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ttp://macska.org/article/188#comments より
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(…)こうした極端な「利己心のなさ」は、自分の子どもに対する「アシュリー療法」を求めている親の発言に繰り返し見られるパターンであり、それは社会が親たちーー特に母親ーーに要求する、完全に利己心のない、献身的な(母)親という非現実的な理想像あるいは神話の反映であると Dreger は指摘する。
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「こうした極端な「利己心のなさ」」の強調は、「アシュリー療法」的なものに対する倫理的な批判に対応するものと考えるのが普通でしょう。
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特に重度障害児を生んだ母親は、「お前は妊娠中にアルコールや煙草や麻薬を使用したのではないか、胎児の健康を損なったのではないか、全てはお前の責任だ」という世間の厳しい視線に晒されることで、なおさら「利己心のなさ」をアピールしなければいけないという強迫状態に囚われているのではないか。
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なので、これはコジツケも甚だしいと思います。
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Dreger が言わんとするのは、親の利己的な都合によって「アシュリー療法」を正当化して良いという意味では★もちろんない。
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ほらね。
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ただ単に介護の辛さや将来への不安というだけでなく、Dreger が言ったように、かれらは世間の「そんな子どもを生むとは、あなたは一体妊娠中何をやったのだ?」という視線に日々晒されてきたのだろう。
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したがって、こんな意見は事実の捏造としか思えませんね。
というかそもそも、親に身に覚えがない場合は「アシュリー療法」が自動的に正当化されるわけではないのだから、母親(若しくは親)に対する世間の厳しい視線は、母親(若しくは親)が「利己心のなさ」を強調する動機にはならないでしょう。
その自己責任論に動機があるとすれば、「アシュリー療法」=非倫理、の価値観が前提になっている場合に限られると思います。
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