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>macskaさん:
>阪神ファンだという理由で雇わないのは理不尽な行為ですが、差別ではない。同様に、阪神ファンだという理由で誰かを殺害しても、それは差別とは呼ばないわけです。しかし、だからといって殺害を容認するわけではないのは当たり前の話。小学生でも分かります。
>>macskaさん曰く
>>阪神ファンは採用しない」も、「東大出身者は採用しない」もOKです
小学生でも「それはヘンだろう」と感じるであろう常識的な感覚をズラして詭弁をつかっている「自由主義者」は誰(^^)?
>循環するすべてのものが差別ではないというのはその通りです。それが差別と呼ばれるためには、権力や機会や富や資本やケイパビリティ…などの不均衡な分配というもう一つの要素が必要です。
つまり問題は「権力や機会や富や資本やケイパビリティ…などの不均衡な分配」のほうなわけですね。それが、適正であるかどうかを巡って論争が起きてるわけでしょう。「男性用スカートが市場にないのは不当だ」VS「需要がないから供給されないだけで市場原理に基づく自由は確保されている」
>>macskaさん曰く
>>わたしが反対するのは、カテゴリによって他者を理不尽に扱う行為全般ではなくて、「制度化された差別に基づく行為」そして「差別の制度化」です
これは、まだわかりますよ。「カテゴリによって他者を理不尽に扱う行為」が行われても、それが制度化されていなければ、個人で問題を解決することは可能だから、それは問題にしない。「制度化されているカテゴリによって他者を理不尽に扱う行為」のみに限って問題にすべきだ。という論理です。一種の「夜警国家論」ですよ。「自由主義者」ならそういう論の立て方も解らないわけではない。
(ただ、その理屈だと、オウムの蒔いたサリンは、被害を受けた個人が始末すべきで、自衛隊の化学戦防護部隊が出動するのは、国家権力による信教の自由に対する不当な介入ということになってしまう(^^)。だからこの定義はマズいんじゃないですか? と私は反論しているわけだが^^)
つまり「カテゴリによって他者を理不尽に扱う行為」を、まったく許してよいということにもならなければ、「制度化されている」ということをもって、ある行為が「カテゴリによって他者を理不尽に扱う行為」であるかどうかを判定することもできない。「カテゴリによって他者を正当に扱う行為」かもしれないからです。
そうすると、まずはその行為が、理不尽であるか正当であるかの判定がまず必要で、制度化されているから、それが理不尽な行為であるとは言えないでしょう?
>理解されていないだけのような気もするんですが。
私のようなバカでも、理解できるよう、もう一度、「差別の定義」を、説明してみたらどうですか?
>だいいち、わたしは中観派仏教徒なのに、何にも依存せず自立しているものの存在なんて想定しているはずがないじゃないですか。
昔、オウム真理教徒の上祐が「私たちは仏教徒なのでサリンなんかまくはずじゃないですか?」と発言して、チベット文化研究所のペマ・ギャルボさんに「仏教徒だったら、三宝(仏宝僧)に帰依しているはずだろう! 君たちは仏教徒じゃない。麻原教徒だ!」と譴責されていたのを思い出しまつ(--)。
仏教徒だったら、三学(戒定慧)を修めなくてはならないはず。まあ、私は在家戒の最低限の戒律である五戒も適当にしか守れず。集中力(定)もまったくなく、勉強(慧)もろくすっぽできないダメ教徒にすぎないが、それでも、大峰山の女人結界が、具足戒(僧侶戒)の「触女人戒」、斎戒(在家の修行者の戒律)の不淫戒に基づいているくらいのことはわかるぞ。基本的な戒律に基づいた結界を、ろくすっぽ何も考えずに「女性差別」だと言いきってしまう人間が「仏教徒」であるとは思えられない(^^)
中観派としてのmacskaさんを評価すれば、「老死もなく、老死が尽きることもない」の「尽きることもない」が解ってない「なま悟り」「野狐禅」というしかない。「不昧因果」を「不落因果」と言ってしまって、化け物狐になってしまった僧侶の話もある。
ジェンダーは社会的に構築されたものであり、実体としてのジェンダーというものは存在せず、人の心の中にある幻のようなものだ。しかし、社会的に構築されたもの(縁起によって生じたもの)であるからこそ、それは変転変移しながらも、尽きる(無くなる)こともない。以上。
>日本のジェンダー制度においてそれは特殊な例でしょ?
個々の「特殊な場」にある特殊な規範が、集まって、そのうちで、共通な理解となったのが普遍的な規範でしょう。二丁目だって、日本のジェンダー制度の一部なわけです。
それが証拠に、春には、ゲイの兄ちゃんや、女装趣味の人たちとかが、新宿一丁目の住宅街に住んでいる家族連れの人たちと、仲良く、新宿御苑(皇室の御料地!)で、花見を楽しんでいるが、警備員に追い出されたなんて事件は一度もない。
追い出されるのは「場」をわきまえず、喧嘩したり、酔って暴れて、他の花見客に迷惑かけたりする人たちだし、ゴミをかたずけなかったりすれば注意されるし、そんなもんだ。
>それとも、日本では男がスカートをはく文化と女がスカートをはく文化が対等だと?
>話にならない。
だからスカートは服飾の意匠の一つでしょ。
ある意匠が女性服に用いられていて、男性服に用いられないのは差別だ、対等であるべきだと、いってしまうと、男性服と女性服の意匠をまったく同じ基準にしろといっているのと同じになる。
そうすると「モテ服」とか「エロカワな服」とかは、すべて廃止すべきで、すべてユニバーサルデザインやユニセックスファッションにしろ、という主張になってしまうから、かえって個人の自由を抑圧することにしかならないって言ってるの。
話にならない。
>なんだかいい加減な論理ですが、だったら少なくともジェンダーが規範として形成されているという点には合意していただけるわけですね? …じゃあ、どこが不満でこんなにゴチャゴチャ言ってくるんだろう。
だから、林道義も、私も「ジェンダーが規範として形成されている」という点には、すでに合意しているの。
ただジェンダーの規範は、男女の生得的な性質に合わせて、長い人類や諸民族の歴史の中で形成されてきたものだから、尊重すべきだし、軽々と変えるべきではない。それを、詭弁的な理屈をつけて、強制的に変化させることが男女平等を実現することなんだとするジェンダーフリー思想やジェンダーフリー教育には問題があると主張しているだけなんです。
もし差別的だと思われるジェンダー規範があって、それを改革したいと思うのなら、詭弁的な理屈をこねずに、素直に、「こういうのは不都合だから、こういうふうにしてもられるとうれしいな」と表現すればいいんです。
「冬にスカートだと寒いから、女子の冬服の制服には、スラックスのオプションをつけてくれ」とか……。
それを「男子がスカートをはけないのは云々」と、へ理屈こねるから「女子にズボンもジェンダーフリーだ」と思われてしまって、「良妻賢母」全盛の時代にすら「腰を冷やすと大変だから」という理由で許されていた、冬服のスラックスが、逆に廃止されちゃったりしてしまうんです。
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