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>>というか、「自ら悟」っていれば、そもそも分析家の門を叩いたりしないということだと思います。
>初診は悟らないままなのは医師も分析家も一緒、悟った時が治療の一段階であるのも一緒ですね。医師/分析家の二分法はあまり意味がないみたいですね。分析家≒代替医療施療者のような感じがしたけど…。
「分析家」と「医師」は違いますよ、としか言えないです。
>ところで、基本的なことで恐縮ですが「私的な心理療法的な立場」というのはレニックの症例とどういう関係があって、レニックはラカン派とどういう関係なのですか?
「「私的な心理療法的な立場」」というのは、「症状さえ改善すればそれでよしとする」という私の精神分析に対する思い込みのようなものだったのですが、レニックはそのまんまのような治療法なんですよね。それが自ら「手の内を見せてトランプをする」とか「自己開示」みたいな文言に表れているわけで。
レニックとラカン派との違いを私なりに単純化して言うと(それしか言えないから)、例えば、我が子が万引きをして補導されたケースなどを想定すれば、父親の子どもに対する「オマエがこんなことをしたら、お父さんの出世に響くし困るんだよな。オマエだって学校を退学になれば将来的に困るだろう。だから万引きなんて止めるべきなんだよ。」という説得に「うん、わかったよ」と子どもが納得してもこれは所詮は取引に関わる「自己開示」の世界でしかないのですよね。
それがこの部分にあたると思う。
「このような会話のあと分析家は率直に、自分はアンの母親のように支配的な人物だとは思われたくないこと、アンが母親から得たと感じた無遠慮さは自分が特に嫌いなものであること、そしてそのために、アンが自分と母親を異なったように体験していると自分が確信するために苦労していたことを語った。」
このコミュニケーションはおそらく、「愛」=「想像界」にあたるのかも知れませんね。
そうではなくて、ここでは「万引きなんて、絶対にダメだー!!!」という姿勢こそが、第三項=「象徴界」=法の存在を暗示させる態度に繋がるのだー、みたいなのがラカン派なのかな、と。
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