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「何の知識もない私の「そもそもの私的な心理療法的な立場」」というのは、そものも精神分析なんてものは学問的に認められていない上に、心に対して心が反省する(orを促す)といった自己言及的な試みみたいなことには限界があるんだから、症状さえ改善すればそれでよしとするしかないだろう…という考えからのものだったんですよね。
しかし(適当な要約になりますが)それではダメだと言うのがラカン派の見解のようですよ。
引用のレニックの症例での誤りは、分析主体(患者)と分析家の二項関係(個々人の関係:これはどうも「愛」になるらしい)で治療が収束してしまっているためだということなのですね。
どうも三項(三者?)関係で分析主体に「こうなのだ」「こうあるべきなのだ」的なことを自ら悟らせることがラカン派の治療論の主眼のような感じなのですね。
だから「スカンシオン」とかいった一方的にセッションを切り上げるといった方法が採用されてしまう、みたいな感じかな。
しかし何か残るんだなー・・・
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