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> つまり、こういうことですね。形式的平等を批判して、実質的な
> 平等をめざしある制度を改革したとします。すると、改革してで
> きあがった制度とは一つの「形式」だから、その制度によって実
> 現した「平等」は、新たな「形式的平等」になってしまう。する
> と、その制度によって解決できない新たな「実質的な差別」が生
> まれ、それを解決するために、新たな「実質的平等」がめざされる。
それは、そうなるかもしれませんし、新たな「実質的な差別」が妥当な区別だと社会全体によって(それによって不利な扱いを受ける人にも)受け入れられて問題とされないかもしれません。同性婚の問題であれば、例えば「なんで1対1のパートナーシップだけが特別な扱いを受けるのだ」とか「なんで恋愛・性愛関係だけが特別な扱いを受けるのだ」という批判が既にあります。
社会の何かを変えるということは、それがどんなに良い変化であっても、また別の問題を生み出す可能性はあるわけです。もちろんその危険性にはセンシティヴになるべきですし、それを予防するだけの努力も必要ですが、予想できない形で新たな問題が発生することだってあり得る。そうなったらまたその問題に取り組んでいけば良いわけで、何も変化をめざさない方が良いということにはなりません。
てゆーか、わたしは社会的公正というのは、何らかの終着点を設定してそこにめざして何かするというのではなく、いま自分がひしひしと感じている不公正や自分の目の前で起きている(あるいは目の前では起きていないけれど知ってしまった)不公正をなんとかしようと動き出すモノだと思っているのですが。
> この場合、「差別」と「形式的平等」と「実質的平等」の境界線を
> 決めているのは、その社会に公認されているコンセンサスでしょう。
そのコンセンサスというときに、わたしは「そのルールによって不利になる側が受け入れられるものかどうか」という点を重視します。つまり、もし同性愛者の誰も「結婚が異性愛カップルに限られていること」に不満を抱かないのであれば、ことさら問題とする必要はないと思っています。しかし現実は到底そうではないわけで。
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