」であろう現在では、全て上滑りに見えるでしょうが、全ての表現行為は政治的に進化してるんじゃないか?と私は楽観してるのです。

>ちなみに私は「失言」を出るべくして出たもの、それどころか誰かが言わねばならなかったものだと思います。欺瞞的な家族ごっこを演じている家庭で、子供の一人が非行に走って家族ごっこをぶち壊してしまうとき、その非行は起こるべくして起こったものだと言いうるような意味で。
>原爆を、原爆だけではなく都市空襲による無差別殺戮も、戦後の日本は事実上「しょうがない」ものとして扱ってきた。そう扱わざるをえなかった。戦前を全否定することとセットで。そしてそこに平和国家だの平和都市だの非核三原則だのといった「平和な家族ごっこ」を覆いかぶせてきた。おっちょこちょいの久間氏はついぽろりと言ってしまった。思わず万引きをしてしまった「平和な家庭」の子供のように。


確かに武器=道具でしかない『原爆』のみを問題視してそれを悪意をもって落とした当事者=アメリカに対する『感情』をスルーする事は、例えそれが親であれば、そんな親をみて子供は「情けない、欺瞞だ」と思うかもしれず、また違う子供であれば、そんな親を「立派だ」と感じるかもしれませんが、いづれもそれが、その子供たちが親のようにならない(あるいはなる)事を意味するものではありません。
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Re(1):防衛大臣の失言
 Josef  - 07/7/9(月) 18:47 -

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   アニキは寄せては返す「波」のような動的な文体で書く人ですが、書く頻度にも大きな「波」がありますね。というより、彼の大きな波のような身体リズムが文体に現れているのかもしれません。

社会学者の大澤真幸はオウム信者たちを「アイロニカルな没入」と呼びました(ちくま新書『虚構の時代の果て』)。意識の水準では麻原の「虚」に対してアイロニカルな立場を取りつつ、行為の水準ではその「虚」の審級に準拠し、「虚」に内在してしまう。平たく言えば、ウソと分かっているけれど、行動はそのウソを真実として演じる。この時、自己の「内面」は、もはやそこに準拠して行動する場ではなくなっている。

「失言」に対する世間の態度も少し似ているような気がします。久間発言に心底怒っているわけではない。「けしからん」という与野党・左右を問わぬ声及びそれを伝えるマスコミ報道に、「所詮『失言』が政治や選挙の道具になっているだけだよな」というふうな「距離」を取っている。しかし行動の水準では、「あれは被曝者をはじめとして世間の人々を怒らせるひどい発言だった」という、自己の内面に立脚しない「虚構」に依拠する。そこから現れる最大公約数的意見は「私個人は別に怒ってはいないが、立場をわきまえぬ発言をした久間は大臣として失格」という感じではないかと思います。そしてその結果が内閣支持率低下等として現れ、それがまた「やっぱりあれはひどい発言だったのだ」という「他者の怒り」と「許されぬ失言」という判断への信憑を強める。

昔に比べれば人々はある意味賢くなりました。新聞やテレビの情報を頭から信じる人は少なくなりました。いわばそうしたものにアイロニカルに接するようになってきた。ところがそれと反比例するように、自らの行動の基準を「虚」たる他者に置くようになる度合いが強くなっているのではないか。意識と行動が乖離し、その乖離を矛盾なく生きることに慣れてきているのではないか。しかし乖離は乖離だから、時に「こんな行動を取っている私は誰?」という疑問が起こる。いや、「私は誰?」という内面の喪失現象こそが行動を虚の水準に委ねてしまう原因かもしれません。
「失言」への国民的非難は原爆への怒りが依然として強いことをではなく、怒りが形骸化していることをこそ示しているのだと思います。

ちなみに私は「失言」を出るべくして出たもの、それどころか誰かが言わねばならなかったものだと思います。欺瞞的な家族ごっこを演じている家庭で、子供の一人が非行に走って家族ごっこをぶち壊してしまうとき、その非行は起こるべくして起こったものだと言いうるような意味で。
原爆を、原爆だけではなく都市空襲による無差別殺戮も、戦後の日本は事実上「しょうがない」ものとして扱ってきた。そう扱わざるをえなかった。戦前を全否定することとセットで。そしてそこに平和国家だの平和都市だの非核三原則だのといった「平和な家族ごっこ」を覆いかぶせてきた。おっちょこちょいの久間氏はついぽろりと言ってしまった。思わず万引きをしてしまった「平和な家庭」の子供のように。
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防衛大臣の失言
 tpkn  - 07/7/6(金) 21:21 -

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   と、それに対する与野党の反応について芥屋さんはきっとひとことあるに違いない!

と思って毎日ブログをチェックしてますがお忙しそうですね…。
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Re(1):てへっ
 ラクシュン  - 07/6/21(木) 20:37 -

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   [社会運動におけるネット利用と「運動マニュアル」]
ttp://macska.org/article/190#comments (macskaブログより)
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(…)第一、バックラッシュの側だって最近の歴史修正主義とかジェンダーフリーバッシングとかは旗を振る連中がバカばかりでまだ助かったけど(…)
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なんか、鼻クソが鼻クソを見下してる印象。(笑)
_(_ _)ノ彡☆ばんばん!
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