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芥屋さん
>ところでラクさんは、「実在」という言葉をどういう意味で用いています? 私なら「人間の五感で知覚できる存在」といった対象を想定します。
私では、とにかくどこかに実際に在るという意味です。
【実在】(哲)一般には、観念・想像・幻覚など主観の所産に対し、客観的に存在するもの、またその在り方。
>まぁその「ドラエもんそっくりの宇宙外生命体」が、こちら三次元の宇宙を創始して今も某天体に内在して活動中だというんなら別ですが、そうなると、宇宙を超越しているのか構成物のひとつなのか、えらく矛盾した観念だと言えそうです。
【超越】(哲)イ、一般にある領域の外にあること。例えば、意識から独立な存在、世界の外にあるものとしての神についていう。
だから、神=実在、でしょう?
>そこが、科学と衝突するタイプの「神」と異なるところです。「どこと言えば無限に」「いつと言えば永遠に」存在しているんだというのが、超越した存在としての絶対神というものだと、そういう意味で私は(Josefさんも?)考えております。
だからと言うか、それだったらそんなものは無いということなんですよ。
Josefさん
>科学の扱い得る領域には「無い」でしょう。
科学を抜きにしても、有神論者の頭の中にしかないものを在るなんて言えないと思いますけど。
>前者からみれば、後者は神を「実在」の次元に引きずり下ろしたのです。
そこで前のレスに戻りますが、前者=パスカル、後者=デカルトという意味ですよね(最初逆かと思ってた)。
同じキリスト教信者であっても、パスカルの神が本物の神(?=科学と棲み分け的に両立できる神)で、デカルトの神は科学と対立して撃退されてしまうからニセ物だみたいな、そんな理屈で扱われてしまう「神」観念自体がオカシいと思います。
この二人について言えば、私の(ショボ)知識内では、デカルトのほうがまだまとも(謙虚かつ超越的)で、パスカルとその神はペテン師的ですね。
「パスカルの賭け」なんて、宗教=神の詐欺性やいかがわしさモロ出しです。
あの賭けにはすでに有効な反論がいろいろあるようですけど、ある隠れ前提(≒一神教は複数ある。多くの場合改宗には罰が下るという共通ルールがあることとその知識)を追加すればパスカルの論理形式自体が成立しないようです。
成立するのは、既にキリスト教を信じきっている人に限られそうなもよう。
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