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ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1279992891/
のスレで、竹田の論理やエロス論そのものがフロイトの「リビドー」の二番煎じではないのか?と思ったこと。
(因みに私はフロイトの書籍はただの一冊も読んでないけど)
その意味で17番の指摘に同意したいです。
「俺は永井の「エロス原理のようなものを想定すれば、実は何でもそのエロス原理で説明がつくということになりませんか?」で竹田の主張はしびれてると思うよ。」
竹田:「(略)野球の場合はルール・ブックがあって、審判がそれを取り仕切っているが、人間の社会の場合はルールの審判者がいない。ルールがこうでなければならないという根拠もない。で、ルールはただ人々のプレイの中でだけ必ず少しずつ変わっていく。では、なぜ、ルールは変化していくのでしょう。」
といったって、「野球」やサッカーのルールだって「人間の社会の場合」のルールとして「変化」していることを考えれば理想的な対比の一項としての役割を果たしていないでしょう。
竹田:「人間のエロス性の原理は、これが面白いと思いたいから面白いことにしようというような恣意的な構造ではないんですね。また、あらゆる変化が面白いわけでもない。これは面白いぞ、と思わせるルールの変化が注目され、受け入れられる。そうである限り、どこかに面白さだとかエロスとかの普遍性を想定出来るはずなのです。」
あーあ…ゲンナリです。
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