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> “知らない”ことは主張できないということを考えれば、
いえ、できます。信じていればそれだけで主張できる。というか、実際のところ信じてすらいなくても、主張だけならできるわけです(例:弁護士)。
前提がいきなり間違いなので、以下の論理は成立しません。
> で、今回の論争の発端は、ひな祭りを代表例とする「押し
> つけ」行為の「ふり返り」ようのなさの問題だと思うから、
> パンフの擁護者であるmacskaさんには、該当行為の具体例
> を提示する義務があるはずです。
ありませんね。わたしはパンフを総体として擁護しておらず、ただある特定の批判がサヨクそっくりの妄想的あるいは狼少年的なデマであると反論しているだけですから。
はっきり言って、「押し付けは子どもの可能性を狭める」と書いた著者が、何か具体的な被害を想定していたとは考えられません。ただ漠然と「押し付けは良くない」と思って男女で違った扱いをするかもしれない場面をいろいろリストアップしたところ、たまたま「ひな祭り」という項目が入り込んでしまったのではないでしょうか。他の方も指摘していましたが、時代背景に合っているかどうかということを考えると、あのリストがそれほど丁寧に作られている様子もないですし。
> …ちなみに、“知り”もせず“信じて”もいない事柄を
> 「ふり返ってみましょう」モードで記述すれば何も問題な
> いという常識があるというなら
何も問題ないとは言っていません。が、常に問題があるとも思いません。
例えば、あなたが例としているような「あなたは殺人の経験がないですか?」などという問いが唐突にあれば、それは不当な言いがかりだと思うでしょうが、「あなたは自分が気付かないうちに人を傷つけたことがないですか?」みたいなことを言われたら、それはあるかもしれない、あるだろうな、と自分をふりかえるきっかけになるでしょう。それは、その質問が誰にでもありがちなことを振り返るよう呼びかけるものだからですね。
さて、「子育てにおいて『男らしさ・女らしさ』を押し付け、それにより子どもの可能性を狭めていませんか?」というのはどちらに近いかと考えたところ、わたしが思うに後者に近いのではないかと思います。もしこれが前者と似ているとお考えでしたら、そりゃこのパンフを誤読するでしょうよ。
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