| |
バジル二世さん
>「差別」しているのは、「権力」を持っているのはどちらなのか、というのは立ち止まって考えるのに、意義のある問いだと思います。しかし、男女どちらかの一方だと簡単に答えを出し、硬直的にその答えを死守する人たちがいます。その問いに沈黙せずに、問われれば問われるほどに自分たちの主張を言い立てますね。そうした人々がどんなものを根拠にしているのか、何をなえがしろにしているのか、考えてしまいますね。
ありきたりですが、自分の状況に不満があると、他人や社会のせいにしたくなる(逆に自罰的になる人もいますが)。本当に他人や社会のせいかもしれないけど、あまりにも性急に結論を出し、その結論に固執する。よくあることだと思います。
とりわけ、その結論を出してくれている思想体系があるとすっかりハマってしまう傾向があるようです。その体系にすがってしまう。自分の頭で考えたことなら、よほどのナルシストでない限り「自分が間違ってるかも」という疑いもあるものですけどね。
以下、バジル二世さんがラクシュンさんに書いたことへの感想です。
>一部の暴力的なフェミ言説は別としてですね、フェミが扱った問題が、「願われた女性差別」ばかりであったとは言えないと最近思うようになりましたよ。(バジル二世さん)
その通りだと思います。フェミが言うことやることが全部間違ってるなんて言うのは、反フェミルサンチマンに凝り固まった人だけしょう。
その上で、個別の案件がどこにどう位置づけられるかというところにフェミと非フェミの境界が(ぼんやりとした境界ですが)あるのだと思います。
バジル二世さんが例示する「職場結婚した場合、男女どちらかが辞めるという決まり」を無くすべきと考えるのはフェミだけじゃなくて、非フェミ・反フェミを含む相当多数の意見だと思います。フェミの一般的特徴は、このような個別案件を歴史的・社会的な女性差別構造という「大きな物語」の中に位置づけようとするところにあると思います。
90年代、HIV訴訟で被害者側を支援した小林よしのりが、訴訟の和解後も公害被害一般や日本の戦争責任追及などでボランティア活動を続ける若者たちに向かって「日常に帰れ!」と一喝しましたね。最初は一つの問題にコミットしたつもりが、「運動」に参加するうちに離れられなくなる。一つの案件が解決しても、それをもっと「大きな物語」の中に位置づけ、その物語の関連の下に別の案件を次々と見出し「運動」を継続していく。この種の誘惑は社会運動に関わる誰にとっても他人事ではないのだと思います。
フェミの主張は個別にみればなるほどと思うことが沢山あります(マルクス主義だって何だってそうですが)。にもかかわらずフェミが多くの人から敬遠されるのは、個別案件に関するもっともな言説の背後に大きな正義の物語を抱えていることが見てとれるからじゃないかと思います。外野から見れば宗教です。左翼陣営崩壊後はその物語もだいぶバラけて来た感はありますが。
|
|