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>つまらないことを言えば信者は離れていくでしょう。
という文章の中にある「信者」自体が宗教を前提としている以上、神の実在論の作用域内の話になっていますよね。
だから、そんなものはいない、のだと…。
もしあったと仮定するとしても、それは思い付き的なドラエもん的宇宙外(or外外…∞)生命体と同列の範疇にあるもので、そこから特権的に抜け出る資格の無いものだということです。
>たいていは神を科学的な意味での「実在」とは考えないのでは?たとえばキリスト教だったら、創造主ですね。創造されたものは実在ですが、創造するものは一切の実在の超えた「超越」でしょう。
私の認知環境においては、「実在」の概念に科学的なものと宗教的なものとの区別はありません。
したがって、「一切の実在の超えた「超越」」もその存在を前提した時点で既に実在です。
サイコロを見てそこに立方体としてのサイコロの存在が想定されますが、たしか現象学ではそれも(最小限の)超越だとされていると思います。しかしこれは科学的に立方体の存在が確認できますよね。目の前に現象するものは超越であってもそれには実体がある、ということでしょうか。
例えば、私たちの脳の意識内容が、マッドサイエンティストたちが管理する培養槽の中の能に入力されたセンスデータだった場合であったとしても、その可能性を私たちは「そのようなことがあったとしても、それは私たちには(科学的にも)分からない」というようにポジティブ(想定可能)なかたちで受容してしまいます。
懐疑論者は、〜だから絶対的真理はあり得ないのだ、と言いたいだけでしょうが、培養脳が在るのだ、と言ってしまえば実在論でしょう。
本当の意味で絶対的に「超越」した存在者は、実在していてもその実在を人間は想定することすらできない(=念頭にさえ浮かばない)と思います。
「否定神学」は神認識のネガティブさをポジティブに主張できているからたいした超越ではないという解釈です。
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