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><超越論的主観>(≒意識の枠組み)、そしてその構成要素である[超越論的自我(純粋自我)](≒意識の働き)と[意識的相関者(意識の素材・知覚・表象)]などがごっちゃになっているだけではないでしょうか
ええ、いろんなことがごっちゃになって、全部クオリアでいけるという感じなんでしょうね、よく分かりませんが。
>あとどーなのかな、「主体(被分析者・患者)」「私」「自我」を厳密に区別する(らしい)精神分析の立場からの疑問の矛先が、茂木というのはちょっと的外れというかコクな感じもします。
本来はそうだと思います。「本来」というのは私が理解した「クオリア」の意味からすれば、ということで、ラクシュンさんの指摘からはズレているかもしれませんが。
「本来」、クオリアとラカンなどのいう意識・無意識とはあまり関係がない話ですね。後者は「構成されたもの」です。その「構成」は言語とも深く関係しているわけですが、クオリアは本来、言語や言語的構成以前のレベルにあるものでしょう?言い換えれば脳の働きに直接発するもの。だから脳科学を専門とする茂木の議論に期待するわけで。ところが、「この私」のような構成されるものに対してまで同じ理論装置で説明しようとするとトンデモになりやすい。
精神医の中井久夫が、統合失調患者の感じる強烈な「恐怖」は、動物的レベルの恐怖が言語的に構築された「私」を突き破って現れるものではないか、という意味のことをどこかに書いていました。動物的レベルの恐怖とは(原初的恐怖といってもいいでしょうが)、たとえば動物が捕食者に追い掛けられる時に覚えるであろう恐怖です。それが何らかの変調によって、構成された意識の網の目を突き破るようにして出てくる。だとすれば、これ、まさにクオリアです。
統合失調が「精神分析」だけでは治せず、脳に直接作用する薬を使う必要があるのは、「恐怖」を含めてその病因が「構成された自己」の内にではなく、何よりもまず脳にあるからなのでしょう。
私の理解するクオリアとは、まずはこのような直接的感覚です。アリアリとした、イキイキとした、ナマナマしい、原初的な疑いえない感覚です。斎藤は次の文を「典型的な脳還元主義」として批判的に引用しますが、茂木的にはこれが出発点だったはずです。
******引用開始(茂木氏の文章より)******
「<クオリアの先験的決定の原理=認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火パターンと、クオリアの間の対応関係は、先験的(ア・プリオリ)に決定している。同じパターンを持つ相互作用連結なニューロンの発火には、同じクオリアが対応する>
この原理が主張することは、「クオリア」自体は、経験や学習に依存して決定されるのではなく、それ以前に決定されているということである。認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火パターンとクオリアの間の対応に、任意性あるいは変化の余地はなく、その対応関係は必然的であるということだ」(『脳とクオリア』日経サイエンス社、一七一頁)
******引用終了(茂木氏の文章より)******
これが批判対象になってしまうのは、茂木がクオリアでもって「この私」なんてものまで包括して論じようとするからですね。それどころか「倫理」まで言い及んでいるそうではないですか。遠い将来にはそれが可能であるかもしれないということはまあ留保しておくとして、大脳の大半がまだよく分かっていない現在においてそういうことをもっともらしく語れば、一方では似非科学、他方では思想・哲学の生齧りになってしまうのは当然かなと思います。
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