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>Josefさん:
>私は永井のいう<私>を宗教的だなーと思います。10年くらい前までの永井の本を読んだ感想で、最近どうなっているのかは知りませんが。
どうなんですかね? 2007年頃にその筋で有名らしいチャーマーズに反論するような本を書いているようですが、紹介文だったかを読む限り「<私>」は出てきていないようですけど。
>言い換えると、<私>を「対象」化しようとする思考作用それ自体が、テーマであるはずの<私>をただの「私」へといわば「堕落」させてしまうのですね。
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亀の要求が不可能であることは、その要求が終わらないことによって、そして、明示化の第一歩を踏み出すことの不可能性は、その一歩を踏み出し続けることによって、遡及的に、しかし先行するものとして成立する。したがって、亀の最初の要求を拒否し、第一歩を踏み出すことを阻止することは、いったん要求を受け入れて歩み始めてしまわない限り、できない解決方法なのである。こうして、先行する行為は遅れてやってくるのであり、「一歩を踏み出す」ことを経由することによってのみ可能になるのである。「亀がアキレスに言ったこと」というストーリーは、そのような「経由=媒介」をまさに実演しているのであり、論理的強制力はあらかじめ受け入れているしかないという「解決」は、無限後退(の可能性)においてこそ生み出されている。
゜゜゜゜゜゜『相対主義の極北』゜゜゜゜゜
(ここでの「行為」は、論理的強制力や主張力)
永井氏(にとって)の欲求(独在性への理解)が不可能なのは、その欲求が終わらないことによって、そして、独在性の伝達を開始すことの不可能性は、その一歩を踏み出し続けることによって、遡及的に、しかし先行する思考作用(行為)として成立する。したがって、その伝達行為を阻止することは、いったん行為を開始してしまわない限り、できない解決方法なのである。こうして、先行する思考作用(行為)はおくれてやってくるのであり、伝達を開始しないという解決は、それを開始することを経由することによってのみ可能になるのである。
なーんてヘンですかね。w
脚注に永井氏に対する疑問が長々と書かれていることに改めて気がついたのですが、いろいろな書かれてあって纏めるのは難しいです。
>ここでも私が勝手に連想するのは「神(超越者)と私」のような個別かつ特殊かつリアルな宗教的体験です。その体験を語る人は当然理解されることを求めて語るわけですが、「わかるわかる」と賛同・共有され、既成の宗教の中に取り込まれる時、あるいは新たな宗教として制度化される時、元々の原的体験の個別性・特殊性は失われ、堕落します。
精神分析でも、被分析者(主体)の語りに分析家が肯定的なことを言うとうまくいかなくなるみたいですし、「語りえない」何かあるものを語ろうとするとどうしてもそうなるのかも知れませね。
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