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>それこそがモダーンな、『洗練された表現行為』というヤツではないでしょうか?
>裏返せば「個人の内実に基づいたもの」など誰も求めてはいない。と。
「誰も求めてはいない」は言えてます。その手のものから距離を取り、茶化し、笑いのめすのが80年代的ポスモダゲームだったわけで、それを洗練と言えば言えなくもないでしょう。しかしそのゲームの参加者が湾岸戦争というリアリティに直面して言葉を失ったり、オウムのような虚構に簡単にやられたりするのを見ると、あまりにもひ弱な洗練だったのではないでしょうか。
猫まんこさんは「表現行為」に照準を合わせて語っています。仰る通りなのかもしれませんが、読みながら私はトーマス・マンの「生vs.芸術」という古典的な二律背反を思いました。生の充溢と芸術とは逆比例する。ブッデンブローク家は代を替えるごとに生命力を失い、没落していく。対して、芸術的感性は洗練の度を増し研ぎ澄まされていく。
かつて「最近の子は鉛筆もろくに削れない」という年配者の言葉に対して「でも僕たちはあなた方の弾けないギターを弾くことができる」と若者が返したという話がありました。刃物もギターも両方、というわけにはなかなかいかないんでしょうかね。
>確かに武器=道具でしかない『原爆』のみを問題視してそれを悪意をもって落とした当事者=アメリカに対する『感情』をスルーする事は、例えそれが親であれば、そんな親をみて子供は「情けない、欺瞞だ」と思うかもしれず、また違う子供であれば、そんな親を「立派だ」と感じるかもしれませんが、いづれもそれが、その子供たちが親のようにならない(あるいはなる)事を意味するものではありません。
子供がどうなるかは不可知ですね。だから「こうすれば良くなる」という分かりやすい処方箋は眉唾でしょう。
それは別として、私はアメリカを非難すべしとはあまり思ってないんですね。「安らかに眠ってください/過ちは繰り返しませんから」という主語も批判も明示されぬ碑文が私は割と好きで、理由は、起こったことを受容した上で未来に向かう集合的意志をここに読み取るからです。あえてそう読み取るというだけですが、ポイントは「過ち」が過去の受容(赦しではない)なのか否認なのかです。
岸田秀の良き読者である猫まんこさんには賛成反対は別として言わんとすることは伝わると思いますが、彼に「自己嫌悪の効用」というエッセイがありますよね。戦後日本は彼のいう自己嫌悪をやってきたと思うのです。自分(のある一部、責めやすい部分)を責めることで、責めている「真の自分」なる虚構を拵えるという、「卑劣」なことをやってきた、と。戦後の「反省」とは否認すなわち「嫌悪」だった。これをそのままアメリカへ非難の向きだけ変えても自罰が他罰に替わるにすぎず、単に「嫌米」になるだけでしょう。マックを頬張りながらの嫌米。
「しょうがない」はそこを期せずして突いている。「否認」や「嫌悪」は対象を変えません。変えるどころか強迫的に反復するしかない。隠された目的が「真の自己」の捏造ならば当然そうなるでしょう。対象を変えるのではなく温存してしまう否認は、見かけとは異なり、何も変えないこと、つまり「しょうがない」としてうっちゃってしまうことと大差ありません。久間発言はそこを突いた。それは久間氏の意図の問題ではなく、受け取る側の問題です。「しょうがない」への非難もまた久間批判の形をとった自己嫌悪のように思われます。
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