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>Josefさん:
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>まだジェンダーフリー信者っているんですね。
教團内でここんところ大手を振つてゐる「真のジェンダーフリー」派のですね。
>社会学のオーソドックスな枠組みからいうと、ジェンダーフリーはジェンダーレスではありません。ジェンダーレスは「社会的性別の消去」だけど、ジェンダーフリー概念によって推奨されるべきは「社会的性別に関わる再帰性*1の自覚」であって、「ジェンダーフリーだから、ああしろ、こうしろ」という直接的メッセージは本来、出てきません。まあ、再帰性という概念を知らない人びとがーーとりわけ後述するような不安な層がーー立場を問わず騒いでいるだけですね。(宮台真司〈荻上チキインタヴューによる〉「ねじれた社会の現状と目指すべき第三の道ーーバックラッシュとどう向き合えばいいのか」、所收の2006年「バックラッシュ!ーーなぜジェンダーフリーは叩かれたのか?」p11、一部脚注番號割愛)
>*1…再帰性とは、選択前提(であるがゆえに通常は選択対象にならないもの)が選択対象に繰り込まれた状態。近代社会では「手つかず自然」は再帰的である。文化を前提づける自然というより、あえて自然に手をつけない文化的選択を意味するからだ。学習の仕方を学習する場合も、選択前提だったものを選択対象にするので、再帰的である。似た概念として反省(性)があるが、こちらは、システムと環境との関係がシステム内部で再現された状態(全体が内部的に表彰された状態)を意味する。「世界のなかに私がいる」と見るのは誰か(私なのか)という問いは、現象学的反省と呼ばれる。ジェンダーフリーが再帰的だとは、男女に同じ振る舞いを期待するというより、どんな期待ももはや自明ではないという意識とともに期待がなされるからだ。そこでは選択への期待の前提もまた選択されている。(同インタヴュー記事、同所收書p83)
まあ、育兒がどんなものか知り樣がないから、實感として解らないのですが、この全ての價値を等し竝みに扱ふべしみたいな話、頭が痛くなります。
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