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猫まんこさん、お久しぶりです。
>ところで私は今騒がれてる【亀田問題】についてはどうでしょう?私はこれが面白くて面白くてしょうがありません。
そろそろ飽きてきたんじゃありません?
ボクシングの好きな私としては、「リング内」では亀田の乏しい実力と、内藤が三流のチャンピオンであることが、「リング外」では持ち上げるせよ引き降ろすにせよ人々が過剰に「物語」を欲していることがはっきり見えたかなあという感じです。
十何年か前、ある同人誌に「物語」の過剰について書いたことがあります。その時私が取り上げたうちの一人がまだ現役で戦っていた(しかし「伝説」には翳りの見えていた)辰吉丈一郎で、主旨は辰吉の才能は「物語」によって殺されたというものです。
17歳で、ほとんど左ボディーだけで史上最年少の社会人チャンピオンになった辰吉の才能は疑うべくもない。その上、父子家庭、札付きの不良、中卒、という「いかにも」な条件が揃っていたため、プロデビュー前から矢吹丈ばりのヒーロー伝説ができてしまい、辰吉も周囲もこの「物語」に沿った言動と拳闘スタイルを貫くべく強いられた。
高度に発達した現代ボクシングにおいて、ロマン主義的な「天才」など何ほどのものでもありません。昔なら卓越した個人の腕を必要とした物品を現代では凡庸な人々がマニュアルに従って大量生産してしまうように、卓越した拳闘の「才能」はもはや訓練された「凡庸」に勝つことはできない。ところが辰吉はガードを下げ、上体でパンチをひらりひらりとかわしながらピンポイントカウンターを叩き込むという「天才」スタイルを採用した。自分を「物語」に同一化させてしまった。パンチドランカーになるのは必然でした。
鬱陶しい「物語」の氾濫の中、私が唯一感動したのは、初めてチャンピオンになって泣きはらした辰吉が「ボクシングやってきて良かったですね」と声を掛けられたとき、「というより、生まれてきて良かったというか・・・」と応えた、演技を感じさせない肉声でした。
亀田のリング外「物語」は辰吉の劣化版です。何しろ彼には「才能」がない。私は辰吉の姿に「悲劇」を予感しましたが、亀田の場合は「喜劇」です。いずれにしても虚しい。そこからは肝腎の「拳闘」が脱落しているのだから。
>ラクシュンがドラマに感じてる不快感と世間が亀田に感じてるであろう不快感を重ね合わせてみると面白く展開しそうでもありますし。
テレビというお気楽な物語生産装置抜きには語れないのでしょうね。
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