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あっちのブログから半ボーリョク的なかたちで締め出されてしまったので。w
ttp://macska.org/article/184#comments のmacskaさんのコメントでヒッカかる点を一通り書いておきます。
>>なので、「少なくとも<普通の男>とそれ以外の対象との間には優先順位が原理的に要請される」というのはそのとおりでしょう。なぜなら論理的には、ここでもほぼ「女性」限定の意味合いを持つ「セクシズム」が是正されるべき反倫理的な対象であり、「男性は集団としてセクシズムを受けないと考え」る人にとって、なおかつ「普通の男」が「権力構造の下部に位置付けられる事がない」ならば当然そうならざるを得ないからです。
>それは、セクシズムだけが取り上げるに足る重要な問題であるという前提がなければ成り立ちませんね。
それが何故重要なのかは知りませんが、フェミニズムにとっては、それ以上「重要な問題」は無いでしょう?
「セクシズム」と他の差別・抑圧は同型だと言いたいならそれは違うと思いますけど。
>>しかし、「「男性に対する抑圧」などというモノの存在を認めてい」ないなら、「性的マイノリティ(MTF等)」に対する「抑圧」も認めないのかな? 半分認めるのかな???
>バカすぎ。「男性」が男性であることを理由に抑圧されているとは考えない、それはわたしが抑圧という言葉をこのように定義するからだ、と説明しているわけですが、個別の男性が「男性」以外の側面(人種、国籍、障害、その他)で抑圧されることは当然あるでしょ。セクシズムが唯一の抑圧というわけではないのだから。
そういう意味(?)ね。「「性的マイノリティ(MTF等)」に対する「抑圧」」にも、「男性に対する抑圧」は含まれていない(認めない)、ということ。彼らにとって「抑圧」と言えるものはジェンダリズムか、若しくはマイノリティ差別=抑圧という前者とはまったく別範疇のものだ、と。 しかし、「個別の男性が」という説明ですが、MTFは「男性」なのですか? そして、「男性」なら「構造」による「抑圧」とは無縁であるが、ジェンダリズムの「抑圧」なら受けるのだ、ということ? しかしそれだと、FTMのカテゴリーには「男性に対する抑圧」を認めるということになりますけど?
そうではないとすれば、「性的マイノリティ」のカテゴリーのメンバーは、性に纏わるあらゆる「抑圧」とは無関係で、あるのはマイノリティ差別=「構造」による「抑圧」だけだ、とか?
>そもそも、「ジェンダリズムによって男性が抑圧を受ける場合がある」とわたしは書いているわけよ。それをちゃんと理解していれば、「『男性に対する抑圧』の存在を認めない」という記述を「男性はいかなる要素によっても全く抑圧を受けない」という解釈は明らかに間違っているわけ。つまり、そんな方向に解釈できる可能性はゼロ。それが分からないのであれば、頭が悪過ぎて話になりません。
ここは前段の再解釈?で問題ないでしょう。しかし「いかなる要素によっても」といっても、macskaさんの体系においては、「権力構造」の“抑圧”と「ジェンダリズム」の“抑圧”と二つの階層で同じ言葉が使われているのだから、「「性的マイノリティ(MTF等)」に対する「抑圧」も認めないのかな?」という疑問から「ジェンダリズム」の“抑圧”を私が見落としていると断定することはできないでしょう。
その辺が曖昧になっているから、前段のような疑問が出てくるのだから。
なので、「権力構造」とかという訳の解らないものを大前提にものを考える人にとって、「少なくとも<普通の男>とそれ以外の対象との間には優先順位が原理的に要請される」という私の主張は依然として有効です。
>わたしの書いたもののどこを読めばそういうバカげた解釈が可能なのか全く不明。
確認もしないまま独自の記憶と勝手な解釈で書きますが、たしか弱者か性的マイノイティとフェミニズムの「共闘」といった話でしたよね。しかし、「同性愛」といっても、私の現時点で解釈するmacskaさんの理論なら「男性」には構造による「抑圧の存在を認めない」のだから、まずホモがその中に入るとは考えられないでしょう。性同一性障害(?)のカテゴリーにも複雑な問題が絡んでくるような 気 が するんですけどね。
それらをマイノリティに対する「構造的抑圧」として一括するとしても、「女」はマジョリティでしょう。
macskaさんの頭の中の構造は…
>今の社会では、男性が「集団として」社会的・経済的・政治的権力構造の下部に位置付けられる事がないからです。
↓
>「男性は集団としてセクシズムを受けない」
↓
>「男性に対する抑圧」などというモノの存在を認めていません
ということのようですが、私は、多くの(?)人が「男性は集団としてセクシズムを受けないと考え」てしまう理由は、おそらく男をキャンバスにすることでしか「性差別」が描かれないからだと思います。キャンバス自体は描かれません。ここでは描かれることだけが「差別」になります。
しかし、私がフシギに思うことの1つは…
>ジェンダーの抑圧(ジェンダリズム)なら男でも女でも受けますが、(…)
とまで解っている人が、「男女間に権力構造上の上下関係が存在する」ことの理由(原因)について
>分かりません。 私に分かるのは、「ただ、そこにある」という現実だけです。
と、何故答えられるのかということ。
フェミニズムの都合により、生物学や進化論的な要因を全て除去するなら、誰がどー考えても、「ジェンダリズム」に原因があるとしか考えられないだろーと思うのですがぁ。
Josef
- 07/5/22(火) 21:36 -
>なので、「権力構造」とかという訳の解らないものを大前提にものを考える人にとって、「少なくとも<普通の男>とそれ以外の対象との間には優先順位が原理的に要請される」という私の主張は依然として有効です。
フェミニズムには順位みたいなものはあるでしょうね。それが「優先」順位となるのかどうかは分かりませんが。
たとえば「在日」の「女性」は二重に差別されている、というふうな言い方がよく為されます。この場合、「在日」の「男性」は一重の差別だから、同じ「在日」でも男女で抑圧の程度に差がある。よって、仮に、救済可能だけど救済は一括でなく一つずつしかできないとすれば、被差別の度合いの大きい「在日・女性」から、ということになるでしょう。(現実的設定じゃありませんが)
ラクシュン
- 07/5/26(土) 18:22 -
macskaさんにとってよほどマズかったのか? 理由もなくブログから削除されたコメントをこちらに移動しておきます。
ttp://macska.org/article/188#comments
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ラクシュン のコメント
2007/05/24 - 03:16:33 -
>果たして「子宮・乳腺摘出」と「両足切断」の違いはそれだけなのだろうか? すなわち、もし仮に痛みを伴わず、リスクを抑えたまま切断することが可能であれば、倫理委員会はそれを承認するのだろうか?
「成長停止」に「子宮・乳腺摘出」が不可欠な処置なのかどうかは専門知識がない私には解りませんが、もし不可欠なものであれば、「両足の切断」といった短絡的なものとは目的が異なるということで両者を同一視することはできないと思います。もしそうなら(両者の処置に本質的な違いがある以上)、「成長停止」の承認から“滑りやすい坂の論法”を地で行くような「両足の切断」が承認されることはあり得ないでしょう。
序に、細かいことまで言わせてもらえば、それが不可欠でない場合であっても、「子宮・乳腺摘出」と肢体の切除・切断との間には一定のひらきがあると思います。見える部分と見えない部分との違いです。macskaさんの論法では、臓器摘出より生まれつき機能しない手足の切除の方をためらっている人(本人)まで「生まれつきあるいは事故や病気の結果として手足のない人たちに対して」「偏見を持っている」人にされてしまいますが、実際はそうではないでしょう。
というか、全体を通して「法廷の許可を得ずに子宮摘出を行なったというプロセス」が批判されているのかそうではないのか私にはよく解りませんでした。そのせいもあってか、シンポジウムの参加者たちは「成長を抑止する」療法(そのようなものがあれば)そのものには肯定的なのかな?と思いましたけど。
>(…)また生まれつきあるいは事故や病気の結果として手足のない人たちに対していかに偏見を持っているかの反映ではないか。
こういうヒネくった書き方は、「両足」を切断しなかったことへの批判と間違われますよ。
「両足もいっしょに切除していれば一応納得してやろう」、と。しかしそれで批判が終わるわけがないし、それをしないための療法でしょう?
>しかし、アシュリーに比べてはるかに軽度な障害のある人たちも、頻繁に医療や人生における自己決定権を侵害されているのであり、アシュリー療法の先に待ち構えているかもしれないものは、かれら自身にとって極めて現実的な危機でもある。もちろん、軽度の障害を持つ人たちが重度障害者の代弁を一方的に買って出るのもどうかとは思うが、親だけによって代弁されるよりはさまざまな利害関係者が関わった方がよりマシであるようにわたしには思える。
「当人にとっての最善の選択」を「親の都合をアシュリーのQOLにすり替えるのは良くない」という指摘はアリだと思いますが、このエントリー全体としては「アシュリーにとっての最善の選択」の問題を自分たち(アシュリー療法の反対者たち)の都合の問題にすり替えているようにも思えます。その点で言えば、「「当人にとっての最善の選択」という基準を最優先した覚えはないと主張」しているDavid Woodrumは正直者だと思いました。
因みに、アシュリーが私自身だったとすれば安楽死もぜんぜんOKです。
そして実際には、これが多数派(障害者も含む)の本音だと思います。
>わたし自身にとっても、全てを「子どものため」と、まるで親自身のニーズとは全く無関係であるかのように成長停止や生殖器摘出を求める声を聞いて、
macskaさんや反対者の立場は、macskaさんや反対者「自身のニーズとは全く無関係」なのですか?
所詮は架空の代弁者ですよ。
>そうした親たちが、「子どもにとって最善」という偽善を掲げながらであっても、大勢の人の前で自分の苦しさを訴える場というのは非常に貴重だと思うのだけれど、
で今回の私の関心事は、真の「偽善」者はどこの誰?
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ttp://macska.org/article/189#comments
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ラクシュン のコメント
2007/05/25 - 03:11:40 -
>はっきり言って、これを読んだときは思い切り目を疑ったよ。倫理の博士号を持ち、障害者とその家族のための団体からボランティア活動を表彰されたこともあるほどの弁護士が、どうしてこうも障害者が法廷において自分の利害を代弁され、人権憲章と法に基づいた正当な判決を受ける権利に冷酷になれるのか。
いくらなんでも「目を疑ったよ」は大袈裟だと思います。
ところで、「体重が軽い方が介護が簡単であり、結果的により良い介護を受けられるようになる」というところですが、「子宮・乳腺摘出」はそのもの自体の重さによって切除されたのですか?
[後編]では、どう考えても常識的にありそうもない前提から、いかにもありそうにない結論を導いていたとしか思えないのですが、そのへんはどうなっているのですか?
いずれにしても、倫理的観点から排除されている「両足の切断」を「生まれつきあるいは事故や病気の結果として手足のない人たちに対」する「偏見」の「反映」というなら、macskaさんが身障者の立場に立てば喜んで「両足の切断」を受け入れる必要があるはずです。 しかしそれが「インターセックスの子どもの権利を守る法律家団体 Institute for Intersex Children and the Law(これも一応フルディスクロージャーしておくと、わたしはこの団体の理事をしている)の代表者」のmacskaさんですよ。
「目を疑」いたくなるのはこちらの方ですよ。
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ご迷惑ならこちらでも削除してくださいね。
ラクシュン
- 07/5/26(土) 18:57 -
<訂正>
[2007/05/24 - 03:16:33 - ]の、「「自身のニーズとは全く無関係」なのですか?」の「ニーズ」は、「利己心」に読み替えておいてください。
Josef
- 07/5/28(月) 18:30 -
ペットだったら大きくならないように「改造」し子供も産めなくする、というのは普通に行われていることで、その障害者版といったところでしょうか。吠える犬は吠えないように「改造」しちゃうので、「改造」度合いの低い、吠え、かつよく噛みつく日本犬は、飼う日本人もろとも非難の対象です。
昔、『「する」と「なる」の言語学』とかいう本がありました。「する」に傾いた社会では人間たちも操作対象と見る傾向が強い(=「する」の対象)のでしょう。どのように「する」かという、利害の異なる人々による操作間の対立だと思います。
>[・・・]「子宮・乳腺摘出」と肢体の切除・切断との間には一定のひらきがあると思います。見える部分と見えない部分との違いです。
いかに人間ぽさを保持するかということでしょうね。犬っぽさにあまり影響しない不妊手術ならするが、犬っぽさを無くす脚の切断はしないのと同じでしょう(ちょこまか歩く姿が可愛いので脚を短くする「改造」はするが)。
>所詮は架空の代弁者ですよ。
本人の意志が永遠に無い(ことになっている)以上は、それぞれが自分の立場からする「代弁」であることは免れませんね。その上で、私なら、子供の身体は大きくなろうとしている事実それ自体を当人の「意志」と見なしたいと思います。意図的に何かを「する」という意志ではなく、そう「なる」という、身体そのものが無言のうちに表現している「意志」です。
>いかに人間ぽさを保持するかということでしょうね。犬っぽさにあまり影響しない不妊手術ならするが、犬っぽさを無くす脚の切断はしないのと同じでしょう(ちょこまか歩く姿が可愛いので脚を短くする「改造」はするが)。
そうかなー。
「成長停止療法」には当てはまりそうですが、手足の切断はモノに対する発想で、生き物に対する態度ではないと思います。したがってこの選択肢は、私がアシュリーでも受け入れることはできません。
私がアシュリーなら、成長停止療法・安楽死は受け入れ<可能>です。しかし、「両足の切断」などは論外です。そこまでするなら安楽死です。
>その上で、私なら、子供の身体は大きくなろうとしている事実それ自体を当人の「意志」と見なしたいと思います。意図的に何かを「する」という意志ではなく、そう「なる」という、身体そのものが無言のうちに表現している「意志」です。
これは親の選択ですよね。そういう選択は当然あるでしょう。
Josef
- 07/5/29(火) 21:55 -
>手足の切断はモノに対する発想で、生き物に対する態度ではないと思います。
だからそれが「人間ぽさ」ということだと思いますが。何が許容でき、何が許容できないかという線引きに、その人、その社会の「人間」に対する考え方が現れると思います。
>>その上で、私なら、子供の身体は大きくなろうとしている事実それ自体を当人の「意志」と見なしたいと思います。意図的に何かを「する」という意志ではなく、そう「なる」という、身体そのものが無言のうちに表現している「意志」です。
>これは親の選択ですよね。そういう選択は当然あるでしょう。
親の選択ではなく、私の、社会に対する倫理的要請です。
親が子の成長抑制医療を求めても社会はそれを認めるべきではないということです。
>私がアシュリーなら、成長停止療法・安楽死は受け入れ<可能>です。
アシュリーには自分の意志というものが無いのだから「私がアシュリーなら」という想定は無意味でしょう。
>親の選択ではなく、私の、社会に対する倫理的要請です。
親が子の成長抑制医療を求めても社会はそれを認めるべきではないということです。
考えが浅いのかも知れませんが、私はそこまでは思いません。
>アシュリーには自分の意志というものが無いのだから「私がアシュリーなら」という想定は無意味でしょう。
だから、そのことは解った上での話です。
後はすべて親に任せます。
バジル二世
- 07/5/30(水) 22:18 -
ここで私は議論していろんなものを踏み荒す危険を冒したくはないのですが、1点だけ。
>>手足の切断はモノに対する発想で、生き物に対する態度ではないと思います。
>
>だからそれが「人間ぽさ」ということだと思いますが。何が許容でき、何が許容できないかという線引きに、その人、その社会の「人間」に対する考え方が現れると思います。
「利己心」という論点がありましたが、「ない」などとはこの両親の自己判断ですらすることできないように思います。いわんや外見から判断する他人ならなおさら。それは仕方がありません。両親がしなければならない介護の問題がつきまとうからです。
しかし「利害の異なる人々による操作間の対立」(Josefさん)に過ぎないのですよね。だから論点は、「利己心」があったにしても、子供の楽しみを増やし苦しみを減じる(両親のブログを参照)というQOLの目的に処置が沿ったものであるかということが中心になるかと思います。
芥屋@keya1984
- 07/5/30(水) 23:24 -
んーと、論点は…
「このような本人の同意無しの医療行為を施してよいかどうかは、裁判所での認否を通してからである」
↑という原則があるようなのですが、今回はその法手続きを踏まなかったことの是非が争われているわけですよね。そこで、
1.両親側(およびその弁護士)の「これこれの理由で裁判所での許可は不要」との主張は認められるかどうか。
そして、「そのような主張が認められるなら、知的障害者(ことに乳幼児)への、本人の同意無しの身体改造的手術や不妊処置が拡大しないか」という懸念が論じられている。ですので
2.両親側(およびその弁護士)の「これこれの理由でその懸念は無用」との主張は当を得ているかどうか。
…これが論点だと思います。
バジル二世
- 07/5/31(木) 19:51 -
>芥屋@keya1984さん:
>…これが論点だと思います。
えーと、おっしゃるとおりだと思います。利己心第一に人体改造されたんじゃたまりませんからね。論点整理ありがとうございます。
…というわけで「利己心」について素朴な疑問点。
↓両親の言葉を引用した個所(ラクシュンさんが批判する発言者のブログより)。
ttp://macska.org/article/188
………………………………………………………………………………………………………………………………
アシュリーの両親は、他にもこう書いている:「アシュリー療法についてよくある根本的な誤解は、これが親の利便のために実施されたというものだ。そうではなく、 本当の目的はアシュリーのQOLを向上させることである。」 もちろんかれらはアシュリーのQOLを向上させることに重大な関心を抱いているのは確かだろうが、介護者である親の負担を軽減する目的は全く無かったとまで言い切る のはあまりに非現実的だ。こうした極端な「利己心のなさ」は、自分の子どもに対する「アシュリー療法」を求めている親の発言に繰り返し見られるパターンであり、それは社会が親たちーー特に母親ーーに要求する、完全に利己心のない、献身的な(母)親という非現実的な理想像あるいは神話の反映であると Dreger は指摘する。特に重度障害児を生んだ母親は、「お前は妊娠中にアルコールや煙草や麻薬を使用したのではないか、胎児の健康を損なったのではないか、全てはお前の責任だ」という世間の厳しい視線に晒されることで、なおさら「利己心のなさ」をアピールしなければいけないという強迫状態に囚われているのではないか。 Dreger は、介護者/親にも妥当なニーズがあることをきちんと直視して、「子どものため」という口実の裏にあるかれら自身の利己的な利害をきちんと表に出した方が良いのではないかと提案する。
………………………………………………………………………………………………………………………………
ここで両親の書いた原文は
ttp://ashleytreatment.spaces.live.com/
………………………………………………………………………………………………………………………………
A fundamental and universal misconception about the treatment is that it is intended to convenience the caregiver; rather, the central purpose is to improve Ashley’s quality of life.
………………………………………………………………………………………………………………………………
この「rather」は「そうではなく」と訳していますが、この場合、「それよりはむしろ」と訳したほうがよいように思うのですが。なぜなら、あることの「purpose(目的)」というものは複数であることがあり、だからこそ「central purpose」というそれ以外の目的があるのを前提とした表現を用いているのではないかと思うのです。本当にこの両親が、「介護者である親の負担を軽減する目的は全くなかったとまで言い切」っていると断言してよいのかと思うのです。なぜそのように訳すのでしょうかね。
Josefさんが詳しそう…。
Josef
- 07/5/31(木) 20:43 -
………………………………………………………………………………
A fundamental and universal misconception about the treatment is that it is intended to convenience the caregiver; rather, the central purpose is to improve Ashley’s quality of life.
………………………………………………………………………………
>この「rather」は「そうではなく」と訳していますが、この場合、「それよりはむしろ」と訳したほうがよいように思うのですが。
全然詳しくありませんが、ここは「それどころか反対に」でしょう。「親のため」と「子のため」という逆方向のベクトルが"rather"で示されています。
>本当にこの両親が、「介護者である親の負担を軽減する目的は全くなかったとまで言い切」っていると断言してよいのかと思うのです。
それはそうですね。ただ、"the central purpose"が上の通りだというのであれば、「親のため」もまた「子のため」という中心目的に収斂していく(あるいは中心目的に発する)、という論理になりそうです。
>それはそうですね。ただ、"the central purpose"が上の通りだというのであれば、「親のため」もまた「子のため」という中心目的に収斂していく(あるいは中心目的に発する)、という論理になりそうです。
それは、あらゆる「親のため」が最終的には「子のため」になるんだ、というならおかしいでしょうけど、「親のため」になるもののうち「子のため」にもなるのだと言えることはあるのではないですか。
ラクシュン
- 07/6/3(日) 16:58 -
ttp://macska.org/article/188#comments より
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(…)こうした極端な「利己心のなさ」は、自分の子どもに対する「アシュリー療法」を求めている親の発言に繰り返し見られるパターンであり、それは社会が親たちーー特に母親ーーに要求する、完全に利己心のない、献身的な(母)親という非現実的な理想像あるいは神話の反映であると Dreger は指摘する。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
「こうした極端な「利己心のなさ」」の強調は、「アシュリー療法」的なものに対する倫理的な批判に対応するものと考えるのが普通でしょう。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
特に重度障害児を生んだ母親は、「お前は妊娠中にアルコールや煙草や麻薬を使用したのではないか、胎児の健康を損なったのではないか、全てはお前の責任だ」という世間の厳しい視線に晒されることで、なおさら「利己心のなさ」をアピールしなければいけないという強迫状態に囚われているのではないか。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
なので、これはコジツケも甚だしいと思います。
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Dreger が言わんとするのは、親の利己的な都合によって「アシュリー療法」を正当化して良いという意味では★もちろんない。
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ほらね。
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ただ単に介護の辛さや将来への不安というだけでなく、Dreger が言ったように、かれらは世間の「そんな子どもを生むとは、あなたは一体妊娠中何をやったのだ?」という視線に日々晒されてきたのだろう。
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したがって、こんな意見は事実の捏造としか思えませんね。
というかそもそも、親に身に覚えがない場合は「アシュリー療法」が自動的に正当化されるわけではないのだから、母親(若しくは親)に対する世間の厳しい視線は、母親(若しくは親)が「利己心のなさ」を強調する動機にはならないでしょう。
その自己責任論に動機があるとすれば、「アシュリー療法」=非倫理、の価値観が前提になっている場合に限られると思います。
Josef
- 07/6/4(月) 20:10 -
バジル二世さん
>それは、あらゆる「親のため」が最終的には「子のため」になるんだ、というならおかしいでしょうけど、「親のため」になるもののうち「子のため」にもなるのだと言えることはあるのではないですか。
アシュリー療法に関して、その「意図」ないしは「目的」が「親の利便のため」なのか「子の幸福のため」なのか。一般にはきれいに分けられないことではあるけれど、前者だという批判があるので、あえて二つに分けて、「前者ではなく後者だ」と言ってるのがあの英文ですね。そのことを踏まえて賛同するなり批判するなりすればいいでしょう。
私は、親がそうだと言っている以上、その言葉を信じた上で反対したいと思います(心から信じるということではなく、信じるという形式をとる、ということです)。
ちなみにmacskaさんは親の言葉に疑念を抱く立場で、それはそれでいいのですが、Dregerという人を間接引用しながら「女性や母親への社会的抑圧」というお定まりのフェミ的指弾になってる部分があって、かこつけられるものは何でもかこつけてフェミ・イデオロギーに持っていくのかと嫌な気分になります。法的手続きや倫理委員会の問題についてはなるほどと思いますが。
>ラクシュンさん:
>ttp://macska.org/article/188#comments より
>::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
>(…)こうした極端な「利己心のなさ」は、自分の子どもに対する「アシュリー療法」を求めている親の発言に繰り返し見られるパターンであり、それは社会が親たちーー特に母親ーーに要求する、完全に利己心のない、献身的な(母)親という非現実的な理想像あるいは神話の反映であると Dreger は指摘する。
>::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
>
>「こうした極端な「利己心のなさ」」の強調は、「アシュリー療法」的なものに対する倫理的な批判に対応するものと考えるのが普通でしょう。
なるほどなぁ。「利己心」を見せようとはしないでしょうね。相手が「利己心」を見つけて糾弾しようとしてたら。理解の参考になります。
ただ私が疑いを提示した部分、macskaさんは両親が「親の負担を軽減する目的は全く無かったとまで言い切る」と言うけれど、前にURLを示したサイトで両親は「体重が軽い方が介護が簡単」という趣旨のことを書いていますよ。で、↓とも矛盾がある(上と同じmacskaさんページ)。
………………………………………………………………………………………………
Dreger はさらに、アシュリーの症例において成長停止が「体重が軽い方が介護が簡単であり、結果的により良い介護を受けられるようになる」として、そして子宮摘出が「どちらにしても彼女が自分の意志で性的関係を持つことはありえないから」として正当化されたことに対して、次のように問う。アシュリーが自分の意志で子どもを持とうとすることがないように、彼女が自分の足で歩くことだってありえないのだから、両足を切断してしまえば良いのではないか? そうすれば身体はより軽くなり、介護も楽になるのではないか、と。
………………………………………………………………………………………………
で、ここでさらに非良心的なのは、子宮摘出について、生理痛・サイクルをなくす(苦痛・不快感をなくす)という両親が書く本当の目的を書かないと、両親は成長停止と同じく体重を軽くする目的だったと読めてしまう。この後に「両親や医者の論理を徹底させれば、両足の切断こそが「当人にとって最善の選択」となってしまうかもしれない」はひどいよなあ。体重を軽くするには成長停止で十分足り、足を切る必要はありません。こういうのを称して詐術というのですね。それをラクシュンさんは指摘しているのですね。
バジル二世
- 07/6/5(火) 12:15 -
意図が分かりにくいと思いますので。
>ただ私が疑いを提示した部分、macskaさんは両親が「親の負担を軽減する目的は全く無かったとまで言い切る」と言うけれど、前にURLを示したサイトで両親は「体重が軽い方が介護が簡単」という趣旨のことを書いていますよ。で、↓とも矛盾がある(上と同じmacskaさんページ)。
つまり純粋なまでの「極端な利己心のなさ」の強調があるんだという証拠を見せたくて、片言隻句をとらえただけです。そんなことを言い切ったとまで言える「事実」はありません。
ラクシュン
- 07/6/5(火) 20:57 -
>バジル二世さん
>で、ここでさらに非良心的なのは、子宮摘出について、生理痛・サイクルをなくす(苦痛・不快感をなくす)という両親が書く本当の目的を書かないと、両親は成長停止と同じく体重を軽くする目的だったと読めてしまう。
両親が、子宮摘出について「生理痛・サイクルをなくす」などの具体的な目的を書いているとすればそれは知りませんでした。私はmacskaさんとDregerの論理にはかなりの飛躍がありそうでそこにヒッかかりました。
>体重を軽くするには成長停止で十分足り、足を切る必要はありません。こういうのを称して詐術というのですね。それをラクシュンさんは指摘しているのですね。
そうですよ。
>Josefさん:
>アシュリー療法に関して、その「意図」ないしは「目的」が「親の利便のため」なのか「子の幸福のため」なのか。一般にはきれいに分けられないことではあるけれど、前者だという批判があるので、あえて二つに分けて、「前者ではなく後者だ」と言ってるのがあの英文ですね。そのことを踏まえて賛同するなり批判するなりすればいいでしょう。
私はむしろ賛同する気持ちが強いのですが、責任を持っては何も言えません。法制度のことも知らなければ、障害者を取り巻く状況も知っているわけではありません。
とりあえず分かりそうなところだけ(それも本当にかどうかは分かりません)クチバシを容れているだけなのですが、自分を省みるに、「利己心」なんて分かってない言葉を、鵜呑みにして使ってしまっていますね。そういうところが、駄目だと痛感しています。
>ラクシュンさん:
>両親が、子宮摘出について「生理痛・サイクルをなくす」などの具体的な目的を書いているとすればそれは知りませんでした。
何か英語ばかりなんですが、訳すのも面倒だし省略する脳もないんで、そのままで失礼します。ttp://ashleytreatment.spaces.live.com/の詳しく書いた部分です。
……………………………………………………………………………………………………
Avoiding Menstrual Discomfort through a Hysterectomy
The Hysterectomy involved removing Ashley’s uterus but keeping her ovaries to maintain her hormonal cycle and the generation of her natural hormones. Ashley has no need for her uterus since she will not be bearing children. Hysterectomy prevents the discomfort, pain, cramps and bleeding that are so commonly associated with the menstrual cycle. Many emails we received testify to how painful these symptoms are due to the cramping of the uterus and how hard they are on Pillow Angels.
Additional and incidental benefits to hysterectomy include avoiding any possibility of pregnancy, which to our astonishment does occur to disabled women who are abused. The hysterectomy also eliminates the possibility of uterine cancer and other common and often painful complications that cause women later in life to undergo the procedure.
……………………………………………………………………………………………………
>私はmacskaさんとDregerの論理にはかなりの飛躍がありそうでそこにヒッかかりました。
私が子宮摘出の目的が何なのか、読む上で注意したのは、ラクシュンさんのレスがきっかけです。
「親の負担軽減の目的」=「利己心」というmacskaさんの言い換えを受け入れてしまったことで自己嫌悪モード。レス不要です。
バジル二世
- 07/6/6(水) 11:16 -
「生理痛・サイクルをなくす」→「生理痛をなくす」
>The Hysterectomy involved removing Ashley’s uterus but keeping her ovaries to maintain her hormonal cycle and the generation of her natural hormones. (子宮摘出手術は、アシュリーの子宮を除去し、ホルモンサイクルと自然なホルモンの生成を維持するために卵巣は残した)
Josef
- 07/6/13(水) 18:59 -
バジル二世さん
>私はむしろ賛同する気持ちが強いのですが、責任を持っては何も言えません。
バジル二世さんは心情的に賛成なんですね。私はどっちかというと自然派なので、それなしには死に至るとか大きな苦痛があるとかいう場合を除いて、身体を改変することには強い抵抗があります。もちろん当人が自分の意志でやるのは勝手ですが(でもそれも私は好きではないので身近な人なら反対します)。
日本人は私のような感覚が多数派かと思ってましたが(したがってアシュリーちゃんのような問題が日本で起こることは日本人の質が変わってしまわない限り無いだろうと思っていましたが)、そうでもないのかもしれませんね。
ラクシュン
- 07/6/21(木) 20:37 -
[社会運動におけるネット利用と「運動マニュアル」]
ttp://macska.org/article/190#comments (macskaブログより)
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
(…)第一、バックラッシュの側だって最近の歴史修正主義とかジェンダーフリーバッシングとかは旗を振る連中がバカばかりでまだ助かったけど(…)
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
なんか、鼻クソが鼻クソを見下してる印象。(笑)
_(_ _)ノ彡☆ばんばん!
ラクシュン
- 07/7/15(日) 20:29 -
遅れましたがぁ…
ttp://macska.org/article/192#comments
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
ラクシュン のコメント
2007/07/08 - 03:48:01 -
>だから、ラディカルフェミニストが実際に何と言っているかを読みもせずに、「自分を『女』として自認している」と決めつけるのはおかしい、とわたしは言っているのですが。
何に拘っているのか私にはよく解りませんが、Bresnahanというラディカルフェミニストの文章など読まなくても、「トランスジェンダーはレズビアンと違って保守勢力の保護を受けている」としてFTMやMTFを排除しようとする人に、「女」の自認がないはずがないということは自然な推測の範疇内ではないのでしょうか。サードジェンダーなどの可能性を視野に入れているとしても、それでは逆にラディカルフェミの「定義」によってフェミニストとは言えなくなってしまいます。
>もしかしてラクシュンさんは、オカマとは男性同性愛者のことだと思ってるのかな。
「オカマ」が同性愛的な意味合いではないとすれば、「そういった人たちはオカマとしてジェンダー制度と闘うべきであり、」までは理解できても、「「女性」という抑圧的なカテゴリに適応すべきではない」、の意味が不明です。そんなことするはずないでしょう。
>構築から脱却することは無条件に素晴らしい、というのはラクシュンさんオリジナルの思想ですか? ここまで何も知らず理解していないことに自信をもって発言できるというのも、珍しいですね。
べつにオリジナルと言えるほどの代物ではなくて(笑)ラディカルフェミニズム的構築主義が、セックス/性自認(ジェンダー・アイデンティティ)/性役割(ジェンダー・ロール)の対応関係の無根拠性を主張する思想なら、FTMを「排除」(or敵視)する理由がないと思うのです。まぁ、現在のこの男女の役割パターンから、あの役割パターン(役割付けの無化?)への社会的移行を目的としている場合には邪魔な存在にはなるのでしょうが、「構築」されたものには根拠がないなら、”あの役割パターン”にしたって根拠なんてなくなるわけでしょう? またこの立場は、セックス・性自認の一致(対応関係)を自明の前提とする立場でしかありませんよね。性別が「女」(性自認=女)のままで任意のアル役割を担いたい女の集団でしかないのだから。
そして、(それがどんなものであれ)”あの役割パターン”が社会的に浸透したとしても、男女の役割に統計学的有意差が見出されれば、「うーん、まだまだジェンダーの「構築」は根絶されていない!」と判断するのがラディカルフェミということなんでしょうね。こうなると、生物学的嗜好まで許されなくなりそうな雰囲気ですね。だとすればこの思想は、当然のこととしてセクシュアル・オリエンテーションにまで拡張されてしまいます。
しかしどうなんですかね、「構築」とか何とか言ったって中身は単なるセパレーショニズムに過ぎないじゃないですか。セクシュアリティを基準にして他カテゴリーを排除し合う思想なら、「保守勢力」(普通の男)に対する批判に説得力までなくなりそうな気がします。
であと気になることといえば、生物学的性別である「女」の中のごくごく一部の中の一部に過ぎないと思われるラディカルフェミニストは、性に基づく役割付けそのものを根底から無くしたがっているように見えるのに対して、MTF・FTMの多く(および、どうも生物学的性別である「女」の大多数)の人はそれには否定的な印象を受けています。私はこの両者のズレor対立(フェミがMTF・FTMを排除したがることも含む)は、<セックス>と<性自認(ジェンダー・アイデンティティ)>が一致していない人たちの研究(≒マネー理論)から、<性自認>と<性役割(ジェンダー・ロール)>の独立性を捏造していることの証左ではないのか、ということです。
まだよく確認はしていませんが、とりあえずこう考えると、なんとなく、もしかすると「ラディカルフェミニズム・レズビアンフェミニズムの立場に立つ人がどういう論理でトランスジェンダーを否定するのか」というmacskaさんの疑問も解けそうな、気が、してきませんかぁ?
もちろん、絶対に解けるという保証はありませんけど。
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勢いで書いたのですが、フェアにやりたいので…気になる所があれば何でも書いてください。
ラクシュン
- 07/7/15(日) 20:41 -
<補足>
「捏造している」のはラディカルフェミor一部のフェミ。
用語解説については、↓にあたってください。
ttp://homepage2.nifty.com/mtforum/term.htm
んまぁ、結果的には再び書き込み禁止になったわけですがぁ。
#「秘密主義」ならぬ<排除主義>的ブログ主に手によって…。