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例の ラクシュン 07/7/23(月) 0:01
  Re(1):例の Josef 07/7/24(火) 17:19
  Re(2):例の ラクシュン 07/7/26(木) 22:06
  Re(3):例の Josef 07/7/28(土) 20:25
   Re(4):例の ラクシュン 07/7/28(土) 22:37
   Re(5):例の Josef 07/7/29(日) 22:01
   Re(6):例の ラクシュン 07/7/30(月) 21:21
   余談 ラクシュン 07/7/31(火) 22:10
    Re(1):余談 ラクシュン 07/8/8(水) 22:31
    Re(1):余談 ラクシュン 07/8/10(金) 21:37
    Re(2):余談 ラクシュン 07/8/13(月) 20:28
    (訂正) ラクシュン 07/8/16(木) 21:02
   Re(6):例の macska 07/8/4(土) 6:15
   Re(7):例の Josef 07/8/4(土) 19:45
  Re(2):例の ラクシュン 07/7/27(金) 22:25
  Re(2):例の ラクシュン 07/8/24(金) 22:12
   Re(3):例の Josef 07/8/25(土) 14:29
   Re(4):例の ラクシュン 07/8/25(土) 22:42
  関係ないけど ラクシュン 07/8/13(月) 22:05

例の
 ラクシュン  - 07/7/23(月) 0:01 -

引用なし
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   ttp://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2007/06/1_108a.html#more

茂木健一郎が、斎藤環に論破されていますね。
返信が無いようですから…。

Re(1):例の
 Josef  - 07/7/24(火) 17:19 -

引用なし
パスワード
   ラクシュンさんご紹介の書簡を斜め読みしてみました(前置きが長すぎですね、この書簡)。茂木クオリア論を読んで「私」という(絶対的)主観性に引っ掛かるものを感じるのは私(=Josef)だけではないようですね。
斎藤氏はこう書いています。

**********斎藤氏第一書簡引用開始*********
ところで、私の感ずる疑問の第一は、まさにこの「クオリア」という概念にきわまります。
 「クオリア」を肯定することは、「この私」のゆるぎなさを肯定することです。
 「この私」という立脚点を肯定することなしに、クオリア概念をつきつめて考えることはできない。言いかえるならば、クオリアについて考えることが可能であるためには、認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提となるのではないでしょうか。
 [中略]
 ほんらい茂木さんは、随所でポストモダン的な発想に違和感を表明されてきたはずです。これはある意味では当然のことで、そのこと自体の当否を、今は問いません。ただ、ポストモダンへの嫌悪と、ラカンの思想の肯定的評価とは、けっして両立し得ないものです。その意味で茂木さんがラカン入門書などに向けてとるべき態度は、「まだそんなことをいっているのか!」と一喝後、本はくずかごに直行、というものであったはずです。
ポストモダンとされる思想に共通のものがあるとすれば、それは「主体への懐疑」にきわまるでしょう。ラカンをポストモダニストに位置づけるかどうかは議論のあるところですが、それを準備した「思想家」のひとりであることは間違いない。ラカンの思想は、欠如と逆説の思想です。「人間」とは、欠如した主体の周囲に構成された幻想の一種であると見なすのが、ラカン派です。
 それゆえラカンは、デカルトのコギトを一蹴します。「我思う、ゆえに我在り」ではなく、「我思う、または、我は在る」だ、とはラカンの有名なジョークです。これは簡単にいえば、思う「我」と在る「我」とが、すでに同一物ではないことを意味しています。そのように、実感的に理解された「我」なるものは、シニフィアンの連鎖がもたらした想像的効果にほかならない。これがラカンの主張であって、それゆえラカニアンにとっての「クオリア」なる概念は、典型的なナルシシズムの徴候、ということになります。証明ができず、「あるとしか言えない(糸井重里)」場所にこそ、ナルシシズムは強く滞留するでしょう。
**********斎藤氏第一書簡引用終わり*********

ラカンを別としても、茂木クオリア論で「私」がそこに含まれるor前提されるのはおかしいのですね。だいぶ前、私はラクシュンさん、じゃなくて楽俊さん宛てにこんなことを書きました。

>ところで、茂木の考え方で納得がいかないのは、クオリアを「私」と不可分で
>あるかのように考えているところです。
>「ギラギラ」「ピカピカ」をクオリアというなら、動物の方が直接的にクオリアの
>中に生きていて、人間は解釈や判断などの知的操作によってむしろクオリアの直接性
>から遠ざかって生きているのではないかと思うのです。(*蛇足ですが、だから
>人間はより直接的かつ強烈なクオリアを渇望しているのではないかと思います。
>その手っ取り早い手段がクスリ。)
>はたしてアメーバはクオリアを感じないのか。感じるとしたらアメーバにも
>意識=私はあるのか。それともアメーバには意識=私がないからクオリアもないのか。
>
>茂木は、そういう問題をすっ飛ばして、「クオリアを感じ取る意識イコール私」と
>あまりにも素朴に結びつけているようにみえます。そのため「意識とは何か」という
>問題設定(本のタイトルでもある)が、「クオリアの解明」という問題設定に
>すりかわっています。
>
>>私たちが感じるクオリアが<私>という主観的体験の枠組みと無関係には存在
>>しえないという事実は、次のようなことを考えてみてもわかる。(158頁)
>
>と茂木は書くのですが、「次のようなこと」で挙げられるたとえの中では
>すでに「Aさん」という人物が<私>を持っていることが前提となっています。
>これはトートロジーであって、感じられるクオリアと<私>とが無関係には存在
>しえないという「事実」の説明にはなっていません。
>
>私はクオリア現出に<私>は必ずしも必要ないと思います。いや、茂木のいう
>クオリアなら<私>を必要としないというべきでしょうか。

なんで茂木は「私」にこだわるんでしょうね。
ところで斎藤は「価値」(さらに「倫理」)についても批判していますが(上の引用より後)、当然価値はクオリアとは言えないでしょう。「ギラギラ」「ピカピカ」と「良い、悪い」が同じレベルで語れるわけがありません。「クオリア」でこういうところまで引っ張っていこうというのは調子に乗りすぎで、せっかく頭いいんだから、書く時間を減らして考える時間を増やした方がいいんじゃないかと思います、茂木氏は。

Re(2):例の
 ラクシュン  - 07/7/26(木) 22:06 -

引用なし
パスワード
   >「クオリア」でこういうところまで引っ張っていこうというのは調子に乗りすぎで、

「クオリア日記」まで引っ張る性格ですから。(笑)
ttp://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/06/post_1af6.html


>なんで茂木は「私」にこだわるんでしょうね。

ぜんぜんうまく説明できませんが、以前に茂木のHP(?)に、フッサールの著書名が書かれていた(と思う?)ことと引用文の「私たちが感じるクオリアが<私>という主観的体験の枠組みと無関係には存在しえない」という表現から考えれば、<超越論的主観>(≒意識の枠組み)、そしてその構成要素である[超越論的自我(純粋自我)](≒意識の働き)と[意識的相関者(意識の素材・知覚・表象)]などがごっちゃになっているだけではないでしょうか。

あとどーなのかな、「主体(被分析者・患者)」「私」「自我」を厳密に区別する(らしい)精神分析の立場からの疑問の矛先が、茂木というのはちょっと的外れというかコクな感じもします。
「調子に乗りすぎ」た結果なのかも知れませんけど。

まーしかし、あの『意識とななにか』がココで取りあげられて、そのすぐ後でしたねNHKに出始めたのは。メディアってあまりにも軽すぎ(orウソっぽすぎ)ちゃうのん?という印象を持っていたんですけどね(帯か何かに付いていた養老猛の推薦文の影響力か?)。
『心理学化する社会』を読んでも(これしか読んでない)、斎藤はこういう傾向から嫌いなんですよ。

Re(2):例の
 ラクシュン  - 07/7/27(金) 22:25 -

引用なし
パスワード
   :::::::::::::::::::::::
言いかえるならば、クオリアについて考えることが可能であるためには、認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提となるのではないでしょうか。
:::::::::::::::::::::::

どーなのかなぁ、このようにクオリアについて間接的にでも語ることができている斎藤には、「認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提」されていなのでしょうか?
何故なら

:::::::::::::::::::::::
「この私」という立脚点を肯定することなしに、クオリア概念をつきつめて考えることはできない。
:::::::::::::::::::::::

フッサールも認めている、(自己)同一化機能・中心化機能があるお陰で斎藤は「「この私」という立脚点を肯定」できている訳でしょう?

Re(3):例の
 Josef  - 07/7/28(土) 20:25 -

引用なし
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   ><超越論的主観>(≒意識の枠組み)、そしてその構成要素である[超越論的自我(純粋自我)](≒意識の働き)と[意識的相関者(意識の素材・知覚・表象)]などがごっちゃになっているだけではないでしょうか

ええ、いろんなことがごっちゃになって、全部クオリアでいけるという感じなんでしょうね、よく分かりませんが。

>あとどーなのかな、「主体(被分析者・患者)」「私」「自我」を厳密に区別する(らしい)精神分析の立場からの疑問の矛先が、茂木というのはちょっと的外れというかコクな感じもします。

本来はそうだと思います。「本来」というのは私が理解した「クオリア」の意味からすれば、ということで、ラクシュンさんの指摘からはズレているかもしれませんが。
「本来」、クオリアとラカンなどのいう意識・無意識とはあまり関係がない話ですね。後者は「構成されたもの」です。その「構成」は言語とも深く関係しているわけですが、クオリアは本来、言語や言語的構成以前のレベルにあるものでしょう?言い換えれば脳の働きに直接発するもの。だから脳科学を専門とする茂木の議論に期待するわけで。ところが、「この私」のような構成されるものに対してまで同じ理論装置で説明しようとするとトンデモになりやすい。

精神医の中井久夫が、統合失調患者の感じる強烈な「恐怖」は、動物的レベルの恐怖が言語的に構築された「私」を突き破って現れるものではないか、という意味のことをどこかに書いていました。動物的レベルの恐怖とは(原初的恐怖といってもいいでしょうが)、たとえば動物が捕食者に追い掛けられる時に覚えるであろう恐怖です。それが何らかの変調によって、構成された意識の網の目を突き破るようにして出てくる。だとすれば、これ、まさにクオリアです。
統合失調が「精神分析」だけでは治せず、脳に直接作用する薬を使う必要があるのは、「恐怖」を含めてその病因が「構成された自己」の内にではなく、何よりもまず脳にあるからなのでしょう。

私の理解するクオリアとは、まずはこのような直接的感覚です。アリアリとした、イキイキとした、ナマナマしい、原初的な疑いえない感覚です。斎藤は次の文を「典型的な脳還元主義」として批判的に引用しますが、茂木的にはこれが出発点だったはずです。

******引用開始(茂木氏の文章より)******
「<クオリアの先験的決定の原理=認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火パターンと、クオリアの間の対応関係は、先験的(ア・プリオリ)に決定している。同じパターンを持つ相互作用連結なニューロンの発火には、同じクオリアが対応する>
 この原理が主張することは、「クオリア」自体は、経験や学習に依存して決定されるのではなく、それ以前に決定されているということである。認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火パターンとクオリアの間の対応に、任意性あるいは変化の余地はなく、その対応関係は必然的であるということだ」(『脳とクオリア』日経サイエンス社、一七一頁)
******引用終了(茂木氏の文章より)******

これが批判対象になってしまうのは、茂木がクオリアでもって「この私」なんてものまで包括して論じようとするからですね。それどころか「倫理」まで言い及んでいるそうではないですか。遠い将来にはそれが可能であるかもしれないということはまあ留保しておくとして、大脳の大半がまだよく分かっていない現在においてそういうことをもっともらしく語れば、一方では似非科学、他方では思想・哲学の生齧りになってしまうのは当然かなと思います。

Re(4):例の
 ラクシュン  - 07/7/28(土) 22:37 -

引用なし
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   >大脳の大半がまだよく分かっていない現在においてそういうことをもっともらしく語れば、一方では似非科学、他方では思想・哲学の生齧りになってしまうのは当然かなと思います。

こういう人たちのことを総称して、あのmacska氏が「ヤバい(…学)」云々と言っているわけですよね。
(´・ω・`).。oO(だけど当の本人が一番ヤバそうだなんてことは大きな声では言えない)

Re(5):例の
 Josef  - 07/7/29(日) 22:01 -

引用なし
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   >こういう人たちのことを総称して、あのmacska氏が「ヤバい(…学)」云々と言っているわけですよね。

違うでしょう。

気づかれていない真実、あるいは気づかれていてもタブー視されていて誰も明言しない真実を、誰もが追試できるちゃんとした根拠に基づいて言ってしまうのが「ヤバい(…学)」。

Re(6):例の
 ラクシュン  - 07/7/30(月) 21:21 -

引用なし
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   >気づかれていない真実、あるいは気づかれていてもタブー視されていて誰も明言しない真実を、誰もが追試できるちゃんとした根拠に基づいて言ってしまうのが「ヤバい(…学)」。

ttp://astore.amazon.co.jp/macska-22/detail/4492313656/
たしかにそうでした。
しかし「ヤバい」の意味がいまいちかな。

余談
 ラクシュン  - 07/7/31(火) 22:10 -

引用なし
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   「ヤバい経済学」(増補改訂版)を購入し、「これも経済学だ!」も序でに注文してきた私が来ましたよ。(笑)
Josefさんの解説と上の書評を読んで妙に親近感を覚えたので取りあえず買っておきました。
読了までには時間がかかりそう…。

Re(6):例の
 macska  - 07/8/4(土) 6:15 -

引用なし
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   >Josefさん:
>気づかれていない真実、あるいは気づかれていてもタブー視されていて
>誰も明言しない真実を、誰もが追試できるちゃんとした根拠に基づいて
>言ってしまうのが「ヤバい(…学)」。

えーと、それもちょっと意味が違いますね。
『Freakonomics』の「freak」の意味はイントロダクションの米国版だと14ページになる部分でこう説明されています。

We did consider, for about sex minutes, writing a book that would revolve around a single theme--the theory and practice of applied microeconomics, anyone?--but opted instead for treasure-hunt approach. Yes, this approach employs the best analytical tools that economics can offer, but it also allows us to follow whatever freakish curiosities may occur to us. Thus our invented field of study: Freakonomics.

日本語の「ヤバい」と「freakish」は全く同じ意味ではないですが、著者の意図からすると対象選択が変わっているから「freakish」なのであって、新たな事実を掘り起こすからとかタブ−視されているからという意味ではないようです。もちろん、日本版を「ヤバい」と名付けた意図はそれとは別かもしれませんが。

政治的にタブーな指摘という程度の意味なら、レヴィットに限らずとも経済学者には進化論者に負けないくらい世間の常識や良識に反する提言をやっている人が大勢いますね。

Re(7):例の
 Josef  - 07/8/4(土) 19:45 -

引用なし
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   >macskaさん
>著者の意図からすると対象選択が変わっているから「freakish」なのであって、新たな事実を掘り起こすからとかタブ−視されているからという意味ではないようです。

ご教示ありがとうございます。
原書はおろか翻訳も読んでいない者(=私)が適当に類推して書くとやっぱりズレますね。

とはいえ、「宝探し」という比喩からすると、「対象選択が変わっている」ということだけではなくて、物事の隠された面を発掘するという意図もあるのですね。

Re(1):余談
 ラクシュン  - 07/8/8(水) 22:31 -

引用なし
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   ↓ちなみに『ヤバい経済学』ブログだそうです。
ttp://www.freakonomics.com/blog/

Re(1):余談
 ラクシュン  - 07/8/10(金) 21:37 -

引用なし
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   『ヤバい経済学』の印象としては、レヴィットは経済学の分析ツールは強力だ、みたいなことを言うんですけど、それって普通の分析ツールだろうっていうこと。
ただ、レヴィットという人はデータ分析の能力が優れているんだと思います。
型に囚われないっていうのか…。

『これも経済学だ!』はまだ1/5くらいしか読んでいませんけど、いまのところそれほど目新しい用語とかも出て来ていませんね。「弱者」についての分析が楽しみですけど。

2冊とも「インセンティブ」という概念が基本にあるようように見えますが、私の“親近感”の源は、インセンティブ=エロス論の文脈なのかな…。

Re(2):余談
 ラクシュン  - 07/8/13(月) 20:28 -

引用なし
パスワード
   ------------------------------------------------
†世間的イメージが崩れるとき
(…)
 特定の身分を与えられた人たちが、世間的なイメージを壊さないように振る舞うインセンティブを持ち続けている限り身分制度は有効である (4)。
 たとえば、女性社員にかんして、いずれは結婚して会社を辞める人たちという世間一般のイメージがあるとしよう。こうしたイメージが有効であるためには、社会にとってこのイメージを前提にして女子の採用や昇進を決めることがコストの節約になることに加え、女性のとってもそのような扱いを受けることが満足につながるという二つの条件が成り立たなければならない。
 ある女子社員が会社で早々に結婚相手を見つけ、寿退社を計画しているとしよう。このとき、キャリアを積むために人事から海外研修を命じられたり、重要なプロジェクトのメンバーに加えられたりすれば、この女子社員は当惑するだろう。研修やプロジェクトの途中で退社を願い出れば会社に迷惑がかかる。それならば、はじめから継続性のない単発的な仕事を任されていた方が気楽というものだろう。
 しかし、なかにはこうしたイメージに基づく扱いを嫌がる女性もいるはずである。自分は結婚しても会社を辞めず、仕事と家庭を両立できると心に決めている人たちだ。それなら彼女たちはイメージを崩そうと行動を起すだろうか。おそらく最初は起しにくいだろう。なぜなら、そうした女性たちはマイノリティと考えられるからだ。会社はマジョリティでイメージを形成するため、マイノリティの女性の主張には耳を傾けないだろう。
 状況が変わるのは、仕事と家庭を両立したいと考える女性が増え、マジョリティになってきたときである。こうなると、会社にとって女性=寿退社というイメージを前提とした人事は適切でなくなってくる。女性のキャリア形成を考慮した人事をする会社だけが優秀な女性を採用でき、業績を野原洋になるからである。
 こうして世間的なイメージは有効でなくなる。結局、イメージを崩せるかどうかは「……らしからぬ」行動をとる人がどのくらい増えるかに依存している。

 脚注
 (4) アメリカの経済学者L・サロー氏は、以下に述べるようなマジョリティからの
  ◆情報に基づく差別のことを「統計的差別」と呼んでいる。詳しくは、L・サロー
  『不平等を生み出すもの』(邦訳は同文館)を参照のこと。
---『これも経済学だ!』p.155−6---------------------------------------

---------------------------
†弱者は差別されているか
(…)
 弱者について議論するとき必ず登場するのが差別の問題である。世間一般では、人間が対等に扱われないことを差別というが、それは曖昧な定義である。なぜなら、どんな人でも対等に扱われることなどあり得ないからだ。男女、年齢、学歴、など、世の中では任ガンがさまざまな属性でクループ分けされている。そしていったんあるグループに属してしまうと他のグループには入れてもらえないことはよくある話だ。
 単なる区別が差別と認定されるには、区別する側がされる側に対して何らかの◆偏見を持っており、その偏見を満たすために利益を犠牲にしていなければならない。たとえば、従業員採用時における女性差別とは、◆本来ならば女性を雇った方が経営上望ましいにもかかわらず、雇用主があえて生産性の低い男性を雇うことで★快感を得ていることと定義される。この定義を提唱者でノーベル経済学賞受賞者のシカゴ大学G・ベッカー教授にちなんでベッカー型差別と呼んでおこう。
 このベッカー型差別は弱者にも当てはまるだろうか。(…)
-----前掲書p.158---------------
(ここでの「弱者」とは「社会的弱者」ということで、障害者、老人、などを指しています。)

こちらは、mscska氏のブログでの「選好による差別」に該当しそうですよね。
しかし、個人的にはなーんかヘンなんだよなー・・・
        ↓
ttp://macska.org/article/184#comments

関係ないけど
 ラクシュン  - 07/8/13(月) 22:05 -

引用なし
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   宮里藍の顔は、フィリーズの井口に似ている。

(訂正)
 ラクシュン  - 07/8/16(木) 21:02 -

引用なし
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   †世間的イメージが崩れるとき
社会にとってこのイメージを前提にして ×
会社にとってこのイメージを前提にして ○

女性のとってもそのような ×
女性にとってもそのような ○

業績を野原洋になるからである   ×
業績を伸ばすようになるからである ○

†弱者は差別されているか
世の中では任ガンがさまざまな属性で ×
世の中では人間がさまざまな属性で  ○


で、今頃になって(笑)

ttp://macska.org/article/184#comments
>「情報による差別」には、一般的に「偏見」と呼ばれる種の、まったく不合理な、しかし判断当事者にとっては主観的に合理的に思えるものが含まれます。例えば、特定の人種は無能だから雇わないという予断があったとして、その予断が間違いであれば(あるいは、統計的にその集団の能力が劣るというのが事実だったとしても、きちんと個別に選別するコストの方が、一律に雇わないことのコストより安ければ)、当人にとっては合理的な判断であっても、客観的には不合理です。

統計的根拠に基づく判断とされるはずの「情報による差別」が、「一般的に「偏見」と呼ばれる種の、まったく不合理な」って、しかも「統計的にその集団の能力が劣るというのが事実だったとしても」って、「情報による(or基づく)差別」=「統計的差別」について「後者は利害の点から見て合理的な選択ですらある。」って言ってるじゃない?
「偏見型差別の方は、その偏見がある程度の統計的事実を元にしている限りにおいて、企業にとって損害にはならないどころか有利にはたらく。」んでしょ??
またこれだと、「女」についての一般的情報(データ)から女全体を毛嫌いする経営者がどちらに分類されるのかハッキリしませんよね。男と外見的に違っているという意味での純粋な「女」という性的属性だけで雇用や昇進を判断する経営者など想像できませんから。
いるとすれば、女という「対象に対する嫌悪感などから側にいたくない(一緒に働きたくない、近所に住みたくない、ほか)という」、女という存在自体に一風変わった負のインセンティブを持った経営者でしかないでしょう。

#日本のこれから、に夜のシマネコBlogの赤木氏が出てましたね。

Re(2):例の
 ラクシュン  - 07/8/24(金) 22:12 -

引用なし
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   >>私はクオリア現出に<私>は必ずしも必要ないと思います。いや、茂木のいう
>>クオリアなら<私>を必要としないというべきでしょうか。

三浦さんの意見も聞いてきましたけど、Josefさんと同じでしたよ。

Re(3):例の
 Josef  - 07/8/25(土) 14:29 -

引用なし
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   > 三浦さんの意見も聞いてきましたけど、Josefさんと同じでしたよ。

三浦さんて誰?

Re(4):例の
 ラクシュン  - 07/8/25(土) 22:42 -

引用なし
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   例の「可能世界の哲学」でお馴染みのあの三浦俊彦さんです。

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