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> パンフを読んで、その内容の詐術論理的な強制力に胡散臭さを感じた
> 人の何処に、パンフの執筆者の意識内容や時代感覚までをも勘案する
> べきだという義務が見出せるというのですか?
「胡散臭い」と感じるだけであれば、そのような義務はありません。しかし、公の場でそれを批判するのであれば、批判に同様な胡散臭い論理を紛れ込ませないようにして欲しいです。はっきり言って、このパンフをもって全体主義だ文化大革命だと騒ぐのは、ひな祭りを押し付けだと騒ぐのと同じくらい胡散臭い。
> だからそれは、macskaさんが単にそう「思っている」(or信じたい)
> だけじゃないですかぁ?
ええーーーーーーーーーー!!!?
以下の3つの質問があったとします。
A「子育てにおいて『男らしさ・女らしさ』を押し付け、それに子どもの可能性を狭めていませんか?」
B「あなたは殺人の経験がないですか?」
C「あなたは自分が気付かないうちに人を傷つけたことがないですか?」
このとき、AはニュアンスとしてBとCのどちらに近いでしょうか、というのが問題です。
わたしは、AはBよりもCに近いと思います。というか、ほとんど誰に聞いてもそう思うんじゃないかと確信していたので、「それはあなたが単にそう『思っている』だけではないか?」と聞かれて、かなりショックだったのですが、「いや違う、AはCではなくBに近いのだ!」という人はこの場にいるんでしょうか? わたしの感覚ですと、100人中99人は「Cに近い」と判断すると思うのですが。
そりゃ、わたしの主張は根拠を極限まで突き詰めれば最後のところでは「わたしはそう信じているのだ」となるしかないですよ。わたしに限らず、誰だって最終的にはそれ以外ありえません。しかし、今問題となっていること(AはBとCのどちらに近いか)は、ほとんど誰が見てもわたしの言う通り「Cに近い」が共通認識なんじゃないかと思うんですが… それが怪しいとなると、コミュニケーションをどう成り立たせて行けばいいのかかなり不安になります。
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