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何事かが憎くてしょうがないとき、憎む対象と自分とが同型になってることがよくありますね。憎むという心的行為が主客を似せてしまうのか、もともと似ているから憎く感じてしまうのか。
権力や抑圧をやたら憎む人々が支配権を握った時、以前の権力者以上に権力的・抑圧的になってしまうことは歴史上でも日常でもよく観察される事実でしょう。左翼とかフェミへの反感の一部には、彼らの言動にそういう可能性を直感的に感じるというところがあるんじゃないかと思います。
ところが、左翼とかフェミといったものに対して、なんか嫌だなというレベルを越えて、憎くて仕方がないというレベルになってくると、今度は当人とその憎む対象との同型性が感じられるようになる。ありとあらゆるところに「フェミの悪影響」なるものを「見出して」しまう、なんていうのは、まさに当人が当人の把握する対象とそっくりになってしまっている例でしょう。
話は違いますが、私が星野・田淵・山本のお友達スタッフを嫌うのは(一人一人は嫌いではありません)、私が同じような立場に立てはお友達スタッフを作るタイプだからだろうし、サッカーの岡田次期監督が嫌いなのは私の中にある評論癖みたいなものを彼に感じるからだろうと思います。
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