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macskaどん:
>tpknさん:
>それは別にわたしが自分の発言を撤回したくないから認めていないのではなく、純粋に学問的良心に照らして事実に反するとわたしは思っているのです。(自己愛的な無意識感情が、わたしの理性的な判断に何らかの影響を及ぼしている可能性は否定しません。というか、無意識なんだからわたし自身に否定できるわけがない。)
というかですね。あなたがふだん言っていることと、この議論でのあなたの立場は、論理的にすごく矛盾していると思うのですよ。それは自己愛というより、むしろ「他己愛」とでも言うべきものでしょう。ぶっちゃけ、運動の論理(クソウヨ叩き)が前面に出すぎだと感じます。
>しかし、仮にそれらが実例だったとします。それで何が変わるかと言えば、「ただの一つも実例はない」と書いた部分を訂正して「たった2つのショボい例があるだけだ」になるだけです。
いいえ。《「全体の中においてひな祭りの項目がどういう意味を持っているか」を議論》しなければならないのですから、数がひとつだからといってすなわち「ショボい」ということは言えないでしょう。これは、批判する側も「ひな祭りや鯉のぼりまで…」というニュアンスで持ち出してきているわけです。つまり、ここでは数の多寡ではなくて、実際にあったかなかったかだけが問題なんですよ。なぜなら、「ひとつもない」に対する反論だからです。
> それにより、ジェンダーフリーが日本中に蔓延して全国各地で悲鳴があがっているとか、このままでは日本は崩壊するとかいう妄言が正当化されるわけではない。そうでしょう?
そうだと思いますよ。だから、こういう反論を私や芥屋さんにぶつけるところが、「運動の論理が前面に出すぎ」に見える原因でしょう。
> どれだけの人が実際に読んだか分からない文科省委託のパンフが1つあり、酷いデザインの誰も見なさそうな民間団体のサイトが1つあったというだけなんですから。
ひな祭りまでやり玉に挙げたのは「基本のき」ですが、《「全体の中においてひな祭りの項目がどういう意味を持っているか」を議論》するならば、《文科省委託のパンフが1つあり、酷いデザインの誰も見なさそうな民間団体のサイトが1つあったというだけ》とは言えなくなるでしょうね。それに類するものは、各自治体のパンフ、ウェブサイトに無数にあります。いや、正確に言えば「ありました」。
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