newSpeakBBS
  新規投稿 ┃ ツリー表示 ┃ スレッド表示 ┃ 一覧表示 ┃ トピック表示 ┃ 番号順表示 ┃ 検索 ┃ 設定 ┃ ホーム  
109 / 136 ツリー ←次へ | 前へ→

ところで ラクシュン 08/11/30(日) 19:23
  Re(1):ところで ラクシュン 08/11/30(日) 20:56
   Re(2):ところで 芥屋 08/11/30(日) 23:56
   Re(3):ところで ラクシュン 08/12/8(月) 16:11
   Re(4):ところで 芥屋 08/12/11(木) 21:50
   Re(5):ところで ラクシュン 08/12/14(日) 15:47
   Re(6):ところで Josef 08/12/15(月) 21:09
   Re(7):ところで ラクシュン 08/12/17(水) 14:23
   Re(8):ところで Josef 08/12/17(水) 21:20
   Re(9):ところで ラクシュン 08/12/20(土) 15:21
   Re(10):ところで ラクシュン 08/12/20(土) 15:27
   実在と超越 芥屋 08/12/20(土) 17:06
   Re(1):実在と超越 Josef 08/12/21(日) 17:52
   Re(2):実在と超越 ラクシュン 08/12/22(月) 19:08
   Re(3):実在と超越 芥屋 08/12/22(月) 22:46
   Re(4):実在と超越 ラクシュン 08/12/23(火) 14:24
   Re(5):実在と超越 Josef 08/12/24(水) 21:37
   Re(6):実在と超越 ラクシュン 08/12/25(木) 18:02
   Re(7):実在と超越 Josef 08/12/29(月) 19:50
   Re(8):実在と超越 ラクシュン 09/1/2(金) 14:02
   Re(9):実在と超越 Josef 09/1/6(火) 21:17
   というか ラクシュン 09/1/8(木) 17:57
   Re(1):というか ラクシュン 09/1/11(日) 17:22
   Re(2):というか Josef 09/1/13(火) 21:59

ところで
 ラクシュン  - 08/11/30(日) 19:23 -

引用なし
パスワード
   みなさんおげんこですかあ?

私は、MAC(not尊称w)のブログで殺された(=言論封殺)時期と相前後して、ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/
にもお邪魔しているのですが、こういう(微妙な?)カン違い的な人種も困ったもんだなーみたいな、気分でいます。

ところで、「たかじんのそこまで言って委員会」というTV番組はどこでも週一で放映されているんでしょうかね?
今日見ていて(田母神出演)、前に灯里さん? ○△さん? 誰だったかMACブログで言ってた、右翼?問題?に興味が移っているって言っていたことに共感を覚えました。

憲法九条に根を下ろした論題にはほとんど馴染みがないというネックはあるんですけどねえ・・・w

Re(1):ところで
 ラクシュン  - 08/11/30(日) 20:56 -

引用なし
パスワード
   あ、HNは「ハクチ」にしました。
何だったか、ブログ主がある書籍をハクチ本だと一方的にこき下ろしていたこと自体に反発して付けた名前です。

実際、自分は白痴だと思っているので別に問題もないですしね…

Re(2):ところで
 芥屋  - 08/11/30(日) 23:56 -

引用なし
パスワード
   >ラクシュンさん:

おー、地下猫さんのとこですね。
わたし、地下猫さん好きですよ。

>あ、HNは「ハクチ」にしました。

冷やかしじゃないけど、「白雉」にしてはどうだろう?
日本の古代の年号ですけどね。

Re(3):ところで
 ラクシュン  - 08/12/8(月) 16:11 -

引用なし
パスワード
   えっ、好きだったのですかぁ・・・

Re(4):ところで
 芥屋  - 08/12/11(木) 21:50 -

引用なし
パスワード
   >ラクシュンさん:
>えっ、好きだったのですかぁ・・・

な、なんだ、この中学生男子の恋バナみたいな流れは…

例)
A:「俺、最近、C子からかって遊んでるんだ。あーゆー勘違い女、困るぜ」
B:「あぁ、C子か。俺、好きだよ」
A:「え。…好きだったの?」


まぁ、それはともかく。
私は、地下猫さんとはお話したことは無いです。
進化論の掲示板でmacskaさんが地下猫さんと暴れてて、
その地下猫さんのご意見が好きでしたね。
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5329/1166959704/

いやそりゃ、macskaさんの言いたいこともわかりますけどね。
こりゃぁ怒られるでしょ…ねぇ。
で、私のはおいといて、地下猫さんのご意見内容の賛否はもちろん、
何て言うかな…

楽さん覚えてるかなぁ、田嶋板にラディソさんて居たでしょ。
正しくは「ラディソ、オマルにはまる」ってなHNの赤い字の人。
オトコだけど、お姐言葉で、火を噴くように田嶋ファンを罵倒してた人。
あの人のエキセントリックさと近しいものを私は感じてですね。

地下猫さんがラディソさんを髣髴とさせるとか似てるとかじゃないですけど。
地下猫さんは、可愛い娘のいるヒゲのおいちゃんだとのことだし。

Re(5):ところで
 ラクシュン  - 08/12/14(日) 15:47 -

引用なし
パスワード
   >正しくは「ラディソ、オマルにはまる」ってなHNの赤い字の人。

私のPCに赤が表示されていたかどうかは忘れましたけど、たしかあの人のHNはオマルに“またがる”だったと思います。
#チョロくん氏があの人のシッポを踏んじゃって。(涙

>進化論の掲示板でmacskaさんが地下猫さんと暴れてて、
その地下猫さんのご意見が好きでしたね。
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5329/1166959704/

私もこのスレッドに1、2回書き込みましたがそれは置いといて…

>こりゃぁ怒られるでしょ…ねぇ。

その議論の流れはそれなりに漠然と追尾していたつもりですが、それとは別問題として、地下猫さんのブログでの『神は妄想である』というドーキンスの著書に対する反論の仕方が(微妙なレベル?で)気になるのです。

もう一度その件に関連するエントリーを全て読み直さなければ何とも言えない(というロスが私にはシンドイ)のですけど、例えば、今の私が地下猫さん的な立場(?)に成り代っていれば、「(始めから)無いもの(=神)を科学では否定することはできないのだ。その無いもの(=神)を科学的な論拠によって否定している積もりになっているドーキンスが滑稽だ!」とハッキリ言うべきだと思うのです。
しかし、読後感的にはそうは言ってなよな、みたいな・・・だったら何が言いたいの?…みたいな・・・
何処かで神存在的なものを肯定したいのでしょうかね?

…で、私の関心事は、人間に意識がある(イヌ・ネコにもそれなりに意識があるという判断)ということから、わざわざ理神論的なものを(神存在の否定の)反例に持ち出すまでもなく、物質に拠らない意識(or霊魂)があるという命題を科学的に否定できますか?ということに行き着きます。しかし地下猫さんの論理では勿論否定できないと思うし、そもそもこの種の問題自体がその「科学」の範疇に入れるの?…みたいなとこですかね。
入れないのなら『神は妄想である』(だっけ)のタイトルに反感を抱く根拠も無いと思うし。

人間に意識があるからこそ、物質性(肉体)との関連性を自明なかたちで認識できている(≒観測選択効果)のですよ。
だからこそ抱かれる、人間の意識が認識しているその物質性の無いところに意識(霊魂)が無いなんて何で言えるのか?という疑問とほぼ同型的なかたちで理神論的な神存在が入り込んでくると思うのですが、これは一般的な認識での科学(≒無いものは科学では否定できない≒無いものは無い)以前の問題のような気がするんですけどね。
私の違和感の根幹はこのへんなのかなあ・・・

Re(6):ところで
 Josef  - 08/12/15(月) 21:09 -

引用なし
パスワード
   神は超越だから、科学で証明も否定もできないのは当たり前なのでは?
(超越でない神なら別ですが)

Re(7):ところで
 ラクシュン  - 08/12/17(水) 14:23 -

引用なし
パスワード
   >神は超越だから、科学で証明も否定もできないのは当たり前なのでは?
>(超越でない神なら別ですが)

こう書かれるとイマイチ理解し難いのですが、ドラエもんそっくりの宇宙外生命体が実在すると信じている人がいればその存在も「超越」ではないのですか?
普通はそういうのは、「超越」であろうがなかろうが、フィクションか盲想で片付けたほうが経済的でしょう。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E8%B6%8A%E8%AB%96%E5%93%B2%E5%AD%A6
ttp://wiki.livedoor.jp/minatetu/d/%C4%B6%B1%DB%CF%C0%C5%AA%BC%E7%B4%D1

うまく説明できませんけど、こういう問題は純粋な科学システム(=道具)とそれを人間が運用することによって起こるズレのような気がします。
なので科学システムは無いものについてのデータが無いわけですから、何もしようが無いと思うのです。
したがって、科学には何も言えないとか、科学では否定できないという主張自体が的外れだと思うのですが。

可能性を言い立てれば、どこかの大理石像が急に逆立ちして歩き出す可能性だって排除できないのでしょう。

Re(8):ところで
 Josef  - 08/12/17(水) 21:20 -

引用なし
パスワード
   >>神は超越だから、科学で証明も否定もできないのは当たり前なのでは?
>>(超越でない神なら別ですが)
>
>こう書かれるとイマイチ理解し難いのですが、ドラエもんそっくりの宇宙外生命体が実在すると信じている人がいればその存在も「超越」ではないのですか?

いえ、何であれ「実在する」という以上は超越ではないでしょう。

>科学システムは無いものについてのデータが無いわけですから、何もしようが無いと思うのです。
>したがって、科学には何も言えないとか、科学では否定できないという主張自体が的外れだと思うのですが。

この辺は科学云々より「姿勢」とか「言い方」の問題だと思います。
科学とは神を前提せず、推論の過程に神を忍び込ませることもなく、要するに徹頭徹尾神抜きで理論・実験・検証を重ねていく営為です。その営為の中に誰かが神という項を介入させたなら、それは似非科学とされたり、場合によっては神という名で呼ばれたそのモノを科学的検証の対象とすることもあるでしょうが、ハナから科学とは関係ないところで信仰されている超越としての神は科学の関知するところではないでしょう。この、関知するところではない、という点を私は「証明も否定もできない」と表現しました。

かのパスカルは同時代のデカルトを「許すことができない」と非難しました。二人とも信仰者ですが、大きく違うのは、「心情に感じられる神」と言い、啓示を受けた個人的体験を熱烈に記すパスカルに対して、デカルトは神の存在証明を試みたということでしょう。
前者からみれば、後者は神を「実在」の次元に引きずり下ろしたのです。

Re(9):ところで
 ラクシュン  - 08/12/20(土) 15:21 -

引用なし
パスワード
   >いえ、何であれ「実在する」という以上は超越ではないでしょう。

じゃあ神の実在を前提しない神=宗教などは、はじめから無いと切捨てられても仕方がないですよね。

>この辺は科学云々より「姿勢」とか「言い方」の問題だと思います。

神概念の影響を何一つ受けないところにこそダーウィン主義の真価があるんでしたよね。

>ハナから科学とは関係ないところで信仰されている超越としての神は科学の関知するところではないでしょう。この、関知するところではない、という点を私は「証明も否定もできない」と表現しました。

虚構=非実在だから関知しようがないということですよね。
だったら、はじめから無いで問題ないでしょう。
あとよく解らないのは、理神論神は、似非科学神などと違って科学では否定できないと主張する人は、その神の実在を信じているのかということ。
だとすればその信念はモロに宗教でしょう(ドーキンスどころではない)。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E7%A5%9E%E8%AB%96
そうでないなら何のための反例なのか?
そう信じているでもなく、それを知っているでもなく・・・
確率に介入する神とか…。
そんな神が居ると思ってんのかね。

Josefさんの文章は、「神」≒妄想・思い付きと読めば私には納得しやすいです。

Re(10):ところで
 ラクシュン  - 08/12/20(土) 15:27 -

引用なし
パスワード
   訂正
はじめから無いと切捨てられても ×
はじめからウソと切捨てられても ○

実在と超越
 芥屋  - 08/12/20(土) 17:06 -

引用なし
パスワード
   込み入ってきましたね。

【Jo】
>>神は超越だから、科学で証明も否定もできないのは当たり前なのでは?
>>(超越でない神なら別ですが)
>>かのパスカルは同時代のデカルトを「許すことができない」と非難しました。二人とも信仰者ですが、大きく違うのは、「心情に感じられる神」と言い、啓示を受けた個人的体験を熱烈に記すパスカルに対して、デカルトは神の存在証明を試みたということでしょう。前者からみれば、後者は神を「実在」の次元に引きずり下ろしたのです。
【ラク】
>こう書かれるとイマイチ理解し難いのですが、ドラエもんそっくりの宇宙外生命体が実在すると信じている人がいればその存在も「超越」ではないのですか?
【Jo】
>>いえ、何であれ「実在する」という以上は超越ではないでしょう。
【ラク】
>じゃあ神の実在を前提しない神=宗教などは、はじめからウソと切捨てられても 仕方がないですよね。

ところでラクさんは、「実在」という言葉をどういう意味で用いています? 私なら「人間の五感で知覚できる存在」といった対象を想定します。そのうえで、その延長として「人間の眼前にその存在を示すことはできないが、思惟によって擬似的に五感で捉えることが可能な存在」も加えて良いかと。

「超越」とは、五感で知覚できず思惟も及びつかないもの…したがって、火星にタコ型の火星人が実在すると信じるにせよ信じないにせよ、そこでいう火星人なるものは、何ものをも超越した存在というわけではありませんよね。火星という天体の地上に生息していて、地球の海に棲む蛸のような形をしていて、地球人なみの知能や思考力や持つんだということですから。

「ドラエもんそっくりの宇宙外生命体」も同様で、それが実在するんだと信じている人にとっては、四次元か何かの別次元の宇宙の、そこの某星雲の某天体に住んでいるということでしょうから、やはりその次元の宇宙の中のミクロな構成要素のひとつでこそあれ、その次元の宇宙の成り立ちそのものを超越した存在だというわけではない。まぁその「ドラエもんそっくりの宇宙外生命体」が、こちら三次元の宇宙を創始して今も某天体に内在して活動中だというんなら別ですが、そうなると、宇宙を超越しているのか構成物のひとつなのか、えらく矛盾した観念だと言えそうです。

私が見るに、たぶんJosefさんもそういう意味で「実在」と「超越」を分けていると思うのですが。それに対しラクさんが、

>ドラエもんそっくりの宇宙外生命体が実在すると信じている人がいればその存在も「超越」ではないのですか?

…と言われるとき、その「超越」というのは、ただ単に「観測不能な遠い惑星、そこの生物なんだという想像だけの存在」という意味で言われていませんか? 「何ら実証性の無い想像上の存在」…たとえば伝説上の怪人怪獣などもそうしたものですけど、これらとて、人間の脳の中で思惟によって擬似的に五感で知覚しているわけですし、地上の「どこか」で「いつか」に実在したんだということであって、すべてを超越した存在なんだということではないでしょう。

そこが、科学と衝突するタイプの「神」と異なるところです。「どこと言えば無限に」「いつと言えば永遠に」存在しているんだというのが、超越した存在としての絶対神というものだと、そういう意味で私は(Josefさんも?)考えております。「神」という言葉が指す範囲はいろいろな宗教や信仰によって様々ですが、科学と衝突するタイプの「神」というのは、森羅万象を生み出すものであります。

ですから、世界に起きることの全てを説明しうるものであり、なかんずく説明不能だとしてもそれは人間の能力の限界としての説明不能だということになります。そのことがまさに「神の御業(みわざ)に人智の及ばざる」を説くことになるという次第であって、思惟のかたちとしては説明可能も不可能も全て循環的に回収される性質がありますね。だから、こうした思惟の方式は科学と衝突せざるを得ない。それが、

【Jo】
>>科学とは神を前提せず、推論の過程に神を忍び込ませることもなく、要するに徹頭徹尾神抜きで理論・実験・検証を重ねていく営為です。その営為の中に誰かが神という項を介入させたなら、それは似非科学とされたり、場合によっては神という名で呼ばれたそのモノを科学的検証の対象とすることもあるでしょうが、ハナから科学とは関係ないところで信仰されている超越としての神は科学の関知するところではないでしょう。この、関知するところではない、という点を私は「証明も否定もできない」と表現しました。

というあたりでしょう。

Re(1):実在と超越
 Josef  - 08/12/21(日) 17:52 -

引用なし
パスワード
   超越と実在についてはアニキが説明してくれた通りです。
近代科学は実在を対象とするものだから、超越については何も言えない、と考えるのが妥当だと思います。

>じゃあ神の実在を前提しない神=宗教などは、はじめから無いと切捨てられても仕方がないですよね。(ラクシュンさん)

科学の扱い得る領域には「無い」でしょう。
このことから、「神とは妄想である」と言ってしまうのは自由だけれど、扱いえない領域に対するそうした飛躍した断言は非科学的でしょう。

Re(2):実在と超越
 ラクシュン  - 08/12/22(月) 19:08 -

引用なし
パスワード
   芥屋さん
>ところでラクさんは、「実在」という言葉をどういう意味で用いています? 私なら「人間の五感で知覚できる存在」といった対象を想定します。

私では、とにかくどこかに実際に在るという意味です。
【実在】(哲)一般には、観念・想像・幻覚など主観の所産に対し、客観的に存在するもの、またその在り方。

>まぁその「ドラエもんそっくりの宇宙外生命体」が、こちら三次元の宇宙を創始して今も某天体に内在して活動中だというんなら別ですが、そうなると、宇宙を超越しているのか構成物のひとつなのか、えらく矛盾した観念だと言えそうです。

【超越】(哲)イ、一般にある領域の外にあること。例えば、意識から独立な存在、世界の外にあるものとしての神についていう。
だから、神=実在、でしょう?

>そこが、科学と衝突するタイプの「神」と異なるところです。「どこと言えば無限に」「いつと言えば永遠に」存在しているんだというのが、超越した存在としての絶対神というものだと、そういう意味で私は(Josefさんも?)考えております。

だからと言うか、それだったらそんなものは無いということなんですよ。


Josefさん
>科学の扱い得る領域には「無い」でしょう。

科学を抜きにしても、有神論者の頭の中にしかないものを在るなんて言えないと思いますけど。

>前者からみれば、後者は神を「実在」の次元に引きずり下ろしたのです。

そこで前のレスに戻りますが、前者=パスカル、後者=デカルトという意味ですよね(最初逆かと思ってた)。
同じキリスト教信者であっても、パスカルの神が本物の神(?=科学と棲み分け的に両立できる神)で、デカルトの神は科学と対立して撃退されてしまうからニセ物だみたいな、そんな理屈で扱われてしまう「神」観念自体がオカシいと思います。

この二人について言えば、私の(ショボ)知識内では、デカルトのほうがまだまとも(謙虚かつ超越的)で、パスカルとその神はペテン師的ですね。
「パスカルの賭け」なんて、宗教=神の詐欺性やいかがわしさモロ出しです。
あの賭けにはすでに有効な反論がいろいろあるようですけど、ある隠れ前提(≒一神教は複数ある。多くの場合改宗には罰が下るという共通ルールがあることとその知識)を追加すればパスカルの論理形式自体が成立しないようです。
成立するのは、既にキリスト教を信じきっている人に限られそうなもよう。

Re(3):実在と超越
 芥屋  - 08/12/22(月) 22:46 -

引用なし
パスワード
   >ラクシュンさん:
>>ところでラクさんは、「実在」という言葉をどういう意味で用いています? 私なら「人間の五感で知覚できる存在」といった対象を想定します。

>私では、とにかくどこかに実際に在るという意味です。

そうですよね。どこかに在る、と。つまり空間的に限定されているわけで。でも「超越」した存在というのは、そのように限定された存在ではないわけでしょう。空間的には、「特にどことも言えない。あまねく全てのところに…」となるわけです。

キリスト教の全能の「主」、イスラム教のアッラー、儒教の天帝、加えれば仏教の阿弥陀仏も入るかな、とにかくそうした存在は、地上のどこその山にいらっしゃるとか、天空のどのあたりにおわしますとか、そういうものではないとされていますよね。それら空間的な限定は無しに、はるかに全的な存在だとされています。

>【実在】(哲)一般には、観念・想像・幻覚など主観の所産に対し、客観的に存在するもの、またその在り方。
>
>【超越】(哲)イ、一般にある領域の外にあること。例えば、意識から独立な存在、世界の外にあるものとしての神についていう。

なるほど。お手元の辞書の出典はわかりませんが、宗教学との兼ね合いで見たほうがわかりやすいかもしれません。お役に立てるかどうか、私の浅学の知識でちょっと述べてみます。Josefさんのさりげないひとこと「超越でない神なら別ですが」がキーワードになると思います。

日本の神道で、もっとも古い形態を残していると言われている奈良の三輪山信仰をご存知でしょうか。日本各地にある神社の中で、この「大神(おおみわ)神社」の特異な点は、本殿が無いことです。普通の神社は拝殿の向こうに本殿があって、御神体がおさめられているのですが、大神神社の場合は、拝殿だけあって本殿が無い。御神体はというと、実は拝殿の奥にある三輪山そのものが御神体なのです。

ようするに、三輪山という自然物それ自体が神様なのですよ。こうした形態は北陸の白山信仰など少なからずありますが、ようするに「その山」「この川」「あの海」という、それ自体が神様。こうなると、これらの「神」は、「客観的に存在するもの」でしょう?「世界の外にあるもの」ではないですよね。

もちろん日本の神祇信仰の中には、観念神も人格神もあって混ざっているのですが。こうした例は、日本の神道だけでなく、世界各地にあります。いや、日本国内ですら、別系統でアイヌ神話にもみられます。鶴のタンチョウをアイヌ語で「シャロルンカムイ」と言います。「湿原の神」という意味。熊は「キムンカムイ(山におわす神)」。

>だから、神=実在、でしょう?

えぇ、三輪山それ自体が正体であるオホオモヌシや、湿原に羽ばたく鶴のシャロルンカムイは、実在しておりますよね…大和の国に、北海道に。これらの「神」と、天にまします主(ヤハウェー)やアッラーや天帝や阿弥陀仏などは、異なりますでしょう。

>>そこが、科学と衝突するタイプの「神」と異なるところです。「どこと言えば無限に」「いつと言えば永遠に」存在しているんだというのが、超越した存在としての絶対神というものだと、そういう意味で私は(Josefさんも?)考えております。

>だからと言うか、それだったらそんなものは無いということなんですよ。

えぇ、科学でね…同じダーウィニストの中でも、そこまで断言せねばならないんだというのがドーキンスの立場で、そこまで断言する必要は無いんだというのがグールドの立場だろうと思います。私は、グールド博士の良識も理解できるのですが、個人的には、ドーキンス博士の峻厳さが好きです。でも、人間の世俗社会というのは、グールド流の寛容こそ大切なものとするのであって、ドーキンス流の峻厳さは学問の中にとどめたほうが良いとも痛感するところですが。

Re(4):実在と超越
 ラクシュン  - 08/12/23(火) 14:24 -

引用なし
パスワード
   芥屋さん
>ようするに、三輪山という自然物それ自体が神様なのですよ。こうした形態は北陸の白山信仰など少なからずありますが、ようするに「その山」「この川」「あの海」という、それ自体が神様。こうなると、これらの「神」は、「客観的に存在するもの」でしょう?「世界の外にあるもの」ではないですよね。

私の狭い範囲の知識内では、これは汎神論の範疇になります。しかし私の辞書(広辞苑)の何処かでは、汎神論は無神論と同等に扱われる傾向があるとも記されています。

>もちろん日本の神祇信仰の中には、観念神も人格神もあって混ざっているのですが。こうした例は、日本の神道だけでなく、世界各地にあります。

「神祇信仰」はジンギシンコウと読むのですかね。これについては後で調べてみます。しかしどうもこの種の神の信仰者は布教とか折伏とかはしないでしょう。
この種の神については私は何も言う積もりはありません。
あぁそうんだ、と思ってそれに素直に納得するだけだと思います。

>でも、人間の世俗社会というのは、グールド流の寛容こそ大切なものとするのであって、ドーキンス流の峻厳さは学問の中にとどめたほうが良いとも痛感するところですが。

私はドーキンスの著書は『盲目の時計職人』しか読んでないので、芥屋さんが言われているグールドの寛容さが何を指しているのは解りません。

Re(5):実在と超越
 Josef  - 08/12/24(水) 21:37 -

引用なし
パスワード
   >科学を抜きにしても、有神論者の頭の中にしかないものを在るなんて言えないと思いますけど。(ラクシュンさん)

もちろん在るなんて言えません。信じない人にとっては無いのですからね。信仰とはそういうものでしょう?
肝腎なのは、たった一人しか信じる者のいない神でも、信じているその人にとっては「在る」ということです。

>ようするに、三輪山という自然物それ自体が神様なのですよ。こうした形態は北陸の白山信仰など少なからずありますが、ようするに「その山」「この川」「あの海」という、それ自体が神様。こうなると、これらの「神」は、「客観的に存在するもの」でしょう?(アニキ)

三輪山という自然物は客観存在ですが、そこに「神」を見たり感じたりするとき、その「神」は客観存在ではありませんね。もちろん、具体的なモノと同一化しているという点で、その神は超越ではなく、一種のフェティッシュ(物神)でしょう。

Re(6):実在と超越
 ラクシュン  - 08/12/25(木) 18:02 -

引用なし
パスワード
   >肝心なのは、たった一人しか信じる者のいない神でも、信じているその人にとっては「在る」ということです。(Josefさん)

であるなら、パスカルのデカルトに対する批判は根本的に的外れということですよね。ある宗派内のある信者の宗教観に対して、その宗派内の指導的立場(何の根拠および基礎的信念に裏づけされているのか知らないけど、とにかく特権的立場)にいる人がとやかく言う筋合い自体が成立しないということですよね。

しかしこういう考え方は、何かを信じている人がいるという事実と、その信念対象(=神)が実在することを混同していませんかね。
はっきり言ってしまうと、まったく説得力がありません。

……適当な記憶と想像を交えて書くので話1/3くらいに割り引いて聞いて欲しいのですが、(私が想像する)マタギ(orエスキモー)の世界では、狩猟をする前に何らか(例:ヤマの神と見立てた何かに対する供え物)の儀式があると思うんですよ。そして、イノシシなどの獲物をしとめ(殺し)た後でもそれなりの儀式があると思うんですけどね。
だとすれば、これらの行為にはそれなりに合理的な根拠があると思うんですよ。
普段は人間が立ち入ることのない自然界は文明界とは独立の法則(ルール)が成り立っていると思います。その認識が人間にあれば、その境界を踏み越える(殺=生態系を乱す)ことの畏れを感じるだろうし、だからこそその世界では無駄な殺生はしないというルールが成り立つのだと思います。そしてそのルールを守ること自体が自分たち(マタギ)の行為を正当化し、かつその生活をも安定化させている面があるということです。
ある掲示板で、無いものが在ると考えることによって、既存の体系を支えているという主旨(例:ある空間で光が妙に歪んでいる。既存の物理学の知見からの推論として惑星の存在を仮定する。この仮説自体が既存の物理学体系を支える。ラカン理論にも適用可?)の書き込みがありましたが、これと同様に、その種のルールを支える手っ取り早い手段として、山の(?)「神」の存在が仮説的に利用されているのではないのか、などと考えたりしています。

Re(7):実在と超越
 Josef  - 08/12/29(月) 19:50 -

引用なし
パスワード
   ラクシュンさん

>であるなら、パスカルのデカルトに対する批判は根本的に的外れということですよね。

当人にとって的を射ていればそれでいいでしょう。信仰の問題なんだから遍く妥当する「正解」などあるわけがないのです。

>ある宗派内のある信者の宗教観に対して、その宗派内の指導的立場(何の根拠および基礎的信念に裏づけされているのか知らないけど、とにかく特権的立場)にいる人がとやかく言う筋合い自体が成立しないということですよね。

とやかく言えばいいと思います。
なるほどーと思う人が多ければその宗教観は主流になっていくし、はぁ?と思う人が多ければ衰退していく。

>しかしこういう考え方は、何かを信じている人がいるという事実と、その信念対象(=神)が実在することを混同していませんかね。

そういう人もいるでしょうが、ここに書き込んでいる3名は混同していませんね。

それはともかく、神を別としても、世界とは畢竟「私の世界」であって、その外に出ることはできません。ラクシュンさんの言う実在は、たぶん、「私の」を抜きにした世界のことだと思います。そこには神どころか、愛も憎も、善も悪も、ありません。

たとえばある行為が善であることを科学的に証明することはできません。善は実在じゃありませんから。しかし人はそのような実在の中だけで生きているのではなく、善悪を含めたあれやこれやの複雑な価値の網の目を「私の世界」として生きている。神もまたそのような「私の世界」を構成するものであって科学的実在ではない、というのが私の言っていることです。

Re(8):実在と超越
 ラクシュン  - 09/1/2(金) 14:02 -

引用なし
パスワード
   Josefさん
>なるほどーと思う人が多ければその宗教観は主流になっていくし、はぁ?と思う人が多ければ衰退していく。

「なるほどーと思う人が多ければ」と言いますが、神の非存在を前提にした教義が実際にあるのですか?

>そういう人もいるでしょうが、ここに書き込んでいる3名は混同していませんね。

ここにいる3名などはどうでもいいことで、ドーキンスの立場は、神の実在を信じている人たちが相当数いるという判断に基づいたものだと思います。
だって、その宗教の指導的立場にいる人が「神なんて本当はいないんだけど、いると仮定した上での行動規範が宗教だと思って信仰して下さい」なんて、絶対言わないでしょう。
多くの宗教は、神の実在を前提にしなければ成り立ち得ないものだと思います。

>神もまたそのような「私の世界」を構成するものであって科学的実在ではない、というのが私の言っていることです。

「私の世界」だけという個人的な世界内では収まらないからドーキンスが科学的な立場から口出し(アドバイス)しなければならなくなるんだと思います。
そもそも「私の世界」だけで完結するなら布教・折伏の必要はないんですよ。

Re(9):実在と超越
 Josef  - 09/1/6(火) 21:17 -

引用なし
パスワード
   明けましておめでとうございます。

>ラクシュンさん
話がお互いズレてるようですね。

>「なるほどーと思う人が多ければ」と言いますが、神の非存在を前提にした教義が実際にあるのですか?

ええと、「ある宗派内のある信者の宗教観に対して、その宗派内の指導的立場にいる人がとやかく言う筋合い自体が成立しないということですよね」というラクシュンさんの言葉を受けて(引用して)、「とやかく言えばいい」とコメントしたまでですよ。つまらないことを言えば信者は離れていくでしょう。

>ここにいる3名などはどうでもいいことで、ドーキンスの立場は、神の実在を信じている人たちが相当数いるという判断に基づいたものだと思います。

そうかー。私はドーキンスなんてどうでもいいのですが。

>多くの宗教は、神の実在を前提にしなければ成り立ち得ないものだと思います。

宗教にもいろいろあるでしょうが、たいていは神を科学的な意味での「実在」とは考えないのでは?たとえばキリスト教だったら、創造主ですね。創造されたものは実在ですが、創造するものは一切の実在の超えた「超越」でしょう。天皇が姓を与えても自身は姓を持たないようなもので(変な喩え)。

>「私の世界」だけという個人的な世界内では収まらないからドーキンスが科学的な立場から口出し(アドバイス)しなければならなくなるんだと思います。

私の言う「私の世界」(=世界の限界)は「個人的な世界」(=主観世界)とは違うんですよ。
「個人的な世界」は「世界」の一部にすぎませんが、「私の世界」は「世界」を包含するものです。竹田青嗣経由で現象学に触れたラクシュンさんなら分かるでしょ?ラクシュンさんは(たぶんドーキンスも)主客が分かれた後の「客観世界」について実在を云々しているのですね。そこには神は無いでしょう。

というか
 ラクシュン  - 09/1/8(木) 17:57 -

引用なし
パスワード
   >つまらないことを言えば信者は離れていくでしょう。

という文章の中にある「信者」自体が宗教を前提としている以上、神の実在論の作用域内の話になっていますよね。
だから、そんなものはいない、のだと…。
もしあったと仮定するとしても、それは思い付き的なドラエもん的宇宙外(or外外…∞)生命体と同列の範疇にあるもので、そこから特権的に抜け出る資格の無いものだということです。

>たいていは神を科学的な意味での「実在」とは考えないのでは?たとえばキリスト教だったら、創造主ですね。創造されたものは実在ですが、創造するものは一切の実在の超えた「超越」でしょう。

私の認知環境においては、「実在」の概念に科学的なものと宗教的なものとの区別はありません。
したがって、「一切の実在の超えた「超越」」もその存在を前提した時点で既に実在です。

サイコロを見てそこに立方体としてのサイコロの存在が想定されますが、たしか現象学ではそれも(最小限の)超越だとされていると思います。しかしこれは科学的に立方体の存在が確認できますよね。目の前に現象するものは超越であってもそれには実体がある、ということでしょうか。

例えば、私たちの脳の意識内容が、マッドサイエンティストたちが管理する培養槽の中の能に入力されたセンスデータだった場合であったとしても、その可能性を私たちは「そのようなことがあったとしても、それは私たちには(科学的にも)分からない」というようにポジティブ(想定可能)なかたちで受容してしまいます。
懐疑論者は、〜だから絶対的真理はあり得ないのだ、と言いたいだけでしょうが、培養脳が在るのだ、と言ってしまえば実在論でしょう。

本当の意味で絶対的に「超越」した存在者は、実在していてもその実在を人間は想定することすらできない(=念頭にさえ浮かばない)と思います。
「否定神学」は神認識のネガティブさをポジティブに主張できているからたいした超越ではないという解釈です。

Re(1):というか
 ラクシュン  - 09/1/11(日) 17:22 -

引用なし
パスワード
   ゴミの不法投棄が横行する場所に、神社の鳥居のミニチュアを設置するだけで、不法投棄の殆どが無くなってしまうらしいのですが、この現象をJosefさんはどう考えるのでしょうか。
私は、神の祟りを恐れてのことだと判断しています。
そこで、この仮説から出てくる予測としては、そんな鳥居は神社の許可を得ずに勝手に作られたもの(=偽造?)であって(=神とは無関係)ということが知れ渡ってしまえば、不法投棄は元の水準に近づいていくだろう、というものです。

あと、最近の私は、どうも科学が神の非存在を主張することに対する違和表明に対する違和感があるんですよね、ここがうまく説明できないでいる訳ですが。
しかし数日前に知った、ノーベル賞受賞者の益川教授の「科学は、肯定のための否定の連続だ」という言葉からすれば、科学が神存在を否定するのは当然だろうとも思っています。

Re(2):というか
 Josef  - 09/1/13(火) 21:59 -

引用なし
パスワード
   こんにちは。

>私の認知環境においては、「実在」の概念に科学的なものと宗教的なものとの区別はありません

それならば仕方ありませんね。私からみるとラクシュンさんの「在る」の幅が狭いように見えますが、そこは「認知」の違いと同時に「語法」の違いもあるのでしょう。

私は科学的な実在は「在る」ということの一部にすぎないと思っています。私が「美しい女」を見るとき、物理的実在としての女に「美しい」がかぶさって、分かち難く一体化しています。このとき、「美」と「女」は全く違う在り方で「在る」、というのが私の認知であり語法です。

数学的概念、たとえば虚数(irrational number)は「在る」かどうか。いわゆる純粋数学者ほどその存在をありありと感じる傾向が強く、応用数学者や工学者や経済学者など数学を道具として使用する人ほど単なる論理上の操作概念に過ぎないと言う傾向が強いそうです(『数学セミナー』という雑誌にその論争が紹介されていました)。

「美しい」と「虚数」とは性格が異なりますが、共通するのは、その存在性格が普遍妥当的ではなく、誰でも所定の手続きを踏めば確認できるものではないという点です。にもかかわらず、それをありありと感じる人にとっては在るのですね。あそこ、とか、ここ、とかの実在の棲み処ではないところに。

>ゴミの不法投棄が横行する場所に、神社の鳥居のミニチュアを設置するだけで、不法投棄の殆どが無くなってしまうらしいのですが、この現象をJosefさんはどう考えるのでしょうか。
>私は、神の祟りを恐れてのことだと判断しています。
>そこで、この仮説から出てくる予測としては、そんな鳥居は神社の許可を得ずに勝手に作られたもの(=偽造?)であって(=神とは無関係)ということが知れ渡ってしまえば、不法投棄は元の水準に近づいていくだろう、というものです。

神であれ悪魔であれ祟りであれ、実在ではないから移ろうでしょう。美人は三日で飽きると言われる通り、美も移ろうし、能力の衰えた数学者はもはや虚数のありありとしたリアリズムを失っているでしょう。

  新規投稿 ┃ ツリー表示 ┃ スレッド表示 ┃ 一覧表示 ┃ トピック表示 ┃ 番号順表示 ┃ 検索 ┃ 設定 ┃ ホーム  
109 / 136 ツリー ←次へ | 前へ→
ページ:  ┃  記事番号:
82845
(SS)C-BOARD v3.3.10 is Free.