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macskaどん:
>次の「そういう良心に照らして事実かどうか判断したんだから、事実ではないという判断に狂いはない」なんてわたしは言っていないし、
ひな祭り否定というテーマに関して、あなたは一貫して「証拠なし」「事実を捩じ曲げるような表記(記述)」という論調で対抗しています。その前提として、少なくともあなたはこの件に関して自分の認識が「事実」に近く、その判断に狂いはないと認識しているわけです。
対して、あなたに反論している側は、主に提示されたテクストの解釈について述べていて、それが「事実を捻じ曲げ」たものかどうかという論点はさして問題になっていません。もちろん、あなたがそう主張した場合は「そっちこそ事実をねじ曲げている」と反論することになりますが、それは二義的なものです。相手は、自分達の事実認識を前提とするのではなく、その事実認識の妥当性そのものを論じています。
ここに、メタレベルでのすれ違いがありますね。
また「自分と違って悪意にもとづいて公平には見ていないことになる」に関して言えば、下記のような記述がそれに当たるでしょう。
> そのような表記にすることの利点は何かあるでしょうか? それは、問答無用でとにかくジェンダーフリーを叩きたい人にとって、ジェンダーフリー派がひな祭りそのものを否定しているかのように宣伝することでジェンダーフリーの評判を落とすための政治的な道具として役に立ついう事くらいでしょう。
相手の事実認識が自分とは違うことを、現実には存在しない動機を想定することで正当化しているわけですね。あなたの「徹底的にやりましょう」という呼びかけに応じてこれだけきちんと議論につきあっている人々が、なぜ「問答無用でとにかくジェンダーフリーを叩きたい人」と同一視されなければならないのでしょう?
そこが良心のバイアスなんじゃないですか?
あなたは
> もし tpkn さんがそうした醜い政治に賛同しているのでないのだとすると、どうしてそんな事実を捩じ曲げるような表記に固執するのか、わけが分かりません。
とも書いてますけども、それってあなたの認識する「事実」が正しいという前提の上でのみ成り立つ話であって、今はその前提の是非を議論しているわけですから、「わけが分かりません」じゃあただの思考停止でしょう。その矛盾を解消する解は、以下のいずれかです。
(1)tpknその他対論者は、実は「醜い政治」に賛同している。
(2)「醜い政治」の中にも、事実にもとづいた正当な批判がある。
(3)macskaの論こそが、実は「醜い政治」である。
我々が主張しているのは(2)ですが、あなたは(1)以外の可能性を考えることができないようです。
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