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防衛大臣の失言 tpkn 07/7/6(金) 21:21
  Re(1):防衛大臣の失言 Josef 07/7/9(月) 18:47
  個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言 猫まんこ 07/7/10(火) 20:05
   Re(1):個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言 tpkn 07/7/10(火) 21:11
   Re(1):個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言 Josef 07/7/11(水) 20:36
   歌う、食う、射精する、、、古典的な自我拡大欲求... 猫まんこ 07/7/13(金) 18:53
   Re(1):歌う、食う、射精する、、、古典的な自我拡... Josef 07/7/16(月) 14:50
   Re(2):個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言 猫まんこ 07/7/13(金) 18:55
   Re(3):個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言 Josef 07/7/16(月) 15:11
  Re(1):防衛大臣の失言 tpkn 07/7/29(日) 23:02
   Re(2):防衛大臣の失言 芥屋@keya1984 07/7/30(月) 0:45
   Re(3):防衛大臣の失言 tpkn 07/7/30(月) 6:52
   Re(4):防衛大臣の失言 芥屋@keya1984 07/7/30(月) 22:15

防衛大臣の失言
 tpkn  - 07/7/6(金) 21:21 -

引用なし
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   と、それに対する与野党の反応について芥屋さんはきっとひとことあるに違いない!

と思って毎日ブログをチェックしてますがお忙しそうですね…。

Re(1):防衛大臣の失言
 Josef  - 07/7/9(月) 18:47 -

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   アニキは寄せては返す「波」のような動的な文体で書く人ですが、書く頻度にも大きな「波」がありますね。というより、彼の大きな波のような身体リズムが文体に現れているのかもしれません。

社会学者の大澤真幸はオウム信者たちを「アイロニカルな没入」と呼びました(ちくま新書『虚構の時代の果て』)。意識の水準では麻原の「虚」に対してアイロニカルな立場を取りつつ、行為の水準ではその「虚」の審級に準拠し、「虚」に内在してしまう。平たく言えば、ウソと分かっているけれど、行動はそのウソを真実として演じる。この時、自己の「内面」は、もはやそこに準拠して行動する場ではなくなっている。

「失言」に対する世間の態度も少し似ているような気がします。久間発言に心底怒っているわけではない。「けしからん」という与野党・左右を問わぬ声及びそれを伝えるマスコミ報道に、「所詮『失言』が政治や選挙の道具になっているだけだよな」というふうな「距離」を取っている。しかし行動の水準では、「あれは被曝者をはじめとして世間の人々を怒らせるひどい発言だった」という、自己の内面に立脚しない「虚構」に依拠する。そこから現れる最大公約数的意見は「私個人は別に怒ってはいないが、立場をわきまえぬ発言をした久間は大臣として失格」という感じではないかと思います。そしてその結果が内閣支持率低下等として現れ、それがまた「やっぱりあれはひどい発言だったのだ」という「他者の怒り」と「許されぬ失言」という判断への信憑を強める。

昔に比べれば人々はある意味賢くなりました。新聞やテレビの情報を頭から信じる人は少なくなりました。いわばそうしたものにアイロニカルに接するようになってきた。ところがそれと反比例するように、自らの行動の基準を「虚」たる他者に置くようになる度合いが強くなっているのではないか。意識と行動が乖離し、その乖離を矛盾なく生きることに慣れてきているのではないか。しかし乖離は乖離だから、時に「こんな行動を取っている私は誰?」という疑問が起こる。いや、「私は誰?」という内面の喪失現象こそが行動を虚の水準に委ねてしまう原因かもしれません。
「失言」への国民的非難は原爆への怒りが依然として強いことをではなく、怒りが形骸化していることをこそ示しているのだと思います。

ちなみに私は「失言」を出るべくして出たもの、それどころか誰かが言わねばならなかったものだと思います。欺瞞的な家族ごっこを演じている家庭で、子供の一人が非行に走って家族ごっこをぶち壊してしまうとき、その非行は起こるべくして起こったものだと言いうるような意味で。
原爆を、原爆だけではなく都市空襲による無差別殺戮も、戦後の日本は事実上「しょうがない」ものとして扱ってきた。そう扱わざるをえなかった。戦前を全否定することとセットで。そしてそこに平和国家だの平和都市だの非核三原則だのといった「平和な家族ごっこ」を覆いかぶせてきた。おっちょこちょいの久間氏はついぽろりと言ってしまった。思わず万引きをしてしまった「平和な家庭」の子供のように。

個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言
 猫まんこ  - 07/7/10(火) 20:05 -

引用なし
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   >Josefさん:

>社会学者の大澤真幸はオウム信者たちを「アイロニカルな没入」と呼びました(ちくま新書『虚構の時代の果て』)。意識の水準では麻原の「虚」に対してアイロニカルな立場を取りつつ、行為の水準ではその「虚」の審級に準拠し、「虚」に内在してしまう。平たく言えば、ウソと分かっているけれど、行動はそのウソを真実として演じる。この時、自己の「内面」は、もはやそこに準拠して行動する場ではなくなっている。
>

それこそがモダーンな、『洗練された表現行為』というヤツではないでしょうか?
裏返せば「個人の内実に基づいたもの」など誰も求めてはいない。と。


>昔に比べれば人々はある意味賢くなりました。新聞やテレビの情報を頭から信じる人は少なくなりました。いわばそうしたものにアイロニカルに接するようになってきた。ところがそれと反比例するように、自らの行動の基準を「虚」たる他者に置くようになる度合いが強くなっているのではないか。意識と行動が乖離し、その乖離を矛盾なく生きることに慣れてきているのではないか。しかし乖離は乖離だから、時に「こんな行動を取っている私は誰?」という疑問が起こる。いや、「私は誰?」という内面の喪失現象こそが行動を虚の水準に委ねてしまう原因かもしれません。
>「失言」への国民的非難は原爆への怒りが依然として強いことをではなく、怒りが形骸化していることをこそ示しているのだと思います。
>

その分裂症的な乖離は倒錯ではありますが、しかし、私たちにとって決して「不利」なことではない。むしろ、さまざまな表現行為を「豊か」にするものだと考えます。

例えば、「戦争はよくない」「原爆は悲惨だ」という紋切り型の「表現」(火垂るの墓とかはだしのゲンとか新派とか?)が無効になってしまった今だからこそ、網の目のように張り巡らされたアイロニカルな倒錯を掻い潜って人の心を掴む表現がありうる。

舞台ですが、やや「古いタイプの表現者」に野田秀樹がいます(漫画でいえば萩尾望都、作家だと倉橋由美子みたいな?)。
.しかし、それでも、その才覚で、知的な罠を用いて、倒錯に倒錯を重ねあわす事で「形骸化したスローガン」をリアルなものとする場合もある。
氏の作品「パンドラの鐘」「オイル」は凡百の「反戦・反原爆」では届かなくなってしまった所を確実に打つ、最も良質な作品でしょう。

また、普通に男女間のエロスがリアル過ぎて、か、色褪せすぎている状況では男を女が演じる宝塚的な物が説得力をもつ。
一度ほつれたリボンはそのほつれを解こうとするよりも、むしろそのほつれに別のほつれを重ねあわすほかはありません。
いまさら「原始社会に還れ」なんてちゃんちゃら可笑しいでしょう?

表に見える圧倒多数は「サザエさん」「水戸肛門」であろう現在では、全て上滑りに見えるでしょうが、全ての表現行為は政治的に進化してるんじゃないか?と私は楽観してるのです。

>ちなみに私は「失言」を出るべくして出たもの、それどころか誰かが言わねばならなかったものだと思います。欺瞞的な家族ごっこを演じている家庭で、子供の一人が非行に走って家族ごっこをぶち壊してしまうとき、その非行は起こるべくして起こったものだと言いうるような意味で。
>原爆を、原爆だけではなく都市空襲による無差別殺戮も、戦後の日本は事実上「しょうがない」ものとして扱ってきた。そう扱わざるをえなかった。戦前を全否定することとセットで。そしてそこに平和国家だの平和都市だの非核三原則だのといった「平和な家族ごっこ」を覆いかぶせてきた。おっちょこちょいの久間氏はついぽろりと言ってしまった。思わず万引きをしてしまった「平和な家庭」の子供のように。


確かに武器=道具でしかない『原爆』のみを問題視してそれを悪意をもって落とした当事者=アメリカに対する『感情』をスルーする事は、例えそれが親であれば、そんな親をみて子供は「情けない、欺瞞だ」と思うかもしれず、また違う子供であれば、そんな親を「立派だ」と感じるかもしれませんが、いづれもそれが、その子供たちが親のようにならない(あるいはなる)事を意味するものではありません。

Re(1):個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言
 tpkn  - 07/7/10(火) 21:11 -

引用なし
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   >はだしのゲンとか

ちがうだろう。

Re(1):個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言
 Josef  - 07/7/11(水) 20:36 -

引用なし
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   >それこそがモダーンな、『洗練された表現行為』というヤツではないでしょうか?
>裏返せば「個人の内実に基づいたもの」など誰も求めてはいない。と。

「誰も求めてはいない」は言えてます。その手のものから距離を取り、茶化し、笑いのめすのが80年代的ポスモダゲームだったわけで、それを洗練と言えば言えなくもないでしょう。しかしそのゲームの参加者が湾岸戦争というリアリティに直面して言葉を失ったり、オウムのような虚構に簡単にやられたりするのを見ると、あまりにもひ弱な洗練だったのではないでしょうか。

猫まんこさんは「表現行為」に照準を合わせて語っています。仰る通りなのかもしれませんが、読みながら私はトーマス・マンの「生vs.芸術」という古典的な二律背反を思いました。生の充溢と芸術とは逆比例する。ブッデンブローク家は代を替えるごとに生命力を失い、没落していく。対して、芸術的感性は洗練の度を増し研ぎ澄まされていく。

かつて「最近の子は鉛筆もろくに削れない」という年配者の言葉に対して「でも僕たちはあなた方の弾けないギターを弾くことができる」と若者が返したという話がありました。刃物もギターも両方、というわけにはなかなかいかないんでしょうかね。

>確かに武器=道具でしかない『原爆』のみを問題視してそれを悪意をもって落とした当事者=アメリカに対する『感情』をスルーする事は、例えそれが親であれば、そんな親をみて子供は「情けない、欺瞞だ」と思うかもしれず、また違う子供であれば、そんな親を「立派だ」と感じるかもしれませんが、いづれもそれが、その子供たちが親のようにならない(あるいはなる)事を意味するものではありません。

子供がどうなるかは不可知ですね。だから「こうすれば良くなる」という分かりやすい処方箋は眉唾でしょう。
それは別として、私はアメリカを非難すべしとはあまり思ってないんですね。「安らかに眠ってください/過ちは繰り返しませんから」という主語も批判も明示されぬ碑文が私は割と好きで、理由は、起こったことを受容した上で未来に向かう集合的意志をここに読み取るからです。あえてそう読み取るというだけですが、ポイントは「過ち」が過去の受容(赦しではない)なのか否認なのかです。

岸田秀の良き読者である猫まんこさんには賛成反対は別として言わんとすることは伝わると思いますが、彼に「自己嫌悪の効用」というエッセイがありますよね。戦後日本は彼のいう自己嫌悪をやってきたと思うのです。自分(のある一部、責めやすい部分)を責めることで、責めている「真の自分」なる虚構を拵えるという、「卑劣」なことをやってきた、と。戦後の「反省」とは否認すなわち「嫌悪」だった。これをそのままアメリカへ非難の向きだけ変えても自罰が他罰に替わるにすぎず、単に「嫌米」になるだけでしょう。マックを頬張りながらの嫌米。

「しょうがない」はそこを期せずして突いている。「否認」や「嫌悪」は対象を変えません。変えるどころか強迫的に反復するしかない。隠された目的が「真の自己」の捏造ならば当然そうなるでしょう。対象を変えるのではなく温存してしまう否認は、見かけとは異なり、何も変えないこと、つまり「しょうがない」としてうっちゃってしまうことと大差ありません。久間発言はそこを突いた。それは久間氏の意図の問題ではなく、受け取る側の問題です。「しょうがない」への非難もまた久間批判の形をとった自己嫌悪のように思われます。

歌う、食う、射精する、、、古典的な自我拡大欲求...
 猫まんこ  - 07/7/13(金) 18:53 -

引用なし
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   >猫まんこさんは「表現行為」に照準を合わせて語っています。仰る通りなのかもしれませんが、読みながら私はトーマス・マンの「生vs.芸術」という古典的な二律背反を思いました。生の充溢と芸術とは逆比例する。ブッデンブローク家は代を替えるごとに生命力を失い、没落していく。対して、芸術的感性は洗練の度を増し研ぎ澄まされていく。
>

例えば、風俗、ポルノを含めた、「性」を対象とした表現=産業はとても大きく「豊か」です。
それを私は「ヒトの性が豊かで自由になった」と表現します。
しかし、それは同時に「ヒトの性が貧困になり、不自由になったのだ」という意味を含みますし、両者は矛盾しません。

『生の充溢』とはいかなる物なのか。
自身の身体的な万能感を拡大し、世界(観)を拡大するという事ではないでしょうか。

しかし、そこでも決して個人が逃れられない事がある。それは肉体の死です。
獲得した世界をそこでは無常に手放さざるえない。だからこそ死は恐怖なのですね。
そこで、死の恐怖を緩和するため、肉体的な遺伝子上は連続した子孫に獲得したものをひきつがせる、といった「物語」により自我の死をまぬがれようとする。

『芸術』というのもそういった方便のひとつではないのでしょうか。
古代の王がピラミッドや様々な宗教施設を造ったのもそういう理由だと理解出来ないでしょうか。

肉体の死は逃れられないが、自我=物語は死後もその制約を受けない。
ヒトは肉体を生きてるのではなく、肉体を離れた自我=物語を生きてるとはいえないでしょうか。


>かつて「最近の子は鉛筆もろくに削れない」という年配者の言葉に対して「でも僕たちはあなた方の弾けないギターを弾くことができる」と若者が返したという話がありました。刃物もギターも両方、というわけにはなかなかいかないんでしょうかね。
>

空を飛ぶことを望んだクジラはもうクジラではなく、海のなかを生きることを望んだ鳥はもう鳥ではなくなる・・・とか。
両者を望むものはそのどちらでもなくなる。とか。

Re(2):個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言
 猫まんこ  - 07/7/13(金) 18:55 -

引用なし
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   >>確かに武器=道具でしかない『原爆』のみを問題視してそれを悪意をもって落とした当事者=アメリカに対する『感情』をスルーする事は、例えそれが親であれば、そんな親をみて子供は「情けない、欺瞞だ」と思うかもしれず、また違う子供であれば、そんな親を「立派だ」と感じるかもしれませんが、いづれもそれが、その子供たちが親のようにならない(あるいはなる)事を意味するものではありません。
>
>子供がどうなるかは不可知ですね。だから「こうすれば良くなる」という分かりやすい処方箋は眉唾でしょう。
>それは別として、私はアメリカを非難すべしとはあまり思ってないんですね。「安らかに眠ってください/過ちは繰り返しませんから」という主語も批判も明示されぬ碑文が私は割と好きで、理由は、起こったことを受容した上で未来に向かう集合的意志をここに読み取るからです。あえてそう読み取るというだけですが、ポイントは「過ち」が過去の受容(赦しではない)なのか否認なのかです。

私にもおそらくJosefさんにもアメリカを憎む理由はないでしょう。「〜ねばならない」と言われても憎む感情が涌いてくる事もないでしょう。一応。


>
>岸田秀の良き読者である猫まんこさんには賛成反対は別として言わんとすることは伝わると思いますが、彼に「自己嫌悪の効用」というエッセイがありますよね。戦後日本は彼のいう自己嫌悪をやってきたと思うのです。自分(のある一部、責めやすい部分)を責めることで、責めている「真の自分」なる虚構を拵えるという、「卑劣」なことをやってきた、と。戦後の「反省」とは否認すなわち「嫌悪」だった。これをそのままアメリカへ非難の向きだけ変えても自罰が他罰に替わるにすぎず、単に「嫌米」になるだけでしょう。マックを頬張りながらの嫌米。
>
>「しょうがない」はそこを期せずして突いている。「否認」や「嫌悪」は対象を変えません。変えるどころか強迫的に反復するしかない。隠された目的が「真の自己」の捏造ならば当然そうなるでしょう。対象を変えるのではなく温存してしまう否認は、見かけとは異なり、何も変えないこと、つまり「しょうがない」としてうっちゃってしまうことと大差ありません。久間発言はそこを突いた。それは久間氏の意図の問題ではなく、受け取る側の問題です。「しょうがない」への非難もまた久間批判の形をとった自己嫌悪のように思われます。

今でも、終戦記念日とかに繰り返されるような反戦ドラマがあるでしょう。
そこで描かれる戦時中の日常は大体一緒ではないでしょうか。
一般庶民は日常の平和を愛しながら、しかし軍部(政府)の目を恐れそれを口には出来ず、憲兵は高圧的で恐ろしく、、、といった。
そして日本が戦ってるはずのアメリカは描かれない。
まるで、一般庶民が、日本軍部と対立してるような。

それは放送局の上層部の意向とかあるのかもしれませんが、それだけでなないでしょう。
視聴者が抗議することなく、もう何十年も続いて、みんなおとなしく見てるのですから。

これらに対して、アメリカ側から「硫黄島の手紙」とかが上映されると日本人はどのように・誰に感情移入して見るのでしょう。映画自体には興味がありませんが。
これとか昭和天皇を描いた「太陽」とかは日本人からでは中々作る事はできないでしょう。

それはタブーというより盲点になってる部分があるように思えます。

Re(1):歌う、食う、射精する、、、古典的な自我拡...
 Josef  - 07/7/16(月) 14:50 -

引用なし
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   >例えば、風俗、ポルノを含めた、「性」を対象とした表現=産業はとても大きく「豊か」です。
>それを私は「ヒトの性が豊かで自由になった」と表現します。
>しかし、それは同時に「ヒトの性が貧困になり、不自由になったのだ」という意味を含みますし、両者は矛盾しません。

自由のパラドクスに似てます。不自由な時には自由の「快」を求めるが、自由になると「快」が減り、逆に自由自体が苦痛となって制約=不自由を求める。渇いた時には掬って飲む川の水でも極上の味だが、あの水この水といっぱい水がある時にただ味のみを求めて飲む水は大して旨くない。ビールを旨く飲むためにわざわざ運動して汗をかいて渇いた状態に持っていくという人も少なくない。「大人は分かってくれない」と文句をいうガキも、物分りのいい大人ばかりになると厳しいことを言ってくれる大人にゴロニャンと擦り寄っていく。
性への抑圧が強い時ほど性への希求も強く、快楽もまた大きい。性が自由で選択肢がいっぱいある時には性の快楽は減じる。不倫が「いけないこと」でなくなれば不倫ならでは快楽も無くなる。

豊かさは同時に貧しさであるわけですね。

>『生の充溢』とはいかなる物なのか。
>自身の身体的な万能感を拡大し、世界(観)を拡大するという事ではないでしょうか。

大きくいえばそうですが、もう少し「生」と「芸術」の二分法にこだわってみます。。
またしても岸田秀で行きますと、彼は本能で生きる動物を理想化しているところがありますね。曰く、現実とぴったり密着して生きている、と。岸田秀の図式でいえば「生の充溢」はこの動物の生にあたります。

でもそれだと本能の壊れた人間に「生の充溢」は不可能だということになる。そこで「生vs.芸術」を「本能/幻想」の図式からもう一つの図式、「共同幻想/私的幻想」にずらしてみましょう。
環境の与える価値観にすーっと入って行けてその中で生き生きと生きられる人と、既存の価値観を我が価値観とすることができず不安定な生を生きる人とがいるとします。前者は所与の共同幻想を「現実」としてその中を生き生きと生きていく、後者は所与の共同幻想に馴染めず、未だ「現実」化していない私的幻想の中を不安定に漂う。この場合、前者が「生の充溢」で後者が「芸術」です。あくまでも相対的なものですが。

>『芸術』というのもそういった方便のひとつではないのでしょうか。
>古代の王がピラミッドや様々な宗教施設を造ったのもそういう理由だと理解出来ないでしょうか。

上記の「共同幻想/私的幻想」で言うと、古代の王の「永遠の生命」のようなものは宗教、つまり当時の共同幻想と繋がっていたと思うのです。その意味で近代以降の、個人の私的表現と見なされる「芸術」とは異なっていたと言えるでしょう。もちろんこの辺は芸術の定義次第でどうとでも言えるところですが、近代において芸術が王や神や祭祀に奉仕する従属的な役割からそれ自体としての価値を担う自律的なものとなってきたことは押さえておくべきだし、それなりの区別があってしかるべきなのではないかと思います。

実業家として成功し財を成して息子に跡を継がせる人は、共同幻想の中で成果を上げる人と言えるでしょう。跡を継いだはいいが、社会的成功にも後継ぎを作ることにも関心が無くぼんやり空想にふけって事業を傾かせる3代目は私的幻想に生きる人でしょう。

もちろん大きく言えば、猫まんまさんの言う通り、人間は「肉体を離れた自我=物語を生きて」おり、自我の拡大を願う生き物でしょう。この点では古代人も現代人もありませんが。

Re(3):個人と意味の距離Re(2):防衛大臣の失言
 Josef  - 07/7/16(月) 15:11 -

引用なし
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   >今でも、終戦記念日とかに繰り返されるような反戦ドラマがあるでしょう。
>そこで描かれる戦時中の日常は大体一緒ではないでしょうか。
>一般庶民は日常の平和を愛しながら、しかし軍部(政府)の目を恐れそれを口には出来ず、憲兵は高圧的で恐ろしく、、、といった。
>そして日本が戦ってるはずのアメリカは描かれない。
>まるで、一般庶民が、日本軍部と対立してるような。

いわゆる「反戦」ものに限らず、戦争の時代を舞台とするドラマはそうですね。NHKの朝ドラとか。

アメリカや日本の一般庶民を無罪化し、日本の軍部を悪魔化してきた戦後を、単に占領政策や東京裁判のみに帰することはできないでしょう。多くの日本人がそれを望まなければ成功しなかったはずです。敗戦後に「一億総懺悔」を唱えた政治家の声も、デモクラシーを「でも憎らしい」と洒落たアメリカ憎しの庶民の声も、あなたたちは悪くないという居心地の良い図式の前に消されていった。そしてひとり悪を背負った旧軍はもう無い。実体を失い、抽象化された「悪」であればこそ、安心して非難することができたし、安心して新生日本は宗主国アメリカと同衾することができた。デモクラシーを結納金として。

そこには嘘が、誤魔化しがあるんだと思います。日本人の伝統からいえば、葬り去らねばならなかった旧軍や戦前的なものに対する鎮めや祈りがあってよさそうなもの。ところがあらゆる人的・物的被害の責をそこに押しつけた。
それゆえに繰り返し物語を反復しなきゃいけない。これでよかったのだ、と言い聞かせるために。

Re(1):防衛大臣の失言
 tpkn  - 07/7/29(日) 23:02 -

引用なし
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   >と思って毎日ブログをチェックしてますがお忙しそうですね…。

こりゃまた入院かな…。

Re(2):防衛大臣の失言
 芥屋@keya1984  - 07/7/30(月) 0:45 -

引用なし
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   >tpknさん:
>>と思って毎日ブログをチェックしてますがお忙しそうですね…。
>
>こりゃまた入院かな…。

ううん、元気元気(汗
心配かけてごめんちゃい!!

ただ、いろいろあってですね…
*↓その「いろいろ」の主な内容
4月からの身辺の変化として、
・職場が変わった。
・ADHD対策でリタリンを服用することに←コイツが書けない元凶だ!!
・上の子が中学に入った。
・老父の介護とか、こちらに引き取るとか。
・マンション買うことに…
・家計厳しいよママン

で、また書きますんで待っててね。

Re(3):防衛大臣の失言
 tpkn  - 07/7/30(月) 6:52 -

引用なし
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   > リタリンを服用することに

これはかなりのブットビが期待できそうですな。

Re(4):防衛大臣の失言
 芥屋@keya1984  - 07/7/30(月) 22:15 -

引用なし
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   >tpknさん:
>> リタリンを服用することに
>
>これはかなりのブットビが期待できそうですな。

あああ、リタリンって、やっぱそーゆーイメージあるんですねぇ。
でもそりは、鬱のシトが飲むとそうなるらしいんですが、
ADHDのバヤイはそうはならず、逆に落ち着くっすよ。

ただしリバウンドがあってですね・・・

服用している日中、つまり仕事中は、「これが俺か?」というほど、
まとまりがあって落ち着いているんですが、薬の切れる夜間は、
虚脱状態つうか、まとまりが極度に無いんですよ。
まとまった文章が作れない…みたいな感じですね。

今はまだ、服薬の時間帯とか量とか、いろいろ試しながらやってます。
このまんまじゃ、ちょと嫌なんでw

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