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> 専業主婦という「アンペイドワーク」の過酷さ、理不尽さを告発しつつ、その中を逞しく生きてきた彼女らを賞揚するという感じですか。たとえば差別された民の状況を告発しつつ、過酷な差別にもめげず強く生き抜く彼らを賞揚するみたいな。
作者の意図としてはそうなのかも知れませんが、私の印象では「理不尽さを告発しつつ」というのがそうはなっていないというのか。見方によっては無理なく主婦への理不尽を肯定していると読み取れる内容が問題であったりするわけで。
>ドラマではこれが、芸術家(差別者)と弟子(被差別者)の関係にシフトされ、弟子が過酷な状況にあることは確かだが、それに負けて犯罪を犯してしまう点で、同じ立場にある「専業主婦」に比べると比較を絶して劣っていると。
作者とその虚構世界の女署長の意図はそうかも知れませんが、弟子がキレた理由は、いいように搾取されている(そこそこ生産性があった)にも拘わらず人格を踏みにじられるほどの罵倒が挑発的になされたうえにクビを言い渡されたということのようでした。だから「負け」る負けないという区別から言えば、夫をかなりの面でバックアップしている主婦が「オマエみたいな役立たずはもうイラない! 離婚だ! オマエなんかにヤル金は一円もない! とっとと出ていけーっ!! (ここで夫の高笑い)」、という理不尽の典型的状況において専業主婦が負けない(キレないしかつ殺人も犯さない)という前提がまずなければなりません。しかしそんな前提なんてどこを探しても見つからないんですよ。
どこかにあるんでしょうね?
というか、むしろその種の理不尽の極みに立たされた妻(女)が犯した犯罪の倫理的正当性(情状酌量事案)を、夫=悪の図式から逆照射することこそが「さくら署の女たち」のようなギャグ的カテゴリーに属するドラマの眼目だったりするわけでしょう?(笑)
>そして、そういう比較や比較の前提自体がおかしいだろと言っているのがラクシュンさんで、そういうありえない比較を比較しうるかのように並列させるところに、このドラマのおぞましいイデオロギーが露出している、というふうな理解でよろしいですか?
だいたいの線ではそんな感じだと思うのですが、私がひっかかるのは、経済学的原理から直接演繹されたようなシナリオのなかで写真家の弟子を平然と批判できるなら、その女署長自身はどうなのかというところですかね。
この筋書きを貫徹している原理に基づけば、(独身と思われる)女署長自身にリストラされた夫がいるだけで自動的に夫に対する理不尽を肯定する立場に立たされてしまいます。「支える」「支えられる」の区別を強引に導入したのは自分だから。 にも拘わらず、弟子を「人を支える」立場から批判している…。
結局、「影」で「人を支える」過酷(?)な立場から弟子批判(二重の裁き)を演繹するには、自分自身が産出する理不尽の前提が不可欠だったという能天気な話でいいのかな。
よく知りませんけど。(笑)
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