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>>確かに武器=道具でしかない『原爆』のみを問題視してそれを悪意をもって落とした当事者=アメリカに対する『感情』をスルーする事は、例えそれが親であれば、そんな親をみて子供は「情けない、欺瞞だ」と思うかもしれず、また違う子供であれば、そんな親を「立派だ」と感じるかもしれませんが、いづれもそれが、その子供たちが親のようにならない(あるいはなる)事を意味するものではありません。
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>子供がどうなるかは不可知ですね。だから「こうすれば良くなる」という分かりやすい処方箋は眉唾でしょう。
>それは別として、私はアメリカを非難すべしとはあまり思ってないんですね。「安らかに眠ってください/過ちは繰り返しませんから」という主語も批判も明示されぬ碑文が私は割と好きで、理由は、起こったことを受容した上で未来に向かう集合的意志をここに読み取るからです。あえてそう読み取るというだけですが、ポイントは「過ち」が過去の受容(赦しではない)なのか否認なのかです。
私にもおそらくJosefさんにもアメリカを憎む理由はないでしょう。「〜ねばならない」と言われても憎む感情が涌いてくる事もないでしょう。一応。
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>岸田秀の良き読者である猫まんこさんには賛成反対は別として言わんとすることは伝わると思いますが、彼に「自己嫌悪の効用」というエッセイがありますよね。戦後日本は彼のいう自己嫌悪をやってきたと思うのです。自分(のある一部、責めやすい部分)を責めることで、責めている「真の自分」なる虚構を拵えるという、「卑劣」なことをやってきた、と。戦後の「反省」とは否認すなわち「嫌悪」だった。これをそのままアメリカへ非難の向きだけ変えても自罰が他罰に替わるにすぎず、単に「嫌米」になるだけでしょう。マックを頬張りながらの嫌米。
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>「しょうがない」はそこを期せずして突いている。「否認」や「嫌悪」は対象を変えません。変えるどころか強迫的に反復するしかない。隠された目的が「真の自己」の捏造ならば当然そうなるでしょう。対象を変えるのではなく温存してしまう否認は、見かけとは異なり、何も変えないこと、つまり「しょうがない」としてうっちゃってしまうことと大差ありません。久間発言はそこを突いた。それは久間氏の意図の問題ではなく、受け取る側の問題です。「しょうがない」への非難もまた久間批判の形をとった自己嫌悪のように思われます。
今でも、終戦記念日とかに繰り返されるような反戦ドラマがあるでしょう。
そこで描かれる戦時中の日常は大体一緒ではないでしょうか。
一般庶民は日常の平和を愛しながら、しかし軍部(政府)の目を恐れそれを口には出来ず、憲兵は高圧的で恐ろしく、、、といった。
そして日本が戦ってるはずのアメリカは描かれない。
まるで、一般庶民が、日本軍部と対立してるような。
それは放送局の上層部の意向とかあるのかもしれませんが、それだけでなないでしょう。
視聴者が抗議することなく、もう何十年も続いて、みんなおとなしく見てるのですから。
これらに対して、アメリカ側から「硫黄島の手紙」とかが上映されると日本人はどのように・誰に感情移入して見るのでしょう。映画自体には興味がありませんが。
これとか昭和天皇を描いた「太陽」とかは日本人からでは中々作る事はできないでしょう。
それはタブーというより盲点になってる部分があるように思えます。
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