| |
>Josefさん:
>>定義に合致しているのに「職場の常識」を振りかざして強引に「差別ではない」と決めつけてしまうという非論理的なふるまいを認めてしまうと、例えば奴隷制があったころの米国南部では黒人は個人として生きることができないから奴隷でいるのがかれら自身にとってもちょうどいいという「常識」によって「奴隷制は差別ではない」ということになってしまいます。
>奴隷制が差別ではない時代もあった、というより他はないでしょう。
ぶっちゃけ、そういうことだと思います。現代人が思うところの「差別」という概念で考えてたわけじゃないから。
>ある行為・事態を「職場の常識」によって「差別ではない」と判断するからといって、奴隷制を認めていた過去の「常識」をも肯定することになってしまうというのは謬論です。ある行為・事態を「差別ではない」とする現代の「常識」は、その同じ「常識」によって、過去の奴隷制を「差別だった」と判断するでしょう。
そうですね。ただし純子さんの挙げたように、では同時代の人たちはみな、それが当たり前だと思っていたかと言うと、「ひどすぎる」「許しがたい」「やめさせるべき」と思う人たちも多くいたということだと思います。スペイン・ポルトガル人の奴隷貿易は、同時代の世界常識からしても「非常識極まりない」ものだったように思いますよ。ましていわんやアメリカ南部の奴隷制度をや。
|
|