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相変わらず気になることは、“知らない”ことは主張できないということを考えれば、パンフの執筆者はひな祭り行事のどういう押し付けが「男らしさ・女らしさ」の「押しつけ」であり、それがどういう経路で「可能性を狭め」るのかということを“知っている”必要がありますよね(もっと言えば、それを“信じている”必要もある。“信じる”ことは“知る”ことの必要条件だから)。 で、今回の論争の発端は、ひな祭りを代表例とする「押しつけ」行為の「ふり返り」ようのなさの問題だと思うから、パンフの擁護者であるmacskaさんには、該当行為の具体例を提示する義務があるはずです。当然あるはずの「ひな祭りの押しつけ」例と、それがジェンダーの刷り込みを経由して「可能性を狭める」具体的事例についてのですよね。
というか、それが一つもないから様々な憶測を呼んでいるだけのことですよ。
したがってmacskaさんには残念ですが、このままでは↓のように結論づけるしかありません。
∴macskaさんの反論は不成立。
∴ジェンダーの刷り込みや可能性を「不当」に狭めている根拠も実例もないまま、節句行事が「不当」行為の点検項目に入れられていることに対する非難、「伝統破壊を企んでいる」は依然として妥当。
∴macskaさんのこれまでの主張には、思惟の経済性の観点から“オッカムの剃刀”が適用されます。(笑)
…ちなみに、“知り”もせず“信じて”もいない事柄を「ふり返ってみましょう」モードで記述すれば何も問題ないという常識があるというなら、「マチュカさんは殺人の経験がありませんか? ふり返ってみましょう。」「マチュカさんは○△銀行から1億円を強奪した経験がありませんか? ふり返ってみましょう。」「マチュカさんは児童への性的虐待の…」etc、などといった出版物の記述に対しても何も対抗できなくなるでしょう。
可能世界論的な説明では、macskaさん的常識が通用する可能世界は、現実世界との類似度が極めて低いということになるんだったかな。要するにそれだけ非論理的or非常識だということ。
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