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>ふと思ったのですが、私は永井さんの立場は相対主義の逆の立場のような気がするんですよ。
確かに、相対主義とは相容れないでしょうね。
相対主義にもいろいろあるでしょうが、たとえば永井の言う<私>のようなものがどういう社会的あるいは環境的条件から生まれるか、というふうな問いを立てれば、その問いは相対的と言えるでしょう。そういう問い方をするのは自由ですが、永井的問題とは一切関係がなくなると思います。
言い換えると、<私>を「対象」化しようとする思考作用それ自体が、テーマであるはずの<私>をただの「私」へといわば「堕落」させてしまうのですね。当然そのことは永井自身の思考にも言えるわけで、彼の論述はそうした「堕落」に自ら陥らないために相当のエネルギーが注がれていると思います。思考力よりも「筆力」の方が重要かもしれないと思うくらいに。
ラクシュンさんの孫引きを利用させていただきます。
> まさしく・この・私の存在の驚きから出発し、それが類例のないもので
>あることを力説したとしても、類例のなさというその規定が一般化され、
>類例のなさの類例を見出すことになるだろう。(『<私>の存在の比類なさ』p.78)
これが永井が避けようとする「堕落」の一形態ですね。
ここでも私が勝手に連想するのは「神(超越者)と私」のような個別かつ特殊かつリアルな宗教的体験です。その体験を語る人は当然理解されることを求めて語るわけですが、「わかるわかる」と賛同・共有され、既成の宗教の中に取り込まれる時、あるいは新たな宗教として制度化される時、元々の原的体験の個別性・特殊性は失われ、堕落します。
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