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>macskaさん:
>本心では理解しているのに何やらわけのわからない言いがかりをつけてきたり、
議論の流れから観ると
「形式的平等」と「実質的平等」といっても、主観の解釈によって左右されるという主張と、客観的な基準があるから主観によって左右されないという主張の対立でしょう。
macskaさんは、現実的な政策議論ではいろいろあっても「概念としての「形式的平等」と「実質的平等」の区別なら明快」として「形式的平等」と「実質的平等」を定義づけた上で、明快である一つの例として、「同性結婚」を上げている
それに対して、macskaさんが例示している「同性結婚」だって、歴史的には、まさしく「形式的平等」と「実質的平等」の基準点がズレてきた例じゃんと、私が指摘しているわけですね。全体の議論には関係ないわけでも、部分にこだわっているわけでもない。
むしろmacskaさんが意図的にスルーしているのは、こういう意見
芥屋さん
>問題がこじれるというか堂々巡りになる場合は、訴える側が自分の主観を客観と思い込んだり、訴えを斥ける側が自分の主観を客観と思い込んだりするときでしょうね。
純子
>この場合、「差別」と「形式的平等」と「実質的平等」の境界線を決めているのは、その社会に公認されているコンセンサスでしょう。
ただコンセンサスはその社会に属する人々のコンセンス(良心)の総和だから、個人の良心の自由を認める限り、個々の人間で、その境界線はズレるし、だからこそ保守派と革新派の間で、さかんに議論になったりもするわけです。
)ああそうまでしてわたしに反対しなければいけない性質のヒトもいるんだなぁと思っているだけ。
macskaさん、何を「実質的平等」とするかは主観によって左右されるわけだから、「実質的平等」を主張したければ、合意形成のための努力をケチってはいけません。「もっと頑張りましょうね」とみんな激励しているわけですよ(^^)
>歴史的事実としては、こちらは反論を一切していない。同性婚はこういう論理で要求するのが本来のあり方だ、というのは、要求する論理のあり方を指図しており、それが正しい歴史観に基づいていたとしても、それだけが唯一絶対の論理であることにはならないので、妥当だとは言えません。
私の主張は「こういう論理で要求するのが本来のあり方だ」ではなく。「本来、こういう論理で要求されてきた(過去形)」。
まずは異性愛の結婚が「実質的平等」としてめざされ、それが「形式的平等」として実現した段階で、その後を追うように、同性結婚が「実質的平等」としてめざされるようになった。
この私が描いた「歴史的事実」には、まったく反論(反証)はないんですね。
だったら(異性愛者の)結婚が「形式的平等」か「実質的平等」かは、主観的な視点によって変りうるということになりませんか(^^)?
これから、先、同性結婚をめざして活動している方たちが、この「歴史的事実」をどう受け止めて、どんな活動をするかは、そりゃその方たちの自由だ。未来は過去には縛られない。ただ現在を前提にして、歴史に学んだほうが、効率はいいと思うけどね。
自分の説が反論されたからといって、詭弁を弄して「全体主義」呼ばわりするのはよくないよなあ。
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