| |
アニキは寄せては返す「波」のような動的な文体で書く人ですが、書く頻度にも大きな「波」がありますね。というより、彼の大きな波のような身体リズムが文体に現れているのかもしれません。
社会学者の大澤真幸はオウム信者たちを「アイロニカルな没入」と呼びました(ちくま新書『虚構の時代の果て』)。意識の水準では麻原の「虚」に対してアイロニカルな立場を取りつつ、行為の水準ではその「虚」の審級に準拠し、「虚」に内在してしまう。平たく言えば、ウソと分かっているけれど、行動はそのウソを真実として演じる。この時、自己の「内面」は、もはやそこに準拠して行動する場ではなくなっている。
「失言」に対する世間の態度も少し似ているような気がします。久間発言に心底怒っているわけではない。「けしからん」という与野党・左右を問わぬ声及びそれを伝えるマスコミ報道に、「所詮『失言』が政治や選挙の道具になっているだけだよな」というふうな「距離」を取っている。しかし行動の水準では、「あれは被曝者をはじめとして世間の人々を怒らせるひどい発言だった」という、自己の内面に立脚しない「虚構」に依拠する。そこから現れる最大公約数的意見は「私個人は別に怒ってはいないが、立場をわきまえぬ発言をした久間は大臣として失格」という感じではないかと思います。そしてその結果が内閣支持率低下等として現れ、それがまた「やっぱりあれはひどい発言だったのだ」という「他者の怒り」と「許されぬ失言」という判断への信憑を強める。
昔に比べれば人々はある意味賢くなりました。新聞やテレビの情報を頭から信じる人は少なくなりました。いわばそうしたものにアイロニカルに接するようになってきた。ところがそれと反比例するように、自らの行動の基準を「虚」たる他者に置くようになる度合いが強くなっているのではないか。意識と行動が乖離し、その乖離を矛盾なく生きることに慣れてきているのではないか。しかし乖離は乖離だから、時に「こんな行動を取っている私は誰?」という疑問が起こる。いや、「私は誰?」という内面の喪失現象こそが行動を虚の水準に委ねてしまう原因かもしれません。
「失言」への国民的非難は原爆への怒りが依然として強いことをではなく、怒りが形骸化していることをこそ示しているのだと思います。
ちなみに私は「失言」を出るべくして出たもの、それどころか誰かが言わねばならなかったものだと思います。欺瞞的な家族ごっこを演じている家庭で、子供の一人が非行に走って家族ごっこをぶち壊してしまうとき、その非行は起こるべくして起こったものだと言いうるような意味で。
原爆を、原爆だけではなく都市空襲による無差別殺戮も、戦後の日本は事実上「しょうがない」ものとして扱ってきた。そう扱わざるをえなかった。戦前を全否定することとセットで。そしてそこに平和国家だの平和都市だの非核三原則だのといった「平和な家族ごっこ」を覆いかぶせてきた。おっちょこちょいの久間氏はついぽろりと言ってしまった。思わず万引きをしてしまった「平和な家庭」の子供のように。
|
|