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> 日本の政治文化において「反対」の意味に使われるのは「判断せよ」では
> なくて「判断しない」「判断できない」です。「時期尚早である」とか
> 「善処します」とか「現在、検討中です」とか……(^^)
そうかなー。何か気に入らない案件が急速にまとまりそうな空気があるときに、もともとただ反対意見を持っているだけの人が「もっと議論を尽くすべきだ」とか「慎重に判断せよ」と訴えるというのはよく見る光景なんだけど。で、例えば推進派が「じゃあこれから3ヶ月かけて徹底的に議論して、そのあとで採決しましょう」と言えば3ヶ月後納得して素直に採決に応じるかとなるとかなり疑問なのですね。「まだ議論が足りない」とか言いそうな。保守派の「慎重に判断せよ」論でも、それ以外の勢力の論でも。
米国の議会でたまにあるフィリバスターというのはそれですね。名目上は「さらなる議論が必要なので採決に反対」という立場を取りつつ、実際はただ本の朗読など長時間演説して時間を潰しているだけ。そのあいだに裏で別の議員が妥協案を通そうと工作していることもあれば、反対派が一致団結して議案を潰そうとしていることもあります。
それと同じように、日本でも「慎重に判断せよ」というのは、他の手段で案件の差し迫った通過の阻止が難しくなった時に反対派がよく口にするように思うのですが。違いますか?
> 以前、「フェミナチを監視する掲示板」で神名龍子さんが説明していな
> かったけ?
その掲示板は、誰かにリンクを教えてもらったときに見る程度なので誰が何を言っているかなんて知りません。しかし、神名さんじゃなくて、林道義さんが「慎重に判断せよ」と言う時にきちんと説明して欲しいのですが。
# しかし、神名さんの基準は、ポジティブアクションだけに適用されるのでしょうか。
# 他の問題も含め、全ての政策についてそうした基準が適用されれば、現実に存在する
# 法律のかなりの部分が破棄されるような気がするんですが。
# 良くも悪くも、法律はそんなに隅々まで完璧にできていないので、もしポジティブア
# クションだけに限って厳しい基準を主張しているなら、それはそれで変だなあ。
> 本来、同性婚が、異性愛者の結婚の拡大発展系として考えられているから、
> 異性愛者の結婚がまったくなくて、同性婚だけが中空に浮き上がっている
> ような社会って、想像しかねるんです(^^)
だから、本来同性婚が本筋で、異性愛者の結婚がその拡大発展系として考えられているような社会があったとして、その社会の仕組みは平等なのかどうか想像してみろ、という話。想像力足りなさすぎ。
> だから、芥屋さんのおっしゃているのは、「珍説」じゃないんですよ。
奴隷と主人という言葉をやめて、何か別の言葉にすれば奴隷制が不平等な制度ではなくなるということがあり得ますか? ありえないでしょ? それが平等かどうかは、言葉の定義によって決まるものではなく、実際にどういう権力や財や資本や機会や自由などの分布があるかという話であるはずです。
「結婚」という言葉本来の意味が異性婚のことだから不平等ではないというのは、まるで差別用語をなくせば差別がなくなると考えるのと同じくらい「言葉」を過剰に評価しています。後者についてはよく分かっているはずの人が、前者の主張をしてしまうのは珍奇としか言いようがありません。
> じゃあ現行の婚姻制度をどう改革すれば、「実質的平等」になるのかで、
> 議論になると個々の意見が分かれてきちゃうんですよ。
それは難しいところですし、意見をどう集約させるか、どう改革に結びつけるかという議論は別に必要です。しかしわたしはその議論をここではやっていません。概念の問題として、実質的平等とか形式的平等とはどういう意味なのかということを話しています。
> これは私の「主張」じゃなくて、歴史マニアの私が、歴史というものを
> 勉強した結果、こうなっていましたよという「指摘」です。疑義がある
> なら、自分でも同性結婚の歴史を調べてみたらいい。
疑義があるというわけではなく、「過去にこのように議論されてきたから、今後もこのように議論されるべきだ」というのは論理的な飛躍だと言っているの。過去にそのように議論されてきたとしても、だからといって今後も同じ議論を続けなければいけないことにはならない。続けたい人は続ければ良いし、別の議論をやりたい人はそうすればいい。どれか一つだけが「正しい」議論の方法だというのは、全体主義に繋がるのではないですか?
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