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モバイル本 ラクシュン 11/10/1(土) 1:40
  Re(1):モバイル本 しゅう 11/10/3(月) 19:13
   Re(2):モバイル本 ラクシュン 11/10/4(火) 22:33
   Re(3):モバイル本 ラクシュン 11/10/14(金) 1:44
   Re(4):モバイル本 ラクシュン 11/10/29(土) 0:52
   Re(5):モバイル本 ラクシュン 11/10/29(土) 1:13
   Re(6):モバイル本 ラクシュン 11/10/29(土) 1:37
   Re(7):モバイル本 ラクシュン 11/10/29(土) 1:48
   Re(8):モバイル本 Josef 11/10/30(日) 17:09
   Re(9):モバイル本 ラクシュン 11/11/6(日) 0:18
   Re(10):モバイル本 ラクシュン 11/11/17(木) 0:35
   Re(11):モバイル本 [名前なし] 11/12/21(水) 23:58
   引用について ラクション 12/1/9(月) 12:07
   Re(1):引用について ラクション 12/1/24(火) 0:49
   Re(2):引用について ラクシュン 12/2/26(日) 1:15
   Re(3):引用について バジル二世 12/3/6(火) 9:30
   Re(4):引用について ラクシュン 12/3/28(水) 2:02
   Re(5):引用について ラクシュン 12/3/28(水) 2:27
   Re(6):引用について バジル二世 12/4/2(月) 0:12
   Re(7):引用について ラクシュン 12/4/13(金) 0:39
   Re(8):引用について ラクシュン 12/4/13(金) 0:49
   Re(9):引用について バジル二世 12/4/19(木) 8:20
   ラカン ラクシュン 12/5/2(水) 23:39
   Re(1):ラカン バジル二世 12/5/9(水) 19:24
   Re(2):ラカン ラクシュン 12/5/15(火) 21:38
   Re(3):ラカン ラクシュン 12/5/15(火) 22:14
   Re(4):ラカン ラクシュン 12/5/18(金) 0:40
    Re(5):ラカン ラクシュン 12/5/18(金) 0:43
   Re(3):ラカン バジル二世 12/5/23(水) 17:58
   Re(4):ラカン ラクシュン 12/5/23(水) 22:24
   Re(5):ラカン バジル二世 12/6/4(月) 11:23

モバイル本
 ラクシュン  - 11/10/1(土) 1:40 -

引用なし
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   web上で本を代引き(notクレジット)で買える本屋って珍しいでしょう。
さっき明屋(はるや)書店で二冊注文しましたよ。精神分析本。

Re(1):モバイル本
 しゅう  - 11/10/3(月) 19:13 -

引用なし
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   Amazonとはどのへんが違うのでありますか。

Re(2):モバイル本
 ラクシュン  - 11/10/4(火) 22:33 -

引用なし
パスワード
   げっ、重症だわたし。
この文章を投稿した記憶がない。
けどしたのでしょうね。

>  Amazonとはどのへんが違うのでありますか。

ということは、Amazonでも代引きで買えるということなんですね。
知らなかった。

「明屋(はるや)書店」というより、honyaclub.comのモバイルサイトといったほうが正しいのかよく解らん。

Re(3):モバイル本
 ラクシュン  - 11/10/14(金) 1:44 -

引用なし
パスワード
   2冊は『精神分析とユング心理学』『ラカン派精神分析の治療論』ですがいろいろ忙しくてまだ数ページしか読んでいません。
これまでの印象は想像の範囲内ってとこで。

…で、今はまっている番組は、nhk小笠原泰教授の「白熱教室JAPAN」(日曜PM18:00)です。
第一回は「"僕はウナギだ"を訳せますか?」ということで、日本語の一人称の主語の多様性(母親による「お母さんは(が)…」、教師による「先生は(が)…」「俺」、「手前」(→「テメー」)、「ワレ」(→「オマエ」)等の表現)から逆算的にみた相手との関係性の重視がテーマでした。相手との関係性で主語がコロコロ変わってくる。欧米や中国ではあり得ない。中国語では「人間」とは「世の中」のことである。

第二回は「あなたの選択は?"就職"OR"就社"」ということで、機能と役割の違いがテーマだったと思います。

上手く言えませんが、私が感じる日本人のイヤなところ、「水戸黄門」的感性?や、縦割り行政がいつまでたっても変わらないことの構造その他などの理由がこのへんにあるんだろうなあという気がするんですよ。
またそのあたりから主語を欠いた上に、他人の気持ちを想像するような意見に対してある種の精神疾患者たちは嫌悪感や恐怖感を覚えるのではないのかなどと思ったり(私にも解る部分はある。ハイコンテクストにも限度があるみたいな感じ)。

再放送は日曜日のAM0:20でやっています。

Re(4):モバイル本
 ラクシュン  - 11/10/29(土) 0:52 -

引用なし
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   本はまだ半分ほどしか読んでいませんが、まだ未読のラカン本はあと2、3冊はじっくり読んでみようと思っています。


…しかし、ある女が乳癌の手術をして、その病院でできたガン友達みたいな人達5〜6人は(自分以外の一人を残して)みんな死んでしまった。しかし私は生きている、これは宗教=信心のお陰(功徳)だみたいなことを信じている人がいるのですが、こういう人に対して、みんなはどんな感情を抱くんでしょうかね。
しかもその人の親類は同じ宗教でかつ剛信であったにも拘わらずガンで苦しんで死んでしまったというのに、そこで「功徳」はないだろうと思うんですよ。
ここで「信心のお陰でわたしは今も生きている」という人の論理≒心理的リアリティを、普通の人はどういう論理で崩すんですかね。

私の場合は、罹患率やガン死亡率に宗教は無関係だから、キミの生存は何も珍しくない単なる偶然だ。
だから、キミがそう思うのは生き残ってしまったキミだからこそ思える「選択効果」や「観測選択効果」のようなものだ、みたいなことくらいです。
キミが死んでいてもまったくおかしくない状況で、キミが生き残ったのは単なる偶然であって、同じ状況で死んでいった信者もたくさんいるはずだ。しかし、死んでいった信者のことは組織にとってはマズい要素だから隠されがちになっているだけなんだよ、と。

だけどこれが解らないんだよな、カブレている人には。

:::::::::
「選択効果」とは、観測者の性格や能力が、観測される対象の層を偏らせてしまう現象である。よく出される例は、星の明るさの統計をとる場合である。星を一つ一つ観測して、視差やスペクトル線の分析から絶対光度を記憶していったとすると、絶対光度の高い星を数えすぎることになる。かかるい星は遠方にあっても見えるのに、暗い星は近くになければ見えないからだ。
(・・・)
 このような、観測者の能力や立場によって観測結果にあらわれる偏りを補正すること−−「選択効果」を消すことが、客観的データに基づくべき実証科学では重要となってくる。そして、選択効果の中でも最も根深いのは、人間の感覚器官や測定装置の性質や感度といったことでなく、観測者の存在そのものが対象を選択してしまう場合である。それを特に「観測選択効果」と呼ぶ。
:::::::::

つーか、まだうまい説明がありそうだな。

Re(5):モバイル本
 ラクシュン  - 11/10/29(土) 1:13 -

引用なし
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   なんか違うな。「観測選択効果」はポ−ル・ディラックの「巨大数仮説」を念頭においたものだから、ガン友の中で生き残ったケースには当てはまらないな。
単に統計的データだけで説得するしかないということか。

これは自分に対する期待はずれだ。

Re(6):モバイル本
 ラクシュン  - 11/10/29(土) 1:37 -

引用なし
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   にしても、主教にカブれてる人ってほんとうにウザいのよ。
「何処かの誰かがヘンになったでしょう? などと信者が超神秘的なことを匂わすから矛盾がでてきてイヤなのだ」というと悉く「それはその人が悪いんですよ」のトカゲのしっぽ切りで切り抜けようとするんだけど、その「超神秘的」な要素が天から散りばめられていなければ、末端の信者が怯えることもなければ、○△宗は消化器に病気に罹ります。□◇宗の信者は脊髄の病気に罹りますなんてことを発明することもない訳ですよ。

お釈迦様が「人間は凡夫だ」というならお釈迦様自身も凡夫となる訳で、コイツらと同類だと上からモノが言えないということで、「解脱」とか「悟り」という概念を発明したのでしょう。
しかしそれも「凡夫」がやること。
これが、私の宗教に対するイメージです。

ほんとに受け売り専門の教条的な人達がいるんですよ。

Re(7):モバイル本
 ラクシュン  - 11/10/29(土) 1:48 -

引用なし
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   あと、ラカン本よさそうなのがあったら教えてほしいと思います。
脂とかに尋ねても完全無視だった。

Re(8):モバイル本
 Josef  - 11/10/30(日) 17:09 -

引用なし
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   >ラクシュンさん:
>あと、ラカン本よさそうなのがあったら教えてほしいと思います。
>脂とかに尋ねても完全無視だった。

斎藤環『生き延びるためのラカン』バジリコ 2006年

なんかはどうでしょうか。軽すぎますか?

Re(9):モバイル本
 ラクシュン  - 11/11/6(日) 0:18 -

引用なし
パスワード
   >なんかはどうでしょうか。軽すぎますか?

私に軽いかどうか判断できる訳がないじゃないですか。w
最近読書欲がなくなってきたせいかどうか知りませんが、いま二冊目のラカン本に取り掛かっているところです。
いきなり独特な公式みたいなのが出てきて厄介な気分ですけど。

『生き延びるためのラカン』は早速注文しておきます。

Re(10):モバイル本
 ラクシュン  - 11/11/17(木) 0:35 -

引用なし
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   いつも通り文章がむちゃくちゃだな。
現在は『精神分析とユング心理学』と『生き延びるためのラカン』は読了で、『ラカン派精神分析の治療論』は45%みたいな感じ。
ohonoさんの『アーティスト症候群』とかもあったりで、なかなか集中できないということもあったり。
でもなんか現段階では、斉藤さんの本もシックりこないですね。
そもそも「投影」や精神分析の最重要概念?とやらの「転移」という概念から多義的すぎるというか、それだったら何でも転移だろうという気分になるのですが、ここらへんは一応赤坂本との突合せが必要なのかなと思いますね。
斉藤本も日本一解り易いラカン本ということなので、そのあたりの割引が必要だというのは当然なんですけどね。

でもやっぱり精神分析は胡散臭い。
精神病(≒統合失調症)にラカン理論は通用しない、フロイトは失敗例の方が多い、トラウマ的なものは徐々に慣らしていくとか、O嬢の症例はフロイトの捏造であることが詳細に証明されている、自分は臨床では精神分析理論をほとんど使わないとか、だったら何に利用価値があるのかぁ?ってことなんだけどね。
(何だったか、何かの説明に有効だ、みたいなことが書いてあったけど、実を言うと私もその漠然とした(社会理論的な?)利用価値の方に興味があるんですけどね)

でそこで、赤坂本の続きが気になるんですよ。
「だから普通の自然な対応や配慮で済むだろう」という、そもそもの私的な心理療法的な立場(もあるんだけどそれ)ではダメなんだって・・・。
期待しないでゆっくり読みますけど。

Re(11):モバイル本
 [名前なし]  - 11/12/21(水) 23:58 -

引用なし
パスワード
   >「だから普通の自然な対応や配慮で済むだろう」という、そもそもの
>私的な心理療法的な立場(もあるんだけどそれ)ではダメなんだって・・・。

ごめんなさい。
私の文章は、本当に意味が解らないですね。
何の知識もない私の「そもそもの私的な心理療法的な立場」というものも引用を交えて説明しよう、とは思っていたのですが、いろいろな事情があったりで遅くなっています。
まだ読了はしてないのですが、近いうちに引用はする積もりです。

しかし、「転移」って、「調べても出てこない」と言ったら「ウソつけ」って言われたことがあるけど、実際過去の検索では説明がなかったし、これまでの知識からいっても、そんなに2行や3行や4行や5行や6行や7行や8行や10行や20行やで済まされるような内容ではなさそうですよ。
どーも、「転移」は意識レベルと無意識レベルとに分かれていてそれぞれが(というか少なくとも無意識レベルは)、「陰性」と「陽性」に分かれているようですよ。
で、意識レベルの「転移」が治療に有効だ、みたいな感触ぅ???

引用について
 ラクション  - 12/1/9(月) 12:07 -

引用なし
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   引用が長くなっても問題ありそうだし、これを引用したからって何がどう変わるという訳でもないということもあったりで遅くなりましたが、約束だしま分割して引用すればいいのかなーという感じで。
あんまり意味ないと思うけど。

::::::::::::::
  4.オーウェン・レニックの症例
 間主観性学派からの症例としては「分析において手の内を見せてトランプをすること−−自己開示の問題へのアプローチ」という論文でレニックが報告しているアンの症例を取り上げよう(;Renik,1999:521‐540)。レニックはこの症例を通して、トランプを表向きにすること、すなわち自己開示が有用であることを主張しており、自己開示の機能として、分析家の脱理想化よりも、むしろ患者の権限の拡大を重視し、それによって患者と分析家を同等の水準に置くことを目指している。まずはアンの症例の概略を示すことからはじめよう。
        *
 アンは報道記者として働いている女性であり、対人関係に問題を抱えていた。それは夫との関係にも表れていた。「分析中、アンは夫についての批判的な考えが生じたとき、それを自己不信に代えながら、こうした考えを放棄しなければならないと感じているように思われた」とレニックは記述している。例えば、アンが仕事の話を夫に熱心にした話しているとき、夫は無関心であるように感じられ、その理由を彼女は夫が自分の仕事の成功をおそれているからだと考えたが、最終的には自分の話し方に問題があるのだと結論したりするのである。
 分析家ははじめに夫との関係を母親との関係に結びつけようとした。なぜなら、アンは、母親は愛情はあるが支配的な人物だと感じていたからである。彼女は母親にたいしてアンビバレントな感情を持っていた。
 分析の転機は、分析家が率直になることによってやって来た。アンが前述の夫の話をしたあと、分析家は「私は困惑しています。どうしてあなたは自分の話し方によって夫が興味を失ったと感じたのですか」と言った。するとアンは分析家に率直になるように求めた。彼女は「先生が困惑しているとは思いません。先生は何が起こっているかについてある見解をおもちでしょう。どうして思った通りにおっしゃらないのです」と言い、さらに「(…)とうして先生が心配されいる通りに説明されないのですか。代わりに先生は困惑しているとおっしゃり、それは本当ではないし、(…)どうして先生が心配されている通りに説明されないのですか。代わりに先生は困惑しているとおっしゃり、それは本当ではないし、(…)なぜそんなデタラメを言うのです」と述べた。
:::::p48-49:::::::::
(つづく)

Re(1):引用について
 ラクション  - 12/1/24(火) 0:49 -

引用なし
パスワード
   :::::::::::::::
 このような会話のあと分析家は率直に、自分はアンの母親のように支配的な人物だとは思われたくないこと、アンが母親から得たと感じた無遠慮さは自分が特に嫌いなものであること、そしてそのために、アンが自分と母親を異なったように体験していると自分が確信するために苦労していたことを語った。
 その翌日の面接で、アンは前回の面接がとても有用であったと述べた。その理由は以下のようなものだった。彼女は分析家が分析家に関する彼女の見解を気にすることがあるとは考えたこともなく、分析家とは完全に自信家で、傲慢であると考えており、それは夫に対しても同様であった。しかし、前日の面接で分析家は完全ではないとわかったという。そこで彼女は今度は夫に自分の賛同を気にかけているか尋ねてみた。すると、夫はその懸念を認めたのである。会話の際に夫が沈黙するのは、自分に対してアンが次のようなことを思っていると考えてしまったからであった。つまり"いつも夫は私の話に対して一足飛びに結論してしまう"とアンが思っている、と夫は考えていたのである。
 この出来事を通して、アンは自分の大げさで誇張された感覚を人に伝えることで、他の人々を不注意に怯えさせる可能性があることを洞察する。レニックは彼女自身の結論を次のように記述している。「彼女は必要以上に、自分にとって大切な人々が、母親のしていたように、自分を扱うであろうと仮定しがちであり、そしてこの予測が、彼女の個人的な関係に、思いがけない、破壊的な影響よ及ぼしていた」。
 さらにレニックは、咽頭炎のために面接をキャンセルしい旨をアンに電話で伝えたところ、それに対して彼女が子どもじみた怒りを感じたこと、また、彼女が身体のラインがはっきりするドレスを着てきて、分析家に感想を求め、分析家が「すばらしい」と言うことによって、父親との性的な思い出(父親は彼女に女性性を感じつつも、それを認めようとしなかった)が想起されたことを報告している。
:::::::::::::::

あとまぁ何たらかんたら…

Re(2):引用について
 ラクシュン  - 12/2/26(日) 1:15 -

引用なし
パスワード
   「何の知識もない私の「そもそもの私的な心理療法的な立場」」というのは、そものも精神分析なんてものは学問的に認められていない上に、心に対して心が反省する(orを促す)といった自己言及的な試みみたいなことには限界があるんだから、症状さえ改善すればそれでよしとするしかないだろう…という考えからのものだったんですよね。
しかし(適当な要約になりますが)それではダメだと言うのがラカン派の見解のようですよ。
引用のレニックの症例での誤りは、分析主体(患者)と分析家の二項関係(個々人の関係:これはどうも「愛」になるらしい)で治療が収束してしまっているためだということなのですね。
どうも三項(三者?)関係で分析主体に「こうなのだ」「こうあるべきなのだ」的なことを自ら悟らせることがラカン派の治療論の主眼のような感じなのですね。
だから「スカンシオン」とかいった一方的にセッションを切り上げるといった方法が採用されてしまう、みたいな感じかな。

しかし何か残るんだなー・・・

Re(3):引用について
 バジル二世  - 12/3/6(火) 9:30 -

引用なし
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   >ラクシュンさん:

お久しぶりです。

>どうも三項(三者?)関係で分析主体に「こうなのだ」「こうあるべきなのだ」的なことを自ら悟らせることがラカン派の治療論の主眼のような感じなのですね。

精神科医にしてみたら「『自ら悟』れるくらいならアンは病気ではない」と相手にしないでしょう。現代医療で病気となるのは、誰が言っても周囲が「支配的な」扱いをするという誤った認識をアンが変えられないときですから。

ただ、訂正不能な(=誰が言っても変えられない)誤った現状認識=妄想で、これがある人の状態を病気とするなら、信じられないような神秘的な体験をしてそれが実際に起こったと考えている人などは病気ということになってしまいます。

そのような体験に遭遇することは科学的にありえないことではなく、そのような体験が何度も立て続けに起こることも確立としては小さいが考えられないことではありません。それを病気と断定してしまう医療もどうかと思うのです。

Re(4):引用について
 ラクシュン  - 12/3/28(水) 2:02 -

引用なし
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   ラカンについては、ずーっと言い足りなさを感じているのですが、忙しくてあれから本は再読していません。
#かなり突っ込んで書かれている本のようですが、再読したからって何が出てくるのかということは措いといて。


>精神科医にしてみたら「『自ら悟』れるくらいならアンは病気ではない」
>と相手にしないでしょう。

というか、「自ら悟」っていれば、そもそも分析家の門を叩いたりしないということだと思います。

>現代医療で病気となるのは、誰が言っても周囲が「支配的な」扱いを
>するという誤った認識をアンが変えられないときですから。

例えばですよ、「誰が言っても」の「誰」が精神科医だったとしても、それは精神科医や精神分析家の範疇でしかないわけでしょ?

>訂正不能な(=誰が言っても変えられない)誤った現状認識=妄想で、
>これがある人の状態を病気とするなら、信じられないような神秘的な
>体験をしてそれが実際に起こったと考えている人などは病気ということ
>になってしまいます。

私はこれは、錯覚だと思います。
これは私がこのスレで書いた「宗教」の話に関連付けられているのかも知れませんが、この件は明らかな錯覚です。

…ちなみに、NHKの「ブッダ」の番組などを見ても、ブッダ(=目覚めた人)は他力本願的な思想を提唱していたわけではなさそうだし。

Re(5):引用について
 ラクシュン  - 12/3/28(水) 2:27 -

引用なし
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   というか、精神分析は「エディプス三角形」という固定的なものを基盤にしているようなので、「オレは宇宙人に拉致されそうになった!」とか「観音様がオレを転落死から救ってくれた!」などというそこからハズれた思い込みは、そもそも扱えないと思います。

Re(6):引用について
 バジル二世  - 12/4/2(月) 0:12 -

引用なし
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     懐かしいなぁ(週刊「モーニング」)

ttp://www.youtube.com/watch?v=8SDNOh7NuQg

>というか、「自ら悟」っていれば、そもそも分析家の門を叩いたりしないということだと思います。

初診は悟らないままなのは医師も分析家も一緒、悟った時が治療の一段階であるのも一緒ですね。医師/分析家の二分法はあまり意味がないみたいですね。分析家≒代替医療施療者のような感じがしたけど…。

>例えばですよ、「誰が言っても」の「誰」が精神科医だったとしても、それは精神科医や精神分析家の範疇でしかないわけでしょ?

ところで、基本的なことで恐縮ですが「私的な心理療法的な立場」というのはレニックの症例とどういう関係があって、レニックはラカン派とどういう関係なのですか?

>>訂正不能な(=誰が言っても変えられない)誤った現状認識=妄想で、
>>これがある人の状態を病気とするなら、信じられないような神秘的な
>>体験をしてそれが実際に起こったと考えている人などは病気ということ
>>になってしまいます。
>
>私はこれは、錯覚だと思います。
>これは私がこのスレで書いた「宗教」の話に関連付けられているのかも知れませんが、この件は明らかな錯覚です。

その「超神秘的」な宗教の話は念頭にありませんでしたw。たしかにその宗派の人(たち?)は褒められた態度じゃないです。
 
>…ちなみに、NHKの「ブッダ」の番組などを見ても、ブッダ(=目覚めた人)は他力本願的な思想を提唱していたわけではなさそうだし。

でも他力本願はブッダがガンガンやれと言った方便ではないですか?

>というか、精神分析は「エディプス三角形」という固定的なものを基盤にしているようなので、「オレは宇宙人に拉致されそうになった!」とか「観音様がオレを転落死から救ってくれた!」などというそこからハズれた思い込みは、そもそも扱えないと思います。

実態は、そういう頑固でブットんだ思い込みを持ってもそれだけでは医師・分析家は扱いはしないのに、ではどのような状態になったら扱うのか、大変恐ろしいです。他方、医師が「『宇宙人に拉致され』かけた夜は、女性に告白メールを送ったろう、リピドーが過剰なんですよ」とフロイトを引きながら、ドーパミン仮説に基づいた抗精神病薬を処方しているのも実態でしょう。


Re(7):引用について
 ラクシュン  - 12/4/13(金) 0:39 -

引用なし
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   >>というか、「自ら悟」っていれば、そもそも分析家の門を叩いたりしないということだと思います。

>初診は悟らないままなのは医師も分析家も一緒、悟った時が治療の一段階であるのも一緒ですね。医師/分析家の二分法はあまり意味がないみたいですね。分析家≒代替医療施療者のような感じがしたけど…。

「分析家」と「医師」は違いますよ、としか言えないです。


>ところで、基本的なことで恐縮ですが「私的な心理療法的な立場」というのはレニックの症例とどういう関係があって、レニックはラカン派とどういう関係なのですか?

「「私的な心理療法的な立場」」というのは、「症状さえ改善すればそれでよしとする」という私の精神分析に対する思い込みのようなものだったのですが、レニックはそのまんまのような治療法なんですよね。それが自ら「手の内を見せてトランプをする」とか「自己開示」みたいな文言に表れているわけで。

レニックとラカン派との違いを私なりに単純化して言うと(それしか言えないから)、例えば、我が子が万引きをして補導されたケースなどを想定すれば、父親の子どもに対する「オマエがこんなことをしたら、お父さんの出世に響くし困るんだよな。オマエだって学校を退学になれば将来的に困るだろう。だから万引きなんて止めるべきなんだよ。」という説得に「うん、わかったよ」と子どもが納得してもこれは所詮は取引に関わる「自己開示」の世界でしかないのですよね。

それがこの部分にあたると思う。
「このような会話のあと分析家は率直に、自分はアンの母親のように支配的な人物だとは思われたくないこと、アンが母親から得たと感じた無遠慮さは自分が特に嫌いなものであること、そしてそのために、アンが自分と母親を異なったように体験していると自分が確信するために苦労していたことを語った。」
このコミュニケーションはおそらく、「愛」=「想像界」にあたるのかも知れませんね。

そうではなくて、ここでは「万引きなんて、絶対にダメだー!!!」という姿勢こそが、第三項=「象徴界」=法の存在を暗示させる態度に繋がるのだー、みたいなのがラカン派なのかな、と。

Re(8):引用について
 ラクシュン  - 12/4/13(金) 0:49 -

引用なし
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   またよく読んで他の症例を書くかも知れませんが、自己言及的な観は否めません。
ブッダも同じだと思うけど。
これはまぁ「人間」=「システム」の限界だろう、などと。

Re(9):引用について
 バジル二世  - 12/4/19(木) 8:20 -

引用なし
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   >このコミュニケーションはおそらく、「愛」=「想像界」にあたるのかも知れませんね。

「俺も昔、悪友たちにそそのかされてなあ」と自分の後悔を語る諭し方もあったりして、それができる親はいいなと思う。損得勘定ではない。

ラカン
 ラクシュン  - 12/5/2(水) 23:39 -

引用なし
パスワード
   なんだかんだいって、『ラカンは間違っている』(エヴァンス)と『ラカンはこう読め!』(ジジェク)を読んでますが(ジジェクは半分)、正解というか賛同するのはエヴァンスの方ですね。

何かねー、ジジェクは、シェークスピアの一節とか、どこかの画家の絵が、ラカンの○△の理論の好例だ!みたいなことをしきりに言うんだけど、その作者がラカンより前に死んでたりしたら目もあてられない、みたいな感じなんですよね。

でね、私には、何でラカンに対する批判本が溢れかえっている(らしい)世の中であるにも拘わらず、何故延々とラカン人気が続くのかという疑問が前からあるのですが(英語圏では無名らしい…ドイツはどうなのか?)、やっぱりその原因は論理学の公理(人間の思考の基盤?)にあるとしか思えないんですよねえ。

なんかねー、そこには「ならば」演算子が機械的に展開されているだけなんですよ。あくまでも直感ですが、この構造だったら何でもそこにブチ込めそうな気がするんですよ。

前にJosefさんが、同じ所をグルグル回らせていまうヘーゲルを、「熊野郎」と表現したことがあったと思うのですが、その構造に近いものがあるのかなー…。

Re(1):ラカン
 バジル二世  - 12/5/9(水) 19:24 -

引用なし
パスワード
   ラクシュンさん、こんばんは。

>なんかねー、そこには「ならば」演算子が機械的に展開されているだけなんですよ。あくまでも直感ですが、この構造だったら何でもそこにブチ込めそうな気がするんですよ。

そんな中立的な理由で支持されているわけもないと思うのですが、基盤になっているのは仰っているように「エディプス三角形」なのですよね。それへの個々の人間行動のアナロジーが展開されているというふうに理解しています。

アナロジーによる分析が信頼されるかどうかは使われ方や使う人間の性質如何によるところが大きいと思うので、自分と違う意見の人間たちにダメ出しするための道具になることが多いなら信用を落としますよね。そのような使い方をする人はどうせマンカスですよ。

で、アナロジーは科学的には疑問符が付くのでしょうけれど、まあ科学的に怪しいものが必ずしも的を射ないわけではないし、信頼される場合もあります。人間臭くて面白い時は好感されます。

今読んでいる大阪の寝具商の本に原油輸入自由化の年の彼の先々代の経済見通しについての思い出をオイルショックの翌年であるそれから12年後に発表したエッセーに書いてます。つまり高度成長期といわれる時期をまたいだ雑感ですか。
……………………………………………………………………………………
 ところでプロの評論家は自分の予想が外れると、あとあとの講演のギャラに影響するから、どうしても尻尾をつかまれず、どっちへ転んでもケガのない言い方をするものだが、これでは面白くないのは当たり前。その点彼の予想はおおらかなものであった。
 「虎は日に千里往って千里還るということですよって、今年はえろう荒れる年になりそうでんナ。大正三年の寅は第一次大戦、昭和二十五年には朝鮮動乱が起きとります。とにかく世界的な事件が起きやすい年ですよってに、よほど気イつけまへんと……」
 これは彼の昭和三十七年寅年の予想。ただしこの年はあいにく世界的な大事件は起きていない。しかし繊維界では、この年綿紡が戦後最高の三六%の操短をやっているから荒れた年には違いない。
 さて同じ寅年の今年はと言えば、ご存知のとおりのそれこそ世界的、未曽有の不況、繊維界もご覧の有様。
 「そやさかい、言わんこっちゃあない……」と泉下の彼、キセル片手に鼻うごめかしているは必定である。
 彼もしかし、まんざら当てずっぽうやカンだけで卦を立てていたわけではない。無類の金庫好きだった彼自慢の金庫の中には、肝心の現金は一文もなく、彼が尊敬する方たちから貰ったたくさんの手紙の類と共に一枚の図表が収蔵されてあった。
 厚手の紙に二つの円形図表、それぞれに表題があり、一つは経済界循環表=Aいま一つは経済軌道≠ニある。経済軌道にはーー此表ハ英国ケンブリッジ大学校経済学教授マシキアル氏ノ調製ニカカル英国恐慌循環、西暦一八四七年(弘化四年)、一八五七年(安政四年)、一八六七年(慶応三年)例ニ拠レリーーとしてある。
 しかし彼が占卜に利用したのは、むしろもう一つの経済循環表の方だったが、このケインズばりの循環表の出典は審らかではなく、ただ脇田先生蔵書の写、和田哲夫著とあるだけである。(和田亮介「扇子商法」より)
……………………………………………………………………………………
一代で会社を築いた商売人が自分が手探りで編み出した手法と頑固な人生哲学を基盤に世の中を見立てる。こういうの好きです。

関東平野は雨が降ってきましたね。 頓珍漢なこと書いてると思うので、できたらご指摘願います。

Re(2):ラカン
 ラクシュン  - 12/5/15(火) 21:38 -

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   こんばんは。

>基盤になっているのは仰っているように「エディプス三角形」なのですよね。
>それへの個々の人間行動のアナロジーが展開されているというふうに理解しています。

その本の内容はそうだったのですが、はたして理論全体が「エディプス三角形」に限定されているのかどうかは私なんかには解りません。

例えばですよ、不治の病で長く苦しんで死んだ父親のことを夢に見る男性がいて、「父はまた生き返って、昔のようにその彼と話をしている。ところが彼は、父がもう死んでしまっているのに、それを知らないのを極めて心苦しく感じていた」、ということがあったんですって。しかしそれをフロイト(精神分析家)が無意識的欲望のレベルで読み替えると、「彼の父は「彼が望んだ通りに」死んでいたが、「彼がそう望んでいた」ことを知らなかった」という意味になるんですって。なのでこの彼の言表は、「病から救われるために父が死ぬことを願ったという彼の自己非難を表している」ということなんですよ。
しかしそれって、わざわざ「無意識的欲望レベル」で読み替える必要があるんでしょうかねえ。
すごく蛇足的な気がするんだけど。
だってそのことは既に彼は知って(気付いて)いるはずでしょう。
だからこそ「心苦しく感じて」いる訳だから。

で例えばですよ、ここに「アナロジー」という概念を強引にブチ込んだとすれば、人間(彼)の心理と「無意識」が似てる?から、人間の心理がこうなら「無意識」もおそらくこうなのだろう、と言えるのかどうかということですよ。
私がヘンな感じがするのは。

因みに、ここにオイディプス(父殺し?)が密輸入されて、だから「エディプス三角形」だー、とかって展開があるのかないのかも知らないです。

Re(3):ラカン
 ラクシュン  - 12/5/15(火) 22:14 -

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   あと考えられそうなのは、その彼は、父がいくら苦しんでも一日でも長生きしてほしい、「父の死を望ん」だことなど一度もないと言う(完璧な「抑圧」がある?)なら、文字通りに父が「死んでしまっていることを知らない」で表れてくること自体を「心苦しく感じて」いる可能性もあるはずですよね。

Re(4):ラカン
 ラクシュン  - 12/5/18(金) 0:40 -

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   >(完璧な「抑圧」がある?)なら、

ここはちょっと違いました。「父の死を望ん」だことなど事実としてただの一度もなかったという可能性もあるわけだから、その仮定の下では、文字通りに父が自分が「死んでしまっていることを知らない」で表れてくること自体を哀れんで「心苦しく感じて」いる可能性もあるだろうという意味です。

フロイトがいやそれは違うと言うなら、その「無意識」レベルは自分(or人間)の意識レベル内の話だろうみたいなこと。だからこのことだけをもって、「無意識」「抑圧」などは語れないだろうと思うわけで。

Re(5):ラカン
 ラクシュン  - 12/5/18(金) 0:43 -

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   基本的にフロイト≒ラカンということで。

Re(3):ラカン
 バジル二世  - 12/5/23(水) 17:58 -

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   こんにちは。

>で例えばですよ、ここに「アナロジー」という概念を強引にブチ込んだとすれば、人間(彼)の心理と「無意識」が似てる?から、人間の心理がこうなら「無意識」もおそらくこうなのだろう、と言えるのかどうかということですよ。

指導原理ですかね。あらかじめそれよりも下位の「学」のゴールを決めてしまって、それに合うようにその「学」が事実を解釈し、指導原理の標本作りをしていく。「エディプス三角形」に精神分析が証拠を提供していく…みたいな。

法則が一般化されるときには通らなければならない道なんだろうけれど、その法則を無理筋だと思っている側の感覚とは摩擦を起こす。あるいは、ものすごい残酷物語も生まれる。精神医療におけるロボトミー手術のようにです。

Re(4):ラカン
 ラクシュン  - 12/5/23(水) 22:24 -

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   >法則が一般化されるときには通らなければならない道なんだろうけれど、
>その法則を無理筋だと思っている側の感覚とは摩擦を起こす。
>あるいは、ものすごい残酷物語も生まれる。精神医療におけるロボトミー手術のようにです。

「法則」は普通は絶対的なものであって、そもそも検証不可能な理論は非科学的な理論でしかないでしょう。
例の彼のことで言えば、親の死に直面する立場の人間なら、誰だって経験せざるを得ない通過儀礼みたいなものだと想像します(なので未経験な私であっても充分に想像できた)。
それは親の死を全く望んでいなかったとしても、例えば、親孝行が(たぶん充分にしていても)できなかったという取り戻せない負い目を背負い込んでしまう心理的(改悟の念的)メカニズムは大半のケースに当てはまると思いますよ。
そんなことから、「無意識」の存在やその構造がアナロジー的に推定できるはずはないだろうということです。

…とは言っても、全面的に否定するつもりはないんですけどね。というのも、精神分析理論を社会理論へ外挿することの意味を感じている私としてはですね。
しかしたぶん使い方の意味が違うんだろうなーという気がするけどよく解らない。

Re(5):ラカン
 バジル二世  - 12/6/4(月) 11:23 -

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   >例の彼のことで言えば、親の死に直面する立場の人間なら、誰だって経験せざるを得ない通過儀礼みたいなものだと想像します(なので未経験な私であっても充分に想像できた)。
>それは親の死を全く望んでいなかったとしても、例えば、親孝行が(たぶん充分にしていても)できなかったという取り戻せない負い目を背負い込んでしまう心理的(改悟の念的)メカニズムは大半のケースに当てはまると思いますよ。

そのやうなものを病気とみなして地位や金を得る人たちがゐます。先般、「まとまりがない」ことを言ったり気分が落ち込む症状の改善などを目的に大脳皮質の一部を切除する手術のことに触れました。だまされてこの手術を受けさせられた男が殺人を犯し、無期懲役刑を言い渡されました。ですが、彼の償うべき罪とは何でせう?

この男に手術を受けさせることを治療と言った人たちのいふ健康、この人を無期懲役に処することを決めた裁判官の正義とはいったい何なのかと考へるのです。

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