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新安保法制というやつは10本くらいの法律がセットになっているというから、私のような素人が理解するのは難しそうです。
そこで、その中のほんの一部、集団的自衛権についてだけ思うところを言うと、国の安全保障上、これが許されないという理由は私には見つけられません。弱い国、ちょっと攻められたらひとたまりもない国はたくさんあるわけで、そういう国同士が、強い国も加わって、有事には協力しようというのは自然なことでしょう。NATO(北大西洋条約機構)はそういう協力体制の代表的なもので、周辺国を個別撃破して国土拡張を図っていた頃のソビエト連邦もNATO加盟国には手が出せませんでした。
現在の日本がどういう状況にあるかは私には確たることは言えません。また日本を取り巻く国際情勢が今後どうなっていくかはたぶん誰にも分かりません。分からないからこそ、最初から手足を縛ってしまうのは愚かな選択でしょう。集団的自衛権はすべて国に認められている権利だそうだから、日本だけ自縄自縛しなければならない合理的理由は、少なくとも安全保障上は見出せません。
となると、集団的自衛権行使を認めるべきではないという考え方は、国の安全保障上の理由ではなく、もっぱら日本国憲法に違反するという理由から来ていると思われます。つまり日本は、国民や国土の安全保障を図る上での合理的選択が憲法違反になってしまうという重大な矛盾の中にあるわけです。これは今に始まったことではなく、憲法を普通に読めば自衛隊がすでに憲法違反ですから、戦後のほとんどの期間を日本は重大な矛盾の中で過ごしてきたと言わざるをえません。
ならば憲法を変えればいいのですが、そしてそう主張する人は昭和20年代から現在に至るまで存在しているのですが、現実には極めて難しい。改憲の規定が厳しいということもさることながら、どうも日本人は憲法を一字でも変えることに対して、おそらく自分でも理由が説明できないような恐怖心を持っているようにみえます。
なぜか。よく分かりませんが、憲法を自分たちの手で作っていないことに起因するように思えてなりません。憲法は国の基本法だから、当然大切。そういう意識は充分にある。ところがそれは他から与えられたものであるがゆえに、言い換えると「彼方」にあるものであるがゆえに、事実上は解釈改憲の繰り返しによって蔑ろにし、形式上は不合理なまでに堅守する。「神の教え」(聖典)がしばしばそうであるように、「教え」を忠実に守っていたらやってられない、だから生活上の都合に合わせて適宜「教え」を破る、しかし「教え」自体を改変することは畏れ多くて決してやらない。そういう心理的改憲不能状態に陥っているのではないでしょうか。
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