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>例えば、風俗、ポルノを含めた、「性」を対象とした表現=産業はとても大きく「豊か」です。
>それを私は「ヒトの性が豊かで自由になった」と表現します。
>しかし、それは同時に「ヒトの性が貧困になり、不自由になったのだ」という意味を含みますし、両者は矛盾しません。
自由のパラドクスに似てます。不自由な時には自由の「快」を求めるが、自由になると「快」が減り、逆に自由自体が苦痛となって制約=不自由を求める。渇いた時には掬って飲む川の水でも極上の味だが、あの水この水といっぱい水がある時にただ味のみを求めて飲む水は大して旨くない。ビールを旨く飲むためにわざわざ運動して汗をかいて渇いた状態に持っていくという人も少なくない。「大人は分かってくれない」と文句をいうガキも、物分りのいい大人ばかりになると厳しいことを言ってくれる大人にゴロニャンと擦り寄っていく。
性への抑圧が強い時ほど性への希求も強く、快楽もまた大きい。性が自由で選択肢がいっぱいある時には性の快楽は減じる。不倫が「いけないこと」でなくなれば不倫ならでは快楽も無くなる。
豊かさは同時に貧しさであるわけですね。
>『生の充溢』とはいかなる物なのか。
>自身の身体的な万能感を拡大し、世界(観)を拡大するという事ではないでしょうか。
大きくいえばそうですが、もう少し「生」と「芸術」の二分法にこだわってみます。。
またしても岸田秀で行きますと、彼は本能で生きる動物を理想化しているところがありますね。曰く、現実とぴったり密着して生きている、と。岸田秀の図式でいえば「生の充溢」はこの動物の生にあたります。
でもそれだと本能の壊れた人間に「生の充溢」は不可能だということになる。そこで「生vs.芸術」を「本能/幻想」の図式からもう一つの図式、「共同幻想/私的幻想」にずらしてみましょう。
環境の与える価値観にすーっと入って行けてその中で生き生きと生きられる人と、既存の価値観を我が価値観とすることができず不安定な生を生きる人とがいるとします。前者は所与の共同幻想を「現実」としてその中を生き生きと生きていく、後者は所与の共同幻想に馴染めず、未だ「現実」化していない私的幻想の中を不安定に漂う。この場合、前者が「生の充溢」で後者が「芸術」です。あくまでも相対的なものですが。
>『芸術』というのもそういった方便のひとつではないのでしょうか。
>古代の王がピラミッドや様々な宗教施設を造ったのもそういう理由だと理解出来ないでしょうか。
上記の「共同幻想/私的幻想」で言うと、古代の王の「永遠の生命」のようなものは宗教、つまり当時の共同幻想と繋がっていたと思うのです。その意味で近代以降の、個人の私的表現と見なされる「芸術」とは異なっていたと言えるでしょう。もちろんこの辺は芸術の定義次第でどうとでも言えるところですが、近代において芸術が王や神や祭祀に奉仕する従属的な役割からそれ自体としての価値を担う自律的なものとなってきたことは押さえておくべきだし、それなりの区別があってしかるべきなのではないかと思います。
実業家として成功し財を成して息子に跡を継がせる人は、共同幻想の中で成果を上げる人と言えるでしょう。跡を継いだはいいが、社会的成功にも後継ぎを作ることにも関心が無くぼんやり空想にふけって事業を傾かせる3代目は私的幻想に生きる人でしょう。
もちろん大きく言えば、猫まんまさんの言う通り、人間は「肉体を離れた自我=物語を生きて」おり、自我の拡大を願う生き物でしょう。この点では古代人も現代人もありませんが。
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