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> つまり問題は「権力や機会や富や資本やケイパビリティ…などの
> 不均衡な分配」のほうなわけですね。
その通りです。それらを不均衡に分配するベースとして性別や人種や宗教といったものがよく使われますが、ジェンダー規範への合致というのもその1つであるとわたしは考えているわけです。
> これは、まだわかりますよ。「カテゴリによって他者を理不尽に
> 扱う行為」が行われても、それが制度化されていなければ、個人
> で問題を解決することは可能だから、それは問題にしない。
個人で解決可能だから問題にしないというわけじゃないですよ。
まず、そもそも大きな不都合がない限り全ては自由であるというところからわたしは出発しているわけです。個人的な好き嫌いなどをもとに理不尽な扱いをすることがあっても、それは基本的に容認していこうと。だって世の中には偶発的なことで得したり損したりすることがあって当たり前ですからね。しかし制度化された差別については、放置しておくと特定の集団だけ常に不利になるし、制度自体が循環により自己保存されるので不均衡な分配が固定化してしまう。だから自由社会における例外として、差別は問題とするべきだという議論になるわけです。
> (ただ、その理屈だと、オウムの蒔いたサリンは、被害を受けた
> 個人が始末すべきで、自衛隊の化学戦防護部隊が出動するのは、
> 国家権力による信教の自由に対する不当な介入ということになって
> しまう(^^)。だからこの定義はマズいんじゃないですか? と私は
> 反論しているわけだが^^)
オウムがサリンをまくことは「差別」ではなくて、単なる犯罪でしょ。他者を身体的に傷つける犯罪行為を取り締まる権限が国家にあることは当たり前の話であり、それを「差別」の定義にふくめなければいけない理由がありません。というより、わたしは「カテゴリによって他者を理不尽に扱う行為」のうちどれが差別にあたりどれはそうではないかという定義を主張しているのであって、「差別でなければ、何をやっても良い」と主張していません。当たり前ですね。
> チベット文化研究所のペマ・ギャルボさんに「仏教徒だったら、
> 三宝(仏宝僧)に帰依しているはずだろう! 君たちは仏教徒
> じゃない。麻原教徒だ!」と譴責されていたのを思い出しまつ
> (--)。
それを言い出せば、わたしから見ればチベット仏教は仏教本来の教えからかなり離れているように見えます。オウムについては教義を詳しく知らないので何とも言えませんが。
> 基本的な戒律に基づいた結界を、ろくすっぽ何も考えずに「女
> 性差別」だと言いきってしまう人間が「仏教徒」であるとは思
> えられない(^^)
戒律に基づいていれば差別ではない、とはわたしは思いません。何度も書いた通り、「差別だが、だからといってその宗教的意義を無視して一方的に断罪するのはよくない」というのがわたしの立場です。
> ジェンダーは社会的に構築されたものであり、実体としての
> ジェンダーというものは存在せず、人の心の中にある幻のよう
> なものだ。しかし、社会的に構築されたもの(縁起によって生
> じたもの)であるからこそ、それは変転変移しながらも、尽き
> る(無くなる)こともない。以上。
そんなことで仏教を持ち出さなくても、考えられる限りの近未来においてジェンダーが尽きることなんてありえないし、なくすべきだとも思っていませんが。
> ある意匠が女性服に用いられていて、男性服に用いられないの
> は差別だ、対等であるべきだと、いってしまうと、男性服と女
> 性服の意匠をまったく同じ基準にしろといっているのと同じに
> なる。
「〜だと言ってしまうと」そうなる、というのはその通りだけど、わたしは一度もそう言っていない。
> それを、詭弁的な理屈をつけて、強制的に変化させることが男
> 女平等を実現することなんだとするジェンダーフリー思想や
> ジェンダーフリー教育には問題があると主張しているだけなん
> です。
そういう「ジェンダーフリー思想」の実例が存在しないから、でっちあげだとわたしは指摘しているわけですね。でっちあげというのが言い過ぎならば、かなり極端な解釈によってはじめて成り立つ主張だと思います。もしジェンダーフリーだけでなく全ての思想を同様の基準で解釈するならば、保守革新問わず全ての思想に全く同じ問題が見いだせるでしょう。
> もし差別的だと思われるジェンダー規範があって、それを改革
> したいと思うのなら、詭弁的な理屈をこねずに、素直に、「こ
> ういうのは不都合だから、こういうふうにしてもられるとうれ
> しいな」と表現すればいいんです。
それは戦略としてどうするという話ですが、差別の定義についての議論はわたしにとって学術的な見解ですから、政治戦略のために曲げたり隠したりはするべきでないと思うのです。学問的な見解を「政治的に都合が悪いから」と捩じ曲げるのはよくないでしょう? 実際に「この規範を改革したい」と思った時には、もちろんそれなりの戦略を取ります。というより、実際に変革を狙うときはこんな掲示板で主張したりしません。
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