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>肝心なのは、たった一人しか信じる者のいない神でも、信じているその人にとっては「在る」ということです。(Josefさん)
であるなら、パスカルのデカルトに対する批判は根本的に的外れということですよね。ある宗派内のある信者の宗教観に対して、その宗派内の指導的立場(何の根拠および基礎的信念に裏づけされているのか知らないけど、とにかく特権的立場)にいる人がとやかく言う筋合い自体が成立しないということですよね。
しかしこういう考え方は、何かを信じている人がいるという事実と、その信念対象(=神)が実在することを混同していませんかね。
はっきり言ってしまうと、まったく説得力がありません。
……適当な記憶と想像を交えて書くので話1/3くらいに割り引いて聞いて欲しいのですが、(私が想像する)マタギ(orエスキモー)の世界では、狩猟をする前に何らか(例:ヤマの神と見立てた何かに対する供え物)の儀式があると思うんですよ。そして、イノシシなどの獲物をしとめ(殺し)た後でもそれなりの儀式があると思うんですけどね。
だとすれば、これらの行為にはそれなりに合理的な根拠があると思うんですよ。
普段は人間が立ち入ることのない自然界は文明界とは独立の法則(ルール)が成り立っていると思います。その認識が人間にあれば、その境界を踏み越える(殺=生態系を乱す)ことの畏れを感じるだろうし、だからこそその世界では無駄な殺生はしないというルールが成り立つのだと思います。そしてそのルールを守ること自体が自分たち(マタギ)の行為を正当化し、かつその生活をも安定化させている面があるということです。
ある掲示板で、無いものが在ると考えることによって、既存の体系を支えているという主旨(例:ある空間で光が妙に歪んでいる。既存の物理学の知見からの推論として惑星の存在を仮定する。この仮説自体が既存の物理学体系を支える。ラカン理論にも適用可?)の書き込みがありましたが、これと同様に、その種のルールを支える手っ取り早い手段として、山の(?)「神」の存在が仮説的に利用されているのではないのか、などと考えたりしています。
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