| |
話変わりますが、
論理学では、最初の命題が偽であれば、続く命題も――推論が正しければ――必ず偽になりますね。正しい推論をすればするほど偽命題が量産されていくわけです。
中国人船長は無罪であるから放免する。これを偽命題だとすれば(あくまで喩えです)、あとは正しい論理によって偽命題が次々と生み出されます。たとえば、
(1)無罪判断は検察による→超法規的措置でない限り政府が介入してはならないから論理的には正しいが、実際には嘘。
(2)元被疑者に関わる証拠品を暴露してはならない→よってビデオを非公開とするのは法的には妥当だが、実は公開を禁じるような内容ではない。
(3)公開が禁じられたビデオを暴露した保安官は守秘義務違反→法的にはその通りだが、公開を禁じるような内容のビデオではないから厳重に保管されてはおらず、一部国会議員には公開され、緘口令もなかった。こうして本件に関する限り守秘義務は形骸化し、義務のための義務にすぎなくなってしまっていた。
まあ論理学と現実とは違いますが、最初に矛盾したこと(犯罪を無罪とする)をやってしまうと、そのあとがいくら正しくても、結局は矛盾したことをやってしまうことになります。仙石官房長官の言うこと一つ一つは論理的には正しいと思いますが、実質的な正しさを持っていません。
とはいえ、何においても形式は重要だから、保安官には処分が下されるべきです。しかしそれはあくまでも懲戒(厳重注意のような軽いものから、減給、何カ月かの停職、懲戒免職に至るまで程度はさまざま)としてであって、刑事事件として逮捕するのは矛盾を拡大させるだけであろうと思います。実質的に犯罪性を持たないことを犯罪として扱うことが前例となれば、次なる悪しき矛盾を作り出すことになるでしょう。
|
|