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芥屋さん
>ようするに、三輪山という自然物それ自体が神様なのですよ。こうした形態は北陸の白山信仰など少なからずありますが、ようするに「その山」「この川」「あの海」という、それ自体が神様。こうなると、これらの「神」は、「客観的に存在するもの」でしょう?「世界の外にあるもの」ではないですよね。
私の狭い範囲の知識内では、これは汎神論の範疇になります。しかし私の辞書(広辞苑)の何処かでは、汎神論は無神論と同等に扱われる傾向があるとも記されています。
>もちろん日本の神祇信仰の中には、観念神も人格神もあって混ざっているのですが。こうした例は、日本の神道だけでなく、世界各地にあります。
「神祇信仰」はジンギシンコウと読むのですかね。これについては後で調べてみます。しかしどうもこの種の神の信仰者は布教とか折伏とかはしないでしょう。
この種の神については私は何も言う積もりはありません。
あぁそうんだ、と思ってそれに素直に納得するだけだと思います。
>でも、人間の世俗社会というのは、グールド流の寛容こそ大切なものとするのであって、ドーキンス流の峻厳さは学問の中にとどめたほうが良いとも痛感するところですが。
私はドーキンスの著書は『盲目の時計職人』しか読んでないので、芥屋さんが言われているグールドの寛容さが何を指しているのは解りません。
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