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>法則が一般化されるときには通らなければならない道なんだろうけれど、
>その法則を無理筋だと思っている側の感覚とは摩擦を起こす。
>あるいは、ものすごい残酷物語も生まれる。精神医療におけるロボトミー手術のようにです。
「法則」は普通は絶対的なものであって、そもそも検証不可能な理論は非科学的な理論でしかないでしょう。
例の彼のことで言えば、親の死に直面する立場の人間なら、誰だって経験せざるを得ない通過儀礼みたいなものだと想像します(なので未経験な私であっても充分に想像できた)。
それは親の死を全く望んでいなかったとしても、例えば、親孝行が(たぶん充分にしていても)できなかったという取り戻せない負い目を背負い込んでしまう心理的(改悟の念的)メカニズムは大半のケースに当てはまると思いますよ。
そんなことから、「無意識」の存在やその構造がアナロジー的に推定できるはずはないだろうということです。
…とは言っても、全面的に否定するつもりはないんですけどね。というのも、精神分析理論を社会理論へ外挿することの意味を感じている私としてはですね。
しかしたぶん使い方の意味が違うんだろうなーという気がするけどよく解らない。
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