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猫まんこさん
>つまり、何が「リアル」になりえるのかは、その置かれた状況しだいだと。
>Josefさんがそのように理解している、と受け取っていいのでしょうか。
ではなくて、「リアル」という語が文脈と矛盾していなければ気にならないということです。
猫まんこさんが使った「リアル」、それを受けて私が使った「リアル」、またそれを受けて芥屋さんが使った「リアル」、それぞれ指示するものがズレていても私的にはOKということ。「Josefにとってのリアル」を他人に分からせようとは思いませんし。
■スポーツについて
革新的なご意見をありがとうございます。
疑問に思うのは、「敗北は死」とすると、それは定義上「スポーツ」ではなくなってしまうのではないかということです。文字通り「真剣」勝負ということで観る者の緊張感は高まりますが(もちろん競技者も)、「真剣」はスポーツではないでしょう。
まあそこはスポーツ常識を変えちゃえばいいとして、そういう勝負が「競技」としてテレビで放映されるようになると、最初のうちは超刺激的でしょうが、そのうち「エロス」にも「死」にも慣れてしまって刺激は薄れるんじゃないかと思います。「人間という卑劣な動物は何にだって慣れっこになっちまうんだ」は『罪と罰』のラスコーリニコフの台詞ですが、「もっと刺激を」という方向は早晩「慣れっこ」という行き詰まりにぶつかって先祖帰りしていくのではないかと。
ルールというのは一種の足枷・手枷ですが、結局のところ、この手枷足枷が絶妙のところに設定されているスポーツが人気を得るのでしょう(将棋のようなゲームも同じ)。自由すぎてもつまんない、不自由すぎてもつまんない。難しすぎても易しすぎてもつまんない。
ところで猫まんこさんがエロスに拘るのはどうしてなんでしょう?私は「裸」って、スポーツとしてもギャグとしても全然面白いとは思わないんですが。ライヒの影響とかあります?
■テレビ
>ラクシュンさんも、これがTVというメディアではなければそんなに不快感を感じる事はないのではないでしょうか。
これはちょっと分かりません。
ラクシュンさんの不快感を私はまだよく理解していませんが、それでもけっこう大事なところに触れているのではないかという直感があるんですよ。それがテレビというメディアに密接に関わるものなのかどうか、それもよく分からない。
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