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相変わらずで嫌になるというかぁ 楽俊 06/11/30(木) 23:56
  Re(1):相変わらずで嫌になるというかぁ バジル二世 06/12/1(金) 10:54
  Re(2):相変わらずで嫌になるというかぁ 楽俊 06/12/3(日) 21:57
   Re(3):相変わらずで嫌になるというかぁ バジル二世 06/12/5(火) 15:28
  Re(1):相変わらずで嫌になるというかぁ 芥屋 06/12/2(土) 11:40
  Re(1):相変わらずで嫌になるというかぁ macska 06/12/23(土) 14:11
   Re(2):相変わらずで嫌になるというかぁ Josef 06/12/23(土) 19:25
   Re(3):相変わらずで嫌になるというかぁ 芥屋 06/12/30(土) 0:09
    Re(4):相変わらずで嫌になるというかぁ macska 07/1/6(土) 23:21
   Re(2):相変わらずで嫌になるというかぁ 純子 07/1/4(木) 2:42
   Re(3):相変わらずで嫌になるというかぁ Josef 07/1/4(木) 14:00
   Re(4):相変わらずで嫌になるというかぁ バジル二世 07/1/7(日) 16:36
    Re(5):相変わらずで嫌になるというかぁ macska 07/1/10(水) 18:01
    Re(6):相変わらずで嫌になるというかぁ バジル二世 07/1/11(木) 14:49
    Re(6):補足―相変わらずで嫌になるというかぁ バジル二世 07/1/12(金) 15:16
   Re(3):相変わらずで嫌になるというかぁ macska 07/1/6(土) 23:33
   Re(4):相変わらずで嫌になるというかぁ 純子 07/1/7(日) 17:25
   Re(5):相変わらずで嫌になるというかぁ Josef 07/1/7(日) 18:25
   Re(5):相変わらずで嫌になるというかぁ 芥屋 07/1/7(日) 18:54
   Re(6):相変わらずで嫌になるというかぁ gaji 07/1/10(水) 12:35
   Re(6):相変わらずで嫌になるというかぁ macska 07/1/10(水) 18:00
   Re(7):相変わらずで嫌になるというかぁ 純子 07/1/11(木) 13:06
   Re(6):相変わらずで嫌になるというかぁ 純子 07/1/11(木) 9:05
   Re(5):相変わらずで嫌になるというかぁ macska 07/1/10(水) 17:38
   Re(6):相変わらずで嫌になるというかぁ 純子 07/1/11(木) 10:59
   Re(7):相変わらずで嫌になるというかぁ macska 07/1/11(木) 13:00
   Re(8):相変わらずで嫌になるというかぁ Josef 07/1/11(木) 22:31
   Re(9):相変わらずで嫌になるというかぁ macska 07/1/12(金) 0:02
    Re(10):相変わらずで嫌になるというかぁ Josef 07/1/12(金) 23:14
   Re(8):相変わらずで嫌になるというかぁ 純子 07/1/12(金) 12:21
   Re(9):相変わらずで嫌になるというかぁ macska 07/1/12(金) 19:35
   Re(10):相変わらずで嫌になるというかぁ 純子 07/1/14(日) 9:41

相変わらずで嫌になるというかぁ
 楽俊  - 06/11/30(木) 23:56 -

引用なし
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   >アファーマティヴアクションについては既に述べている通り、実質的に平等な競争を実現するために、過去や現在の差別によって不利な境遇に立たされた人にリードを与えるというもの。
http://macska.org/article/160#comments

前から疑問に思っているんだけど、この「実質的平等」とその対義語と思われる「形式的平等」との区別の定義はどうなっているんでしょうかね。
私の勝手な思い込みから言えば、言ってる本人もその区別が解っていないと思うんですけど。

#ところでmacskaさん、私はまだ書き込み禁止状態なのですか? あれからテスト送信もしてないけど(まぁいいけど)。
#あと偶然の一致というか、私がkeyaブログで私が書いた“田中さん”というのは、macskaブログの田中さんとは別人でしょうね。

Re(1):相変わらずで嫌になるというかぁ
 バジル二世  - 06/12/1(金) 10:54 -

引用なし
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   >keyaブログで私が書いた“田中さん”

え? 駒大の投手(だった人)あたりかな〜と思ってました。スポーツ知らなさすぎかも、私。

Re(1):相変わらずで嫌になるというかぁ
 芥屋  - 06/12/2(土) 11:40 -

引用なし
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   *ここんとこ、掲示板もブログもお留守になっておりますが、またぞろ古代史探求にドップリとはまっております。

*スパムがウザイのでプロキシ規制しますた。

>楽俊さん:
>前から疑問に思っているんだけど、この「実質的平等」とその対義語と思われる「形式的平等」との区別の定義はどうなっているんでしょうかね。

ごく普通に考えて、その制度が「実のある平等」なのか「形だけの(名ばかりの)平等」かということですから、それは主観の問題でしょう。ある人から見れば「既に実が伴っている」と見えても、他の人から見れば「いや、名ばかりです。形だけですよ」と見えることがある場合、お互いの主観の突き合せをやっていくしかないわけです。

>私の勝手な思い込みから言えば、言ってる本人もその区別が解っていないと思うんですけど。

いやぁ、それはちょっと違うでしょう。ある制度について「ここで謳われている平等は名ばかりのこと」と訴える以上、訴える本人の主観の中では区別がついているわけです。これは「既に実が伴っているではないか」とか「そんなことしたら逆に不平等になってしまうではないか」として反論する側についても同じで、自分の主観の中では区別がついているのと同じです。

問題がこじれるというか堂々巡りになる場合は、訴える側が自分の主観を客観と思い込んだり、訴えを斥ける側が自分の主観を客観と思い込んだりするときでしょうね。自分の側こそ客観的であって相手は主観的な思い込みに過ぎない…として一方的に同じことしか言えない場合、その人には主観と客観の区別がついていないのだと思います。

Re(2):相変わらずで嫌になるというかぁ
 楽俊  - 06/12/3(日) 21:57 -

引用なし
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   とりあえず

>え? 駒大の投手(だった人)あたりかな〜と思ってました。スポーツ知らなさすぎかも、私。
http://8044.teacup.com/miurat/bbs
芥屋さんのブログの下にあるリンク元の「ラクシュン 哲学」のところをなにげなくクリックすると、上記の掲示板がトップに出てたので、一言触れておきました。(^^ゞ

Re(3):相変わらずで嫌になるというかぁ
 バジル二世  - 06/12/5(火) 15:28 -

引用なし
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   >芥屋さんのブログの下にあるリンク元の「ラクシュン 哲学」のところをなにげなくクリックすると、上記の掲示板がトップに出てたので、一言触れておきました。(^^ゞ

「?」だったので腑に落ちてすっきりした気分です。年末で、ここしばらく書き込めそうにないくらい忙しくなっておりますので、とりあえずお礼まで。

Re(1):相変わらずで嫌になるというかぁ
 macska  - 06/12/23(土) 14:11 -

引用なし
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   こんにちはです。

少し前まで講演旅行で忙してこちらの掲示板にはお久しぶりです。
少し前の書き込みですが、質問がったのでお応えします。

> 前から疑問に思っているんだけど、この「実質的平等」とその対義
> 語と思われる「形式的平等」との区別の定義はどうなっているんで
> しょうかね。

現実社会においてどういう状態が真の「平等」なのかという問題は非常に難しいですが、概念としての「形式的平等」と「実質的平等」の区別なら明快ですよ。

「形式的平等」というのは、同じルールがすべての人に適用されることをいいます。それだけ。

しかし、同じルールがすべての人に適用されるというだけでは済まない場合がある。第一に、そのルールそのものが特定の人たちに有利にできている場合。たとえば「誰でも任意の異性と同意の上で結婚できる」というルールは、異性愛者には都合が良いですがその他の人にとっては不利です。つまり、同じルールが適用されるという意味では形式的に平等かもしれないけれど、実質的には平等ではない。これくらい単純な例だとさすがにそれは差別的だとすぐ分かりますが、一見平等に見えるルールが実は特定の人を優遇する結果になることはよくあります。

第二に、仮にあるひとつの競争においてルールが内容・適用ともに公平であったとしても、社会のほかの部分で格差があり、それによる有利・不利が競争に影響を与える場合。たとえば同じ100メートル走という競技であっても、しっかりした指導やトレーニング施設や栄養管理を与えられた人とそうでない人では、仮にもともとの本人の資質や努力が同じであったとしても大きな差がついてしまう。短距離走ならそれで済むけれども、進学や就職にもこうしたパターンがあって特定の人種や性別や社会階層の人が不利になるとしたら深刻な問題となりかねない。

そういう場合に、「形式的平等」では不十分な部分を是正するために主張されるのが、「実質的平等」なわけですね。

しかし、こんな部分から説明しないと伝わらないとは驚いた。
「形式的か実質的かなんて主観の問題」はないよなぁ…

> #ところでmacskaさん、私はまだ書き込み禁止状態なのですか?

ええと、しばらく時間もたったことですし、書き込みたければどうぞ。
書き込みがすぐには掲載されないようになっていますが、問題がなければできるだけ早く承認します。

Re(2):相変わらずで嫌になるというかぁ
 Josef  - 06/12/23(土) 19:25 -

引用なし
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   >「形式的か実質的かなんて主観の問題」はないよなぁ…

これはすれ違いですね。
というのも、「主観」というのはmacskaさんが「どういう状態が真の『平等』なのかという問題は非常に難しい」という水準で言われた言葉だからです。

ここに形式的に平等なルールがある。しかしそれが形式<だけ>の平等にすぎないのかどうか、つまり実質的に平等な状態を作り出すor作り出していると言えるかどうかは簡単ではなく、「実質とは何ぞや」という議論を含めて、意見はしばしば分かれる。この水準で「主観」という言葉が使われているのです。

Re(3):相変わらずで嫌になるというかぁ
 芥屋  - 06/12/30(土) 0:09 -

引用なし
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   >macskaさん:

返事が遅れました(忘年会続きで…)

>「形式的か実質的かなんて主観の問題」はないよなぁ…

そう言われたように感じたんですか。でもそれはニュアンスが違うなぁ。macskaさんとtpknさんによるセクハラのレクチャーと同じような意味で私は言ったのですが。

「それがセクハラであるかどうか、まずは訴える側の主観が大事」「それが客観的に見て本当にセクハラかどうかの確認も必要」というのは、「だって本人が嫌がってもいないのに、誰かが勝手に(客観的に)セクハラだと言えるわけないでしょ?」「本人の主観が大事だというのは訴えやすくするためのものでもあって、かといって訴えたら何でも主観どおりに認められるというわけでもないのも当然」ですよね。それを「セクハラとして成立するかどうかなんて主観の問題」とは言わないし、そのように言うのは誤りでしょう。

形式ばかりの平等だ…というのも、実際にはこのように不平等なんだと訴える側の主観抜きに、勝手に第三者が「客観的に」言えるようなことではありませんよね。逆に「いいや、既に平等じゃないか」という反論だって同じことだ…と私は書いたわけです。その一例としてmacskaさんが挙げた同性婚を取り上げましょう。macskaさんが挙げた二例のうち、「これくらい単純な例だとさすがにそれは差別的だとすぐ分かります」とした婚姻についてです。macskaさんは

>「誰でも任意の異性と同意の上で結婚できる」というルールは、異性愛者には都合が良いですがその他の人にとっては不利です。

としますが、そもそも「誰でも任意の異性と同意の上で結婚できる」という言い方はしないのではありませんか?この表現はあらかじめ「異性愛者には云々」という結論を内包した言い方であって、そのようなルール認識ではないはずです。

普通は「男女は誰でも任意の相手と正式に結婚できるべきだ」ということを言うはずです。なぜなら「結婚」とは、男女が正式に夫婦になることだから。

したがって、「正式でなくて良いではないか(正式な夫婦という発想をやめてはどうか)」という婚姻制度廃止論がある一方で、「男どうし、女どうしでも正式に夫婦になれて良いではないか」が出てくるわけです。つまり、そうなると婚姻という概念そのものに変更を要求する主張なのですから(ここでは婚姻制度廃止論や同性婚論の是非は問いませんが)、これは「そのルールで謳われている平等が、実際には形式的なものにすぎない」という例としては不適切です。現在の「婚姻の平等(というか自由恋愛婚の公認)」が謳っているルールについて、同性愛がそのルールの範疇外であるのは当たり前であって、形式的か実質的かという問題ではありません。

「ある男女が、ただ恋仲なのではなく、同棲しているだけなのでもなく、正式な夫婦の仲である」が婚姻なのですから、「男女のカップル以外の全てのカップルに、正式な夫婦になれるように改めるべき」という主張は、結局のところ「男どうし、女どうしでも夫婦と言えるか」ということになるのであって、Josefさんが言うように、

>>「実質とは何ぞや」という議論を含めて、意見はしばしば分かれる。この水準で「主観」という言葉が使われているのです。

ということなんですよ。

Re(2):相変わらずで嫌になるというかぁ
 純子  - 07/1/4(木) 2:42 -

引用なし
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   芥屋さん、macskaさん、josefさん、バジル二世さん

みなさま、あけましておめでとうございます(^^)。

>macskaさん:

>「形式的か実質的かなんて主観の問題」はないよなぁ…

「形式的平等」と「実質的平等」の定義は、macskaさんの定義でも、いいのですが、その境界線をどこに置くのかは、主観によってズレますよ。

「たがいに非婚の男女は、お互いが近親者でなければ、当事者双方の同意で、任意に結婚してもよい」も「非婚の人間は、お互いが近親者でなければ、当事者双方の同意で、任意に結婚してもよい」も同じルールがすべての人に適用されているから、macskaさんの定義でいけば、どちらも「形式的な平等」です

つまり、こういうことですね。形式的平等を批判して、実質的な平等をめざしある制度を改革したとします。すると、改革してできあがった制度とは一つの「形式」だから、その制度によって実現した「平等」は、新たな「形式的平等」になってしまう。すると、その制度によって解決できない新たな「実質的な差別」が生まれ、それを解決するために、新たな「実質的平等」がめざされる。

執着点なし、どうどうめぐりで、どこまでいっても終わらない(^^)

この場合、「差別」と「形式的平等」と「実質的平等」の境界線を決めているのは、その社会に公認されているコンセンサスでしょう。

ただコンセンサスはその社会に属する人々のコンセンス(良心)の総和だから、個人の良心の自由を認める限り、個々の人間で、その境界線はズレるし、だからこそ保守派と革新派の間で、さかんに議論になったりもするわけです。
議論にならないのは、一部の権力者の良心が社会の全メンバーに強制されている専政的な社会だけでしょう。(^^)

Re(3):相変わらずで嫌になるというかぁ
 Josef  - 07/1/4(木) 14:00 -

引用なし
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   皆様、あけましておめでとうございます。

>執着点なし、どうどうめぐりで、どこまでいっても終わらない(^^)

そう。そして終わる必要はないのでしょう。
制度に完成はない。完成形態から出発して思考と改革を始めるのが急進左翼そして全体主義ではないでしょうか。「ジェンダーフリー」でも「美しい国」でも、終着点が措定され、そこから逆算して現状を否定し改革を始めればいとも簡単に全体主義になります。人間理性への信頼は常に人間理性への懐疑を伴っていなければならないと思います。人間の思考は生身の人間を追い越すことはできないのですね。

Re(4):相変わらずで嫌になるというかぁ
 macska  - 07/1/6(土) 23:21 -

引用なし
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   > なぜなら「結婚」とは、男女が正式に夫婦になることだから。

はい、だからそのように、定義の段階で不平等な扱いを「当たり前」とするような制度が法的にある場合、それは実質的に不平等であると言うわけです。

もし「結婚」の定義が「男女が正式に夫婦になること」であってそれ以外に変化しようがないのであれば、そんなものは法的な制度として認めるべきではありません(私的あるいは文化的な儀式として祝うのは、もちろん自由です)。

仮に、これが「実質的に不平等」な例ではないとした場合、次の例を考えてください。仮に、日本の法律において「結婚」「婚姻」が廃止され、その代わりに「同性婚」だけが法的に認められた制度となったとします。これは実質的に「結婚」と同じものだけれど、同性どうしのカップルにしか認められないとします。そうなった場合、異性愛者のうちのどれだけが「これもまた不平等とは言えない」と受け入れることができるでしょうか? そうなった時「しかし同性婚というのは定義上同性どうしのカップルだけに成り立つものだから、異性愛がそのルールの範疇外であるのは当たり前」と言う人が、はたしてどれだけいるでしょうか。

Re(3):相変わらずで嫌になるというかぁ
 macska  - 07/1/6(土) 23:33 -

引用なし
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   > つまり、こういうことですね。形式的平等を批判して、実質的な
> 平等をめざしある制度を改革したとします。すると、改革してで
> きあがった制度とは一つの「形式」だから、その制度によって実
> 現した「平等」は、新たな「形式的平等」になってしまう。する
> と、その制度によって解決できない新たな「実質的な差別」が生
> まれ、それを解決するために、新たな「実質的平等」がめざされる。

それは、そうなるかもしれませんし、新たな「実質的な差別」が妥当な区別だと社会全体によって(それによって不利な扱いを受ける人にも)受け入れられて問題とされないかもしれません。同性婚の問題であれば、例えば「なんで1対1のパートナーシップだけが特別な扱いを受けるのだ」とか「なんで恋愛・性愛関係だけが特別な扱いを受けるのだ」という批判が既にあります。

社会の何かを変えるということは、それがどんなに良い変化であっても、また別の問題を生み出す可能性はあるわけです。もちろんその危険性にはセンシティヴになるべきですし、それを予防するだけの努力も必要ですが、予想できない形で新たな問題が発生することだってあり得る。そうなったらまたその問題に取り組んでいけば良いわけで、何も変化をめざさない方が良いということにはなりません。

てゆーか、わたしは社会的公正というのは、何らかの終着点を設定してそこにめざして何かするというのではなく、いま自分がひしひしと感じている不公正や自分の目の前で起きている(あるいは目の前では起きていないけれど知ってしまった)不公正をなんとかしようと動き出すモノだと思っているのですが。

> この場合、「差別」と「形式的平等」と「実質的平等」の境界線を
> 決めているのは、その社会に公認されているコンセンサスでしょう。

そのコンセンサスというときに、わたしは「そのルールによって不利になる側が受け入れられるものかどうか」という点を重視します。つまり、もし同性愛者の誰も「結婚が異性愛カップルに限られていること」に不満を抱かないのであれば、ことさら問題とする必要はないと思っています。しかし現実は到底そうではないわけで。

Re(4):相変わらずで嫌になるというかぁ
 バジル二世  - 07/1/7(日) 16:36 -

引用なし
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   皆様、明けましておめでとうございます。

>そう。そして終わる必要はないのでしょう。

そしておっしゃるように「変える」ことを自己目的にするのは本末転倒になるということじゃないでしょうか。現状を「とにかく改革しなきゃ」という先生がいたりして、それで学校がよくなるかというとやはり違うような。子供とのかかわり合いを楽しんで工夫してというのがもっと大事かもしれません(どこぞの新聞の識者コラムの受け売りなんで読み捨ててください)。

Re(4):相変わらずで嫌になるというかぁ
 純子  - 07/1/7(日) 17:25 -

引用なし
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   >そうなったらまたその問題に取り組んでいけば良いわけで、何も変化をめざさない方が良いということにはなりません。

何か変化をめざすほうが良いということにもならない(^^)

ちなみに林道義さんのHPから、引用

http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/arakawa1.html

>エ 数値目標を立てて男女の比率を同じにする方式は、その方法が適切な場合か否かについて、また性急な目標を立てることによる弊害や混乱が起こらないように、慎重に判断しなければならない。

ほらほら、例の荒川区の男女共同参画社会懇談会の件ですが、保守派の林道義さんも高橋史朗さんも、「慎重に判断せよ」で、「ポジティブ・アクションするな」とまでは言っていないわけですよ(^^)。

これに対して、「これはポジティブ・アクションの否定だ」とデマを流して批判運動を展開したのはフェミの「女性政策情報ネットワーク」の方たちの側でしてね。何だか、日本のフェミニストさんたちによれば、ポジティブ・アクションはどんなものでも無条件に全て正しいということみたいですよ(^^)。

「形式的平等」概念と「実質的平等」概念の相違がわかってないのはいったいどっちだ?

>そのコンセンサスというときに、わたしは「そのルールによって不利になる側が受け入れられるものかどうか」という点を重視します。

私は、むしろ共感(シンパシー)の問題かなとも思う。そのルールによって、多少、不利になったとしても、「そういう事情なら、まあ仕方がないか」と大多数の良心に思ってもらえるかどうか? 


あと、議論とはあまり関係ないけど、おまけ。

>例えば「なんで1対1のパートナーシップだけが特別な扱いを受けるのだ」とか

つまり、側室制度、妾制度、一夫多妻制を認めろと……(--)

>「なんで恋愛・性愛関係だけが特別な扱いを受けるのだ」

つまり、日本の伝統文化に鑑みれば、君臣関係、親子関係のほうが大切だと……(--)

こういう意見に対しては、ちっとは、「歴史というものを勉強しなよ」というよりないな。

macskaさんが芥屋さんに反論しているこれもそうで

>仮に、日本の法律において「結婚」「婚姻」が廃止され、その代わりに「同性婚」だけが法的に認められた制度となったとします。これは実質的に「結婚」と同じものだけれど、同性どうしのカップルにしか認められないとします。そうなった場合、異性愛者のうちのどれだけが「これもまた不平等とは言えない」と受け入れることができるでしょうか?

そういう事態が、現実に発生するかどうか、ちょっと考えてみたらいいのに……(--)。こういう意見は、単なるへ理屈です。言葉の遊びとしては面白くても、現実感がないから大多数の良心の共感を呼ぶことはできないと思いますよ。

 歴史的には「同性結婚」というのは、本来、異性愛カップルの結婚制度というのが前提としてまず確立されていき、その後、そのルールを同性愛カップルにも拡張してほしい・してあげるべきだ。という形で主張されていくんですよ。一種の婚姻擬制です。

そこらへんはウィキの「同性結婚」の「同性結婚の前史」の項目を読んでください。歴史マニアの私が、かなり力を入れて書きこんでいるから(^^)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E6%80%A7%E7%B5%90%E5%A9%9A#.E3.83.81.E3.82.A7.E3.82.B3.E5.85.B1.E5.92.8C.E5.9B.BD

ちなみに、今、私が、知りたいのは、世界で最初に、「婚姻擬制として同性愛カップルにも婚姻を認めるべきだと言い出した人は誰か?」なんですが、誰かご存じでしたらご教授くださいませ。たぶん19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて、誰かが言い出しっぺがいると思うんだけど、ひょっとしたらもっと前からいるのかな?

Re(5):相変わらずで嫌になるというかぁ
 Josef  - 07/1/7(日) 18:25 -

引用なし
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   >>仮に、日本の法律において「結婚」「婚姻」が廃止され、その代わりに「同性婚」だけが法的に認められた制度となったとします。これは実質的に「結婚」と同じものだけれど、同性どうしのカップルにしか認められないとします。そうなった場合、異性愛者のうちのどれだけが「これもまた不平等とは言えない」と受け入れることができるでしょうか?

>そういう事態が、現実に発生するかどうか、ちょっと考えてみたらいいのに……(--)。こういう意見は、単なるへ理屈です。言葉の遊びとしては面白くても、現実感がないから大多数の良心の共感を呼ぶことはできないと思いますよ。

もしかするとそういう国家、いや部族や集団は単発的に存在したかもしれません。酋長が同性愛者で、同性愛者に特権を与え異性愛者を迫害する…。ただそういう部族は必然的に滅びざるをえず、歴史からは抹殺された…

まそういう想像はともかく、「結婚」とは男女がするものという了解があるから、この定義を国家権力が強引に変えるようなことはすべきではないでしょう。ただ、異性間であれば当然のごとく認められることが同性間では認められないことがいろいろあります。結婚という名称は別として、現在の結婚に準じた諸権利を同性愛者間にも認めるということはもっと真剣に検討されて良いのではないかと思います。

Re(5):相変わらずで嫌になるというかぁ
 芥屋  - 07/1/7(日) 18:54 -

引用なし
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   みなさま、あけましておめでとうございます。

>macskaさん:
>> なぜなら「結婚」とは、男女が正式に夫婦になることだから。
>
>はい、だからそのように、定義の段階で不平等な扱いを「当たり前」とするような制度が法的にある場合、それは実質的に不平等であると言うわけです。
>
>もし「結婚」の定義が「男女が正式に夫婦になること」であってそれ以外に変化しようがないのであれば、そんなものは法的な制度として認めるべきではありません(私的あるいは文化的な儀式として祝うのは、もちろん自由です)。

んー、言いたいことは(理屈としては)わかるんですけど、私の言ってるのはそゆことでなくて…。もう少し具体的に説明します。漢語で「夫婦」といい和語で「めをと」というように、その言葉が男女のことを指してるわけですよ。だからこの言葉を動かしようがないのは、仕方がないんですって。

だから法制度での婚姻制度をいう場合に、いきなり観念でもって「婚姻とは何か」に切り込んで、理屈だけで「ほら、非対称だから不平等でしょう?差別でしょう?」みたいに言っても、神学論争になったり、無用の反発を買ったりするだけじゃないか思うんですよね。

それよりもっと実利的に考えたいんですよ。現行の婚姻制度というとき、実は「婚姻とは何ぞや」みたいな観念論が先にあるわけじゃないでしょう。そうじゃなくって親権とか相続権とか扶養とか保険とか年金とか、いろいろの権利義務関係の集積が、法制度としての実態ですよね。そこで保障されていることがらによる受益というものが婚姻当事者だれにとっても平等であるべきだ…というのが「法の平等」であると思う。

そこでふと考えるに、「所帯を持って生計を営んでいる当事者が男女でなければダメ? 男どうしとか女どうしとかで所帯もって暮らしを営んでいる人たちは、男女の連れ合い用として保障されている法の受益者にはなれないの?」みたいなほうが、説得力を感じるんですけどね。

だから、現行の関連諸法制による法利益にはどのようなものがあって、どのようなものが男女の配偶者関係だけではなく同性の配偶者関係にも適用されるべきだというのか(現行のもろもろの権利義務の中には、同性カップルにとっては「あぁ、その権利義務は同性愛者には関係ないので不要です」という項目もあるだろうし)、具体的な話を聞きたいな、と。事実上の所帯を持ってる同性カップルとしては、どういう法利益の受益が男女のカップル同様に望まれると言ってるのか、そういうゲンナマな話が求められるなぁ、と。


>純子さん:
>歴史的には「同性結婚」というのは、本来、異性愛カップルの結婚制度というのが前提としてまず確立されていき、その後、そのルールを同性愛カップルにも拡張してほしい・してあげるべきだ。という形で主張されていくんですよ。一種の婚姻擬制です。

発展拡大系というか、男女の夫婦にとって「夫婦に関する法律はこうあってほしい(こうあるべき)」といういろんなことがあって、その「現時点での最大公約数的な集積」が現行の関連諸法制ですよね。その中には同性の配偶関係者にとっても「これこれの権利義務の保証は私たちにも当てはまることなので、同じように適用してほしいことがらなんですけど…」というものが出てくると思うんですよ。あるいは同性の配偶関係者にとってのみ固有に発生する案件というものも出てくるかもしれない。「だから、そういう権利義務を明文化した法体系がほしいです」というのは、私も当然のことだと思います。

Re(6):相変わらずで嫌になるというかぁ
 gaji  - 07/1/10(水) 12:35 -

引用なし
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   >芥屋さん&みなさま、あけましておめでとうございます。


>>> なぜなら「結婚」とは、男女が正式に夫婦になることだから。

>>はい、だからそのように、定義の段階で不平等な扱いを「当たり前」とするような制度が法的にある場合、それは実質的に不平等であると言うわけです。
>>
>>もし「結婚」の定義が「男女が正式に夫婦になること」であってそれ以外に変化しようがないのであれば、そんなものは法的な制度として認めるべきではありません(私的あるいは文化的な儀式として祝うのは、もちろん自由です)。

――婚姻に「法的な制度」が加わったのは、相続がらみ(財産とか誰が誰の子かetc)の混乱?を未然に防ぐためでもあったのでは?(いわば「家」がらみ)

>んー、言いたいことは(理屈としては)わかるんですけど、私の言ってるのはそゆことでなくて…。もう少し具体的に説明します。漢語で「夫婦」といい和語で「めをと」というように、その言葉が男女のことを指してるわけですよ。だからこの言葉を動かしようがないのは、仕方がないんですって。

そうなんですよね。

>だから法制度での婚姻制度をいう場合に、いきなり観念でもって「婚姻とは何か」に切り込んで、理屈だけで「ほら、非対称だから不平等でしょう?差別でしょう?」みたいに言っても、神学論争になったり、無用の反発を買ったりするだけじゃないか思うんですよね。

言えてますね。

私のバヤイ、大きな声では言えませんが、個人的には非婚主義者^^なのでした。

しかぴ、、(かれこれ数年前)
ga「もしかして、、**ちゃんと結婚を考えてるの?」
娘「考えてる♪」
ガーーーン!(ショックのあまり家出(--;した覚えが。。(笑

娘は結婚。今では子供が2人(上の子に「gajiちゃんって結婚してないの?(プ」と言われたり。。5歳児ってほとんどババァに近い。。)

>それよりもっと実利的に考えたいんですよ。現行の婚姻制度というとき、実は「婚姻とは何ぞや」みたいな観念論が先にあるわけじゃないでしょう。そうじゃなくって親権とか相続権とか扶養とか保険とか年金とか、いろいろの権利義務関係の集積が、法制度としての実態ですよね。そこで保障されていることがらによる受益というものが婚姻当事者だれにとっても平等であるべきだ…というのが「法の平等」であると思う。

そういうことですね。
私のバヤイそういう諸々の制度からフリーでありたかったのでした。
現在、法制度外の個人を貫徹進行中です(受益も保障もウザイ^^)。

>そこでふと考えるに、「所帯を持って生計を営んでいる当事者が男女でなければダメ? 男どうしとか女どうしとかで所帯もって暮らしを営んでいる人たちは、男女の連れ合い用として保障されている法の受益者にはなれないの?」みたいなほうが、説得力を感じるんですけどね。

そうですね。けれど、私が不思議なのは、
(男女の結婚に関して)「そんなものは法的な制度として認めるべきではありません」とMさんはおっしゃっておられる(マジョリティだから?)。

しかるに、男女の結婚以外の結婚に関しては「法的な制度として認め」るべきだということなのでしょうか。。(マイノリティの権利として?)

要するに、法制度に保証され、その恩恵のもとに「愛」^^をはぐくみたいのカナ。。
仮にそうだとしたら、なんだかなぁ。。です。

Re(5):相変わらずで嫌になるというかぁ
 macska  - 07/1/10(水) 17:38 -

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   > 何か変化をめざすほうが良いということにもならない(^^)

そう、だからこそ、どういう変化が望ましいか、あるいはどういう変化であれば「ないほうがマシ」であるのか、個別に判断するべきですよね。

> 例の荒川区の男女共同参画社会懇談会の件ですが、保守派の林道義さんも
> 高橋史朗さんも、「慎重に判断せよ」で、「ポジティブ・アクションする
> な」とまでは言っていないわけですよ(^^)。

あのー、これはわたしの勘違いなのかもしれませんが、日本の政治文化において「慎重に判断せよ」というのは「反対」というのとほぼ同義なのではないですか? だとしたら、「これはポジティブ・アクションの否定だ」という指摘は、事実として間違いとは言えないような。

# サヨクの言説でも、「〜は慎重に議論せよ」と主張するときは
# はっきり「反対」の意味で言っているように思うんですが。

> 何だか、日本のフェミニストさんたちによれば、ポジティブ・アクション
> はどんなものでも無条件に全て正しいということみたいですよ(^^)。

そんなこと言っていないでしょう。むしろ、林さんらが「ポジティブ・アクションはどんなものでも無条件に全て間違い」だと思っている、とかれらが思っているからこそ、批判しているのでは。

もしかしたら、これはかれらの勘違いなのかもしれません。もしそうであれば、「われわれはポジティブ・アクションはどんなものでも全くダメだとは思っていない」「こういう条件の中であればポジティブ・アクションは認められるが、こういう例は認められない」みたいに分かりやすく説明してもらえると嬉しいのですが、これまでわたしが見た文書を読む限り、そういう説明はなされていないようです。

> 言葉の遊びとしては面白くても、現実感がないから大多数の良心の共感
> を呼ぶことはできないと思いますよ。

あなたは、その文章の意図を勘違いしています。

もしわたしが、同性婚の実現のために、多数の人々の共感を得ることを目的として文章を書くのであれば、当然それに適した書き方をします。当たり前です。しかし、芥屋さんへの質問はそういう文章ではありません。

あの文章の意図はというと、異性婚しか認められないのは「結婚」という言葉の定義によるから、異性婚しか認められないのは当たり前であって不平等とは呼べない、という論理に対する反論です。

つまり、法律上の「結婚」「婚姻」が異性カップルにしか当てはまらない言葉であるのと同様、「同性婚」は同性カップルにしか当てはまらない言葉ですから、法律の言葉を入れ替えて、その結果同性カップルだけに特権が認められるようになったとしても、全く同じ論理から「不平等とは呼べない」という結論が導き出されるはずです。しかし、実際それに「そうだ、不平等ではない」と納得できる異性愛者がどれだけいるのか、とわたしは思うわけです。

これは論理の問題なので、わたしが同性婚に賛成であろうと反対であろうと無関係に成り立ちます。というより、同性婚は例として出ているだけで、問題は「現実に不平等が存在するのに、言葉の定義によって存在しなかったことにできるかどうか」です。

わたしは、言葉の定義によってはそれは不平等とは呼べない、という芥屋さんの珍説に反論するためにこういう例をあげたのであって、この例をあげることで同性婚への賛成を増やそうという意図はありませんし、また現実的にありえそうなシナリオかどうかも関係ありません。

> 歴史的には「同性結婚」というのは、本来、異性愛カップルの結婚制度と
> いうのが前提としてまず確立されていき、その後、そのルールを同性愛
> カップルにも拡張してほしい・してあげるべきだ。という形で主張されて
> いくんですよ。

そう主張するべきだとあなたが考えるのは勝手ですが、そのような形の主張以外をしてはいけない理由がなにもありません。「それでは社会に受け入れられない」と言うかもしれませんが、(1)それ以外にも有効なメッセージがありえますし(もちろん、ダメなメッセージもたくさんあります)、(2)わたしにとっては運動が全体主義化するよりは、成果を得られるのが多少伸びた方がマシだと思っています。

Re(6):相変わらずで嫌になるというかぁ
 macska  - 07/1/10(水) 18:00 -

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   > んー、言いたいことは(理屈としては)わかるんですけど、私の
> 言ってるのはそゆことでなくて…。

いやだからですねー。同性婚の話は、あの文脈では単なる一つの例でしょ?

どうして婚姻制度が「不平等」の例になるのか芥屋さんは十分理解しているわけですから、違った文脈で議論するならいったん区切ってからにして欲しいです。

> だから、現行の関連諸法制による法利益にはどのようなものがあって、
> どのようなものが男女の配偶者関係だけではなく同性の配偶者関係に
> も適用されるべきだというのか(現行のもろもろの権利義務の中には、
> 同性カップルにとっては「あぁ、その権利義務は同性愛者には関係な
> いので不要です」という項目もあるだろうし)、具体的な話を聞きた
> いな、と。

どの国でも同性婚推進派はみんなそれをやっています。そして反対派は、それを「同性婚推進派は、結婚というものを単なる権利義務の契約だとしか考えていない。同性婚を認めることは、結婚の価値を貶めることになる。」と批判しています。

ちなみに、米国連邦法上「結婚」したカップルにのみ認められた特権を全てリストアップした政府文書があります。これには各州の法律は含まれませんし、また各州で認められたシビルユニオン等の制度の影響を受けません。
http://www.gao.gov/new.items/d04353r.pdf
具体的な話は、これを読めばいろいろ見えてきます。

「いきなり観念でもって〜」というのは、どこかのブロガーが個人の思いつきで書いているのを読み過ぎじゃないですか。実際にそういう運動をやっている団体で、「いきなり観念でもって〜」みたいな運動をやっているところはほとんどないですよ。みんな実利的な部分でもって、実際に困っている人を登場させたりして運動してます。

ブログを書く時のわたしは基本的に観念のヒトだから、観念的な書き方をするし、そういうのを読みたい人が読んでいるからいいんだけれど、わたしのブログなんて読みそうも無いような世間一般の人にアピールする時はそれなりに工夫しますよ。当たり前でしょ。

Re(5):相変わらずで嫌になるというかぁ
 macska  - 07/1/10(水) 18:01 -

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   >そしておっしゃるように「変える」ことを自己目的にするのは
>本末転倒になるということじゃないでしょうか。

「おっしゃるように」がどこにかかるのかよく分かりません。
「『変える』ことを自己目的化するのは本末転倒」はその通りだけど、今の議論にどのように関係するのか不明ですし。

Re(6):相変わらずで嫌になるというかぁ
 純子  - 07/1/11(木) 9:05 -

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   >芥屋さん:

>どういう法利益の受益が男女のカップル同様に望まれると言ってるのか、そういうゲンナマな話が求められるなぁ、と。

同性カップル維持、15年目の私の経験。

たとえば、昔、海外旅行に行った時なんですけど、

空港に災害保険の自動販売機があるじゃないですか。「800円くらいで、飛行機事故が起きたら、法定相続人に一千万」ていう掛け捨て保険。航空機の事故発生率から考えると保険会社はいい商売なんです(^^)が、まあ800円なら、まあ、みやげ話のネタになるからいいなと思って、自動販売機に千円札を入れて、おつりが200円、で自動販売機の支持どうりに、住所、氏名を書いていって……。

さて、法定相続人? 父の名は書ける、母の名はかける。でも15年間、連れ添ったうちの旦那は? さて困った……。

こういう時ですね、法的に認められていないと困るのは。


まあ、カップルの両方とも元気で頑張っているうちは大丈夫なんです。別に日本にはアメリカみたいな、ソドミー法はないし、ヘイトクライムがあるわけじゃない。

実は、保険だって、保険会社とえんえん交渉すれば、同性カップルを受取人にして、生命保険をかけられないわけではない。ただ飛行機に乗る前の数時間でそういう交渉をするのは難しい……(^^)。
両親を受取人にしておいて、そのうちいくらかをパートナーに渡してくれと一筆書いておく手もないわけではないけでど、ケチなうちの母がガメったらどうする(^^)

まあ、そういう、一見すると、どーでもいいようなことなんですが、でもそういう不利益が連続してじわじわと襲ってきたり、どっちかか事故や病気で弱っているときなんか、けっこうメゲます(^^)。


さらに法律的にもつっこんだ話は、早稲田大学の棚村政行先生がお詳しいですね。
参考までに

http://www.medical-tribune.co.jp/ss/2006-6/ss0606-3.htm

ああ、また、誤字やってるなあ(^^)オンラインマガジンセクシャルサイエンス。
棚村(たなむら)さんだ。棚村さん。

Re(6):相変わらずで嫌になるというかぁ
 純子  - 07/1/11(木) 10:59 -

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   >macskaさん:
>> 何か変化をめざすほうが良いということにもならない(^^)
>
>あのー、これはわたしの勘違いなのかもしれませんが、日本の政治文化において「慎重に判断せよ」というのは「反対」というのとほぼ同義なのではないですか? だとしたら、「これはポジティブ・アクションの否定だ」という指摘は、事実として間違いとは言えないような。

はい、勘違いです。日本の政治文化において「反対」の意味に使われるのは「判断せよ」ではなくて「判断しない」「判断できない」です。「時期尚早である」とか「善処します」とか「現在、検討中です」とか……(^^)

># サヨクの言説でも、「〜は慎重に議論せよ」と主張するときは
># はっきり「反対」の意味で言っているように思うんですが。

「憲法九条の改正に関しては慎重に判断せよ」だったら、サヨクじゃなくて論憲派になってしまいますよ(^^)。サヨク言説は「憲法九条改悪絶対反対!」から「九条改正は時期尚早である」まで。

>もしかしたら、これはかれらの勘違いなのかもしれません。もしそうであれば、「われわれはポジティブ・アクションはどんなものでも全くダメだとは思っていない」「こういう条件の中であればポジティブ・アクションは認められるが、こういう例は認められない」みたいに分かりやすく説明してもらえると嬉しいのですが、これまでわたしが見た文書を読む限り、そういう説明はなされていないようです。

以前、「フェミナチを監視する掲示板」で神名龍子さんが説明していなかったけ?
私の記憶なので正確でないかもしれないが、だいたいこんな内容だったような。

1.アクションの目的が明確で、その目的が妥当であると公論されていること
(公論形成のプロセスがしっかりしていること)

2.アクションの手法が不合理なものではなく、実現可能性があること

3.結果について、定期的に検証し、必要がなくなれば廃止したり、効果がなければ改正したりできること

神名さんだから、彼女の師匠すじの、竹田青嗣さんや、古浜逸郎さん、橋爪大三郎さんなどは、ほぼ同様な考え方をしているはず。まあ、私もその方たちの著作に学んでいるわけだし(^^)。

>あなたは、その文章の意図を勘違いしています。

勘違いするような書き方をしても、しゃーないでしょう。例示になっていない(^^)。

本来、同性婚が、異性愛者の結婚の拡大発展系として考えられているから、異性愛者の結婚がまったくなくて、同性婚だけが中空に浮き上がっているような社会って、想像しかねるんです(^^)

ほらはら、gajiさんまで、「さっぱり分からない」っていう反応をなさっているでしょう。

>わたしは、言葉の定義によってはそれは不平等とは呼べない、という芥屋さんの珍説に反論するため

だから、芥屋さんのおっしゃているのは、「珍説」じゃないんですよ。
「結婚」が男女によると定義されている間は、当事者の合意だけで誰しもが「結婚」する権利を平等に持っているわけだから、みんな、それで平等だと思っているんです。そこに、「それだと同性愛者のカップルが困るんじゃないか?」という声があって、初めて「そうかもしれない?」と考え始める人が出てくるわけです。
そうすると、現在の「婚姻制度」というのは「形式的平等」ではあるけど「実質的平等」ではないのではないか?という疑いが出てくるわけですね。
 しかし、社会観、結婚観、同性愛者に関する知識や経験やというのは個人によって若干の違いがあるから、じゃあ現行の婚姻制度をどう改革すれば、「実質的平等」になるのかで、議論になると個々の意見が分かれてきちゃうんですよ。


最初に楽俊さんが指摘している疑義もそういうことなんじゃないですか?
macskaさん、またお得意の「観念論」だけど、そういうこと、本当に分かっているのかなあ? みたいな。

>> 歴史的には「同性結婚」というのは、本来、異性愛カップルの結婚制度と
>> いうのが前提としてまず確立されていき、その後、そのルールを同性愛
>> カップルにも拡張してほしい・してあげるべきだ。という形で主張されて
>> いくんですよ。
>
>そう主張するべきだとあなたが考えるのは勝手ですが、そのような形の主張以外をしてはいけない理由がなにもありません。

これは私の「主張」じゃなくて、歴史マニアの私が、歴史というものを勉強した結果、こうなっていましたよという「指摘」です。疑義があるなら、自分でも同性結婚の歴史を調べてみたらいい。反証があれば大歓迎。自分の歴史観をより良いものに修正でき、同性結婚の権利獲得運動をしている人の役にもたつ。

これは運動を全体主義化しているとは言わない(^^)

Re(7):相変わらずで嫌になるというかぁ
 macska  - 07/1/11(木) 13:00 -

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   > 日本の政治文化において「反対」の意味に使われるのは「判断せよ」では
> なくて「判断しない」「判断できない」です。「時期尚早である」とか
> 「善処します」とか「現在、検討中です」とか……(^^)

そうかなー。何か気に入らない案件が急速にまとまりそうな空気があるときに、もともとただ反対意見を持っているだけの人が「もっと議論を尽くすべきだ」とか「慎重に判断せよ」と訴えるというのはよく見る光景なんだけど。で、例えば推進派が「じゃあこれから3ヶ月かけて徹底的に議論して、そのあとで採決しましょう」と言えば3ヶ月後納得して素直に採決に応じるかとなるとかなり疑問なのですね。「まだ議論が足りない」とか言いそうな。保守派の「慎重に判断せよ」論でも、それ以外の勢力の論でも。

米国の議会でたまにあるフィリバスターというのはそれですね。名目上は「さらなる議論が必要なので採決に反対」という立場を取りつつ、実際はただ本の朗読など長時間演説して時間を潰しているだけ。そのあいだに裏で別の議員が妥協案を通そうと工作していることもあれば、反対派が一致団結して議案を潰そうとしていることもあります。

それと同じように、日本でも「慎重に判断せよ」というのは、他の手段で案件の差し迫った通過の阻止が難しくなった時に反対派がよく口にするように思うのですが。違いますか?

> 以前、「フェミナチを監視する掲示板」で神名龍子さんが説明していな
> かったけ?

その掲示板は、誰かにリンクを教えてもらったときに見る程度なので誰が何を言っているかなんて知りません。しかし、神名さんじゃなくて、林道義さんが「慎重に判断せよ」と言う時にきちんと説明して欲しいのですが。

# しかし、神名さんの基準は、ポジティブアクションだけに適用されるのでしょうか。
# 他の問題も含め、全ての政策についてそうした基準が適用されれば、現実に存在する
# 法律のかなりの部分が破棄されるような気がするんですが。
# 良くも悪くも、法律はそんなに隅々まで完璧にできていないので、もしポジティブア
# クションだけに限って厳しい基準を主張しているなら、それはそれで変だなあ。

> 本来、同性婚が、異性愛者の結婚の拡大発展系として考えられているから、
> 異性愛者の結婚がまったくなくて、同性婚だけが中空に浮き上がっている
> ような社会って、想像しかねるんです(^^)

だから、本来同性婚が本筋で、異性愛者の結婚がその拡大発展系として考えられているような社会があったとして、その社会の仕組みは平等なのかどうか想像してみろ、という話。想像力足りなさすぎ。

> だから、芥屋さんのおっしゃているのは、「珍説」じゃないんですよ。

奴隷と主人という言葉をやめて、何か別の言葉にすれば奴隷制が不平等な制度ではなくなるということがあり得ますか? ありえないでしょ? それが平等かどうかは、言葉の定義によって決まるものではなく、実際にどういう権力や財や資本や機会や自由などの分布があるかという話であるはずです。

「結婚」という言葉本来の意味が異性婚のことだから不平等ではないというのは、まるで差別用語をなくせば差別がなくなると考えるのと同じくらい「言葉」を過剰に評価しています。後者についてはよく分かっているはずの人が、前者の主張をしてしまうのは珍奇としか言いようがありません。

> じゃあ現行の婚姻制度をどう改革すれば、「実質的平等」になるのかで、
> 議論になると個々の意見が分かれてきちゃうんですよ。

それは難しいところですし、意見をどう集約させるか、どう改革に結びつけるかという議論は別に必要です。しかしわたしはその議論をここではやっていません。概念の問題として、実質的平等とか形式的平等とはどういう意味なのかということを話しています。

> これは私の「主張」じゃなくて、歴史マニアの私が、歴史というものを
> 勉強した結果、こうなっていましたよという「指摘」です。疑義がある
> なら、自分でも同性結婚の歴史を調べてみたらいい。

疑義があるというわけではなく、「過去にこのように議論されてきたから、今後もこのように議論されるべきだ」というのは論理的な飛躍だと言っているの。過去にそのように議論されてきたとしても、だからといって今後も同じ議論を続けなければいけないことにはならない。続けたい人は続ければ良いし、別の議論をやりたい人はそうすればいい。どれか一つだけが「正しい」議論の方法だというのは、全体主義に繋がるのではないですか?

Re(7):相変わらずで嫌になるというかぁ
 純子  - 07/1/11(木) 13:06 -

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   >macskaさん:

>「いきなり観念でもって〜」というのは、どこかのブロガーが個人の思いつきで書いているのを読み過ぎじゃないですか。

お〜い、墓穴を掘ってるよ(^^)

macska仏は、ご自分で、地面に穴を掘られ、その中で入滅して即身仏になられました。ありがたや、ありがたや、南無南無(-人-)。

Re(6):相変わらずで嫌になるというかぁ
 バジル二世  - 07/1/11(木) 14:49 -

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   >>そしておっしゃるように「変える」ことを自己目的にするのは
>>本末転倒になるということじゃないでしょうか。
>
>「おっしゃるように」がどこにかかるのかよく分かりません。
>「『変える』ことを自己目的化するのは本末転倒」はその通りだけど、今の議論にどのように関係するのか不明ですし。

ふむふむ。しかしある制度が形式的平等か実質的平等かの判断が主観の問題かどうか、あるいは現在の結婚制度が実質的な平等ではないかどうかの議論には立ち入りませんが、それらの議論に出てきた「制度改革」についてどのように考えるかについて述べたのであり、関係があるように思えますが。

Re(8):相変わらずで嫌になるというかぁ
 Josef  - 07/1/11(木) 22:31 -

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   形式と実質で混乱しているのはmacskaさんではありませんか?

>> なぜなら「結婚」とは、男女が正式に夫婦になることだから。(芥屋さん)
>
>はい、だからそのように、定義の段階で不平等な扱いを「当たり前」とするような制度が法的にある場合、それは実質的に不平等であると言うわけです。(macskaさん)

ここでmacskaさんは「定義の段階で不平等」と言っています。が、定義レベルの不平等なら「形式的不平等」でしょう。しかしmacskaさんはもともと「結婚=異性婚」を「形式的」には「平等」の例として出してきた。定義段階での不平等がどうして「形式的平等」なんですか?

macskaさんの最初の説明に問題があるように思います。

>「形式的平等」というのは、同じルールがすべての人に適用されることをいいます。それだけ。

これだと「身長180cm以上間の<長身婚>にのみ特権」という婚姻制度もまた「形式的平等」になります。なぜならこのルールは一部の人ではなく「すべての人に適用され」、その結果として180cm未満の人が排除されるだけですから。

しかし「形式的平等」とはそういうことではありませんね。「結婚=身長180cm以上のみ」という定義は180cm未満の人を最初から排除している。それゆえこれは「形式的」に「不平等」です。そうでしょ?

「形式的平等」とは、ルール内容が「個々の人間の相違に関係なく」すべての人に適用しうることであるはずです。身長という一人一人違うものを条件とした法は、その文言のレベルで「形式的不平等」、すなわち明々白々たる憲法違反です。

それゆえ、macskaさんが「形式的平等」を満たすものとして現行の「結婚=異性婚」を出したのは正しい。なぜならそれは異性愛者も同性愛者も性愛に無関心な者も、つまり誰も排除することなく遍く適用しうる内容を備えているからです(macskaさんが例示した「結婚=同性婚のみ」も同様)。そしてそうであるがゆえに、現行制度を「定義の段階で不平等」というのは不適切です。ましてや定義が変えられなければ「そんなものは法的な制度として認めるべきではありません」(macskaさん)とまで言うなら、ほとんどトンデモの領域です。

法的な定義を変えるという手も論理上はありうる。同時に定義はそのままで実質的平等を確保する別個の方策を検討する手もある。そういうことではありませんか?

Re(9):相変わらずで嫌になるというかぁ
 macska  - 07/1/12(金) 0:02 -

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   > これだと「身長180cm以上間の<長身婚>にのみ特権」という婚姻
> 制度もまた「形式的平等」になります。なぜならこのルールは一
> 部の人ではなく「すべての人に適用され」、その結果として180cm
> 未満の人が排除されるだけですから。

あのですね、そういうのは「同じルールがすべてに適用される」には含まれません。
「身長によって違ったルールが適用されることを規定している」んですから。

その点が説明不足だったというなら認めます。
しかし、普通それくらい分かるのでは。

> そしてそうであるがゆえに、現行制度を「定義の段階で不平等」と
> いうのは不適切です。

どうしてですか?
わたしは、「異性とのみ結婚できる制度」が形式的平等だと言いましたが、ここでは文脈から分かる通り「結婚」という言葉の意味を異性婚だけに限っていませんね。

それに対し、結婚という言葉は元から異性だけに限られているのだという反論がありました。確かに厳密にはその通りでしょう。そこで、もしその定義を採用するなら、上記は「結婚制度」は形式的平等(同じルールが誰にも適用される)が、実質的には不平等である、と書き直すことができます。そしてその不平等さは、「結婚」という言葉の定義(異性とのみ)によって生じていることになるでしょう。

「身長180cm以上のみ婚」制度の場合、身長180cmあるかどうかによって違ったルールが適用されています。しかし「結婚制度」(後者の定義による)においては、異性愛者も同性愛者も「合意ある独身の異性と結婚」できるわけですから、ルールの適用時点では全く同じルールが適用されています。

> 法的な定義を変えるという手も論理上はありうる。同時に定義はその
> ままで実質的平等を確保する別個の方策を検討する手もある。そうい
> うことではありませんか?

結婚という言葉の法的な意味を変えるというのは、ひとつの解決法です。

次に、結婚制度を法律から捨て去って、必要ならシビルユニオンみたいな制度を作ってこれまでの結婚制度と置き換えることもできます。

最後に、これまでの結婚制度は定義も仕組みもそのままで、それと全く対等なシビルユニオンのような制度を別に作るということも可能です。

あなたの言うのは、この3番目のオプションのことでしょうか?

そうだとすると、それは政治的妥協として全く受け入れられない案ではないですが、現実にそういう不可解な区別を残しておくと「全く対等」という条件がずっと保証されるかどうか不安なので、基本的にあまり望ましい解決方法ではないと思います。最初の2つのどちらかの方が、はるかに望ましい。

3番目の意見が不可解なことは、次の例を考えてもらえばわかります。女性参政権を求める運動が起きた時に、「参政権というのは歴史的に言って男性に属するものだから、女性には別の名目で対等な権利を与えるべきだ」と主張するみたいなものだと。たしかにそれでも男女の政治的平等権は確保できるでしょうが、男性には参政権、女性にはそれとは違ったなんとか権みたいな権利を付与するのは、どう考えても不可解でしょう。

Re(8):相変わらずで嫌になるというかぁ
 純子  - 07/1/12(金) 12:21 -

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   >macskaさん:

>米国の議会でたまにあるフィリバスターというのはそれですね。

日本の政治文化の話をしていて、どうして米国の議会の例が出てくるんだ(^^)
ちなみにウィキで「フィリバスター」を検索してみますた。
なるほど、アメリカではそうやるのか。文化が違うなあ。ちなみにフィリバスターの日本語訳は「牛タン戦術」……なんじゃそりゃ?? 日本では、国会の議事進行のやり方と政治文化が違いすぎて、使われることはほとんどないそうです(^^)

日本で反対派が使うのは、野党なら「牛歩戦術」(賛成か反対か決めかねますといって、投票箱までノロノロ歩く^^)か「審議拒否」(与党とは、議論したくないので、自宅にひきこもります^^)。これに対抗して与党が使うのが「強行採決」(もう野党抜きで勝手に決めちゃうぞ)

ほらほら、日本では「判断しない」「判断できない」が否定の意味に使われるんです。なんで、そうなるのか説明しようとすると、「よくわかる日本政治」みたいな本が一冊できてしまうので、ウイキでも読んで、ご自分で勉強してください。
一ついっておくと、日本では「全員一致」が正しいと思っている人が多くて、「多数決」は、「数の論理」とか「少数意見の抹殺」とかいって非難される傾向があります。
もちろん「全員一致」なんてありえないので、実は裏にいろいろと仕掛けがあるのですが……。よくこれで民主国家やってられるなあと思うでしょうけど、まあ政策の大半は「霞ヶ関」がシナリオを決めて、あとは赤坂の料亭で、いろいろと駆け引きがあって、(与野党なれあいでした)、で、最後にセレモニーとして国会審議という手はずで、戦後、60年間なんとかやっていました。最近は、ちょっと変ってきましたけどね。

荒川区のばあい、「林さんたちとは議論もしたくない」と言って、自分から出ていった人のほうが、つまりこの場合の「反対派」です。最初から議論する気ないんですよ。で後になって、自分抜きで、決めた林はファシストだとマスコミに訴える。

>しかし、神名さんじゃなくて、林道義さんが「慎重に判断せよ」と言う時にきちんと説明して欲しいのですが。

そりゃ、林さんに聞いてくらはい。だいたい神名さんと同じこというんじゃないでしょうか。いや、まてよ「フェ理屈はダメ」とか言うかもしれないな。だから「ジェンダーフリー」なんてフェ理屈使わないで、まずは自分の要求をストレートにぶつけてみればいいんですよ、フェミの人は。

>もしポジティブアクションだけに限って厳しい基準を主張しているなら、それはそれで変だなあ。

全然、変じゃないです。同和利権みたいに、ポジティブアクションで始めたはずの救済策が、逆に利権構造をつくりだして、かえって差別を構造化したり、逆に助長したケースはたくさんあります。だからアメリカでもさんざん議論になるんじゃないですか?

>だから、本来同性婚が本筋で、異性愛者の結婚がその拡大発展系として考えられているような社会があったとして、

では、macskaさんの豊富な想像力とやらで、そういう社会を描写してみてください。「闇の左手」みたいに詳しく(^^)。

>「結婚」という言葉本来の意味が異性婚のことだから不平等ではないというのは、まるで差別用語をなくせば差別がなくなると考えるのと同じくらい「言葉」を過剰に評価しています。後者についてはよく分かっているはずの人が、前者の主張をしてしまうのは珍奇としか言いようがありません。

ぜんぜん、芥屋さんのおっしゃっていること分かってないじゃん。まず男女がつがいで共同生活を営み、子供を育てる関係が、まずは先にあって、それを昔から「夫婦」(男と女)とか「めおと」(女と男)と呼んでいたわけでしょう。

でも、かつては相手をまったく自由に選べたわけではない。奴隷はまず結婚できませんでしたし、身分違いの相手とは結婚できなかったり、宗教や宗派が違っていたら結婚できなかったり、村の掟で特定の村の男とは結婚できなかったり。

そういう時代には、同性愛者でも、しかたなく異性と結婚していたわけですよ。徳川家光みたいに。「お世継ぎを作っていただかないと困ります」とか春日局がうるさいから……。どうしても結婚したくない同性愛者はたぶん坊さんになったんだろうな。

結婚が自由になって、その権利は平等にすべてに人に保証されるべきだと、言われ始めたのは、18世紀後半から19世紀にかけてです。それが先進国では、まあ普通に実現できたのは、20世紀半ばになってからですよ。今でもそうじゃない地域はあるんだから……。で「結婚の自由と平等」という権利が先進国で軌道にのりはじめたころ、同性愛者からも「自分たちの関係も同じように認めてくれ」という要求が出始めたわけでしょうが……。

芥屋さんのいっているのは、まず結婚というのは、男女のつがいの関係を表す言葉として始まっている。そして、まずそっちの「自由と平等」というのが、先に実現される必要性があったということですね。

「「結婚」という言葉本来の意味が異性婚のことだから不平等ではない」
ではなくて……(^^)
「「結婚」というのは、まずは「異性婚」ことで、最初はその自由と平等がめざされた」ということです。

「差別用語をなくせば差別がなくなる」ではなくて……(^^)
「差別用語を別に禁じなくても、差別をなくす手だてはある」でしょう。

>実質的平等とか形式的平等とはどういう意味なのかということを話しています。

だから、みんな、もう分かってるじゃん(^^)。そうですよね?
芥屋さん、楽俊さん、バジル二世さん、Josefさん、Gajiさん
いいや、おまえたちは私の意見に反対してくるから「実質的平等」と「形式的平等」の違いがわかってないに違いないと決めつけているのはmacskaさんだけだよ。

>どれか一つだけが「正しい」議論の方法だというのは、全体主義に繋がるのではないですか?

議論の方法ではなくて、歴史的事実を指摘している(--)。もし反証できる根拠があれば出してくれとも言っている。そのどこが全体主義なんだ。

「アウシュビッツの虐殺があったのか、なかったのか、どれか一つだけが「正しい」議論の方法だというのは、全体主義に繋がるのではないですか?」(^^)

Re(6):補足―相変わらずで嫌になるというかぁ
 バジル二世  - 07/1/12(金) 15:16 -

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   >「おっしゃるように」がどこにかかるのかよく分かりません。

その連用修飾語より後の一文全部なのですが、Josefさんの既述の論理だとしたのが違ったとしてもこの程度なら許されるとの信頼感、安心感があって申しました。形式論理上の正誤を言えば違っているかもしれません。しかし、異なる事情があるのに、他と同じ基準でもって扱う必要があるのでしょうか?

Re(9):相変わらずで嫌になるというかぁ
 macska  - 07/1/12(金) 19:35 -

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   > いいや、おまえたちは私の意見に反対してくるから「実質的平等」と
> 「形式的平等」の違いがわかってないに違いないと決めつけているの
> はmacskaさんだけだよ。

そんなこと今まで思ったこともありませんでした。
決めつけているのはそちらでは。

誰かが「実質的平等」と「形式的平等」を理解していない、とはわたしは思っていなくて、本心では理解しているのに何やらわけのわからない言いがかりをつけてきたり、ただの個別例でしかないケースに特有の問題でしかない(全体の議論には関係ない)部分にこだわってくだらないことを言ったり、ああそうまでしてわたしに反対しなければいけない性質のヒトもいるんだなぁと思っているだけ。

> 議論の方法ではなくて、歴史的事実を指摘している(--)。

歴史的事実としては、こちらは反論を一切していない。同性婚はこういう論理で要求するのが本来のあり方だ、というのは、要求する論理のあり方を指図しており、それが正しい歴史観に基づいていたとしても、それだけが唯一絶対の論理であることにはならないので、妥当だとは言えません。

Re(10):相変わらずで嫌になるというかぁ
 Josef  - 07/1/12(金) 23:14 -

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   >その点が説明不足だったというなら認めます。
>しかし、普通それくらい分かるのでは。

はい、普通は分かります。
ところがそれだと矛盾が起こる。そこで「普通」に読んではいけないのかなと思ったわけです。普通の意味とのことなので安心しましたが、矛盾は矛盾のままです。

>> そしてそうであるがゆえに、現行制度を「定義の段階で不平等」と
>> いうのは不適切です。
>
>どうしてですか?

定義が不平等であればその定義を採用した制度は形式的平等の原則をハナから満たさないからです。「結婚とは180cm以上の者がするもの」は定義自体が不平等であるがゆえにそれに基づく婚姻制度は形式的に不平等。対して「結婚=異性同士がするもの」も「結婚=同性同士がするもの」も、定義自体に不平等はない。だからそれを法制化しても形式的平等は保たれる。単純な話です。

macskaさんは「実質」の部分を「定義」に直結させちゃってます。実質的不平等がここにある。原因を遡ると「定義」に行き着く、だから「定義」が「不平等」なのだ、と。鉄道の踏切事故(=悪)が起こるのは鉄道(=悪)があるから、みたいな。

ある定義に基づく法制下で実質的な不平等が起こったなら、その定義と不平等とが何らかの関連を有していることは確かです。しかし関連があることと定義自体が不平等であることとはまったく違う話ですよ。

次の例えもたぶんこの混同と無縁ではないのでしょう。

>3番目の意見が不可解なことは、次の例を考えてもらえばわかります。女性参政権を求める運動が起きた時に、「参政権というのは歴史的に言って男性に属するものだから、女性には別の名目で対等な権利を与えるべきだ」と主張するみたいなものだと。

この例はまさにmacskaさん言うところの「定義の段階で不平等」ですね。「180cm以上婚」と同じ。よって当然「参政権とは男性のもの」という不平等な定義から変えなきゃいけない。「異性婚」や「同性婚」はそれとは違って定義段階で不平等とは言えず、「法の下の平等」が最低限要求する形式的平等は保たれている。だから不都合が出てきたら別の法律で対処するという選択肢も可能なのです。

ついでながら、別姓の夫婦を認めるかどうかについても同じことが言えます。現行同姓制度は形式的に平等。現行法の背後に「夫婦は同姓に決まっている」という歴史的定義づけがあったとしても、その定義自体が不平等なわけではありません。したがって論理上は、「夫婦は同性」という定義を変えて選択制にすることも可能だし、定義を変えないでたとえば「通称」を制度化することも可能なのですね。

Re(10):相変わらずで嫌になるというかぁ
 純子  - 07/1/14(日) 9:41 -

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   >macskaさん:

>本心では理解しているのに何やらわけのわからない言いがかりをつけてきたり、

議論の流れから観ると

「形式的平等」と「実質的平等」といっても、主観の解釈によって左右されるという主張と、客観的な基準があるから主観によって左右されないという主張の対立でしょう。

macskaさんは、現実的な政策議論ではいろいろあっても「概念としての「形式的平等」と「実質的平等」の区別なら明快」として「形式的平等」と「実質的平等」を定義づけた上で、明快である一つの例として、「同性結婚」を上げている

それに対して、macskaさんが例示している「同性結婚」だって、歴史的には、まさしく「形式的平等」と「実質的平等」の基準点がズレてきた例じゃんと、私が指摘しているわけですね。全体の議論には関係ないわけでも、部分にこだわっているわけでもない。

むしろmacskaさんが意図的にスルーしているのは、こういう意見

芥屋さん
>問題がこじれるというか堂々巡りになる場合は、訴える側が自分の主観を客観と思い込んだり、訴えを斥ける側が自分の主観を客観と思い込んだりするときでしょうね。

純子
>この場合、「差別」と「形式的平等」と「実質的平等」の境界線を決めているのは、その社会に公認されているコンセンサスでしょう。
ただコンセンサスはその社会に属する人々のコンセンス(良心)の総和だから、個人の良心の自由を認める限り、個々の人間で、その境界線はズレるし、だからこそ保守派と革新派の間で、さかんに議論になったりもするわけです。


)ああそうまでしてわたしに反対しなければいけない性質のヒトもいるんだなぁと思っているだけ。

macskaさん、何を「実質的平等」とするかは主観によって左右されるわけだから、「実質的平等」を主張したければ、合意形成のための努力をケチってはいけません。「もっと頑張りましょうね」とみんな激励しているわけですよ(^^)


>歴史的事実としては、こちらは反論を一切していない。同性婚はこういう論理で要求するのが本来のあり方だ、というのは、要求する論理のあり方を指図しており、それが正しい歴史観に基づいていたとしても、それだけが唯一絶対の論理であることにはならないので、妥当だとは言えません。

私の主張は「こういう論理で要求するのが本来のあり方だ」ではなく。「本来、こういう論理で要求されてきた(過去形)」。

まずは異性愛の結婚が「実質的平等」としてめざされ、それが「形式的平等」として実現した段階で、その後を追うように、同性結婚が「実質的平等」としてめざされるようになった。

この私が描いた「歴史的事実」には、まったく反論(反証)はないんですね。

だったら(異性愛者の)結婚が「形式的平等」か「実質的平等」かは、主観的な視点によって変りうるということになりませんか(^^)?


これから、先、同性結婚をめざして活動している方たちが、この「歴史的事実」をどう受け止めて、どんな活動をするかは、そりゃその方たちの自由だ。未来は過去には縛られない。ただ現在を前提にして、歴史に学んだほうが、効率はいいと思うけどね。

自分の説が反論されたからといって、詭弁を弄して「全体主義」呼ばわりするのはよくないよなあ。

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