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>Josefさん:
>猫まんまさん
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>>私は番組上のバランスなどどうでもよく、一分先の展開すらまったく読めないもののほうが余程「リアル」だと思うんだけどなあ。
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>私も同じように考えています。
>たとえばカフカの小説は「不条理」とか「悪夢のよう」などとよく言われますが、どんな「リアリズム」小説よりリアルです。(ちなみに"Josef"というHNはたまたま思い浮かんだ『審判』の主人公の名前を何のひねりもなく安直に借用したものです)
>
>例外もあるかもしれませんが、一体に、テレビ媒体は「リアル」を求めてはいないのでしょうね。なんたって「リアル」は疲れる。大体、「リアル」には終わりってものがない、カフカがいつも未完であるように。その点、予定調和の虚構の方が楽でいい。人々の集合的欲望(または相互主観的欲望)におもねるのがテレビの最大の役割でしょう。私はドラマはほとんど見ませんが、スポーツ番組でその欲望を満足させていただいてます。
>
機能主義なんですね。
日常に亀裂を生じさせて、その間に「リアル」を現出させるのが通常の「表現」とすれば、TVの「プログラム」は日常を維持するための装置。
家電などと同じでしょう。
Josefさんは異論があるかもしれませんが、TVの番組である以上スポーツも同じであると考えます。
実況がウザイとか、タレントを意味なくよんで番宣させるとかをなくしても、TVのフレーム上に存在する以上、破綻のないドラマにしか過ぎません。
しかし、TVの番組でありながら、スポーツを「スリル」あるものに回帰させる案はあります。
聞きたいですか?
Josefさんがそれを受け入れられるかどうかまでは自信がありませんが。
>ところで岸田秀はアメリカと日本の関係を男と女の関係になぞらえて語っていましたね。ラクシュンさんが忌み嫌うパターンとは、善玉日本(女)が悪玉アメリカ(男)の上に立つというパターンなのではないかという私の見方も大外れではないでしょ?
>そしてそういう男女関係の表現パターンにラクシュンさんがことのほか強く反応するのは、実は別の面ではラクシュンさんが力道山的パターンが大好きであるからかもしれません。
>
確かに「『リアル』は疲れる」し、「『リアル』には終わりってものがない」でしょう。それは表現の「リアル」が我々の日常を侵すからでしょう。だからこそ表現に意義があるのでしょう。
それは、表現の本質が、それがどんなに表面的には美しくても、野蛮で暴力的だからでしょう。
TVの「プログラム」も根源的にはそういう性質あって、だからこそ、一見何でもないと思われる「TVドラマ」でも、例えばラクシュンさんには暴力的に響く。
それは、ラクシュンの個人的な資質の問題に還元してしまうのではなく、やはりその「プログラム」に投影されてる部分の問題だと思います。
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