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>Josefさん:
>例外もあるかもしれませんが、一体に、テレビ媒体は「リアル」を求めてはいないのでしょうね。なんたって「リアル」は疲れる。大体、「リアル」には終わりってものがない、カフカがいつも未完であるように。その点、予定調和の虚構の方が楽でいい。人々の集合的欲望(または相互主観的欲望)におもねるのがテレビの最大の役割でしょう。
まさしくそれだ、と膝を打ちました。「お決まりの」「定番の」という構図のもたらす安心感や爽快感というものが、視聴者の求める最大の要素であり、そういう商品を繰り返し異曲同工で作ってゆく。
『忠臣蔵』の世界とでも言いましょうか、勧善懲悪の明快な復讐劇。そこには、「実際に彼らはどうだったのか。事実はどのようなものだったのか」という探究心は余計なものであって(それはあくまで史学的な快感)、大衆演劇としての醍醐味はそのような「リアルの追求」は求めない。
では聴衆・観衆は、いったい「お決まり、定番」の何を愉しんでいるのか。それは、同工異曲の「異曲」の部分にもあるわけでしょう。要するに、役者の演じ振り。お話は決まっているのだけど(そこでの安心感や爽快感を愉しみつつ)、決まった役割…吉良や大内を誰がどう演じて見せるかを愉しむ。
だから余談になりますが(話はそれますが^^)、欧米の芸術的なリアリズム手法の映画に見られるような「役柄に徹しきって演じ方を変える役者(自分個人のキャラを押し殺す役者)」よりは、「どの芝居でも同じような演じ方をする役者(自分個人のキャラを押し出す役者)」のほうが日本では育つ。それを悪く言う人も多いけど、私は単に芝居のあり方の違いから来るものだと思います。
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